乃亜はとぼとぼと重い足を引きずるようにアパートへ帰ってきた。 途中、めぐみからメールが入った。 『自転車、お母さんが乗って行ったよ』 何処に乗っていったと言うのか…… 乃亜は完全に思考力を失っていた。 アパートの敷地に入ると、階段にはタバコを吹かす母親の姿があった。 めぐみにここの住所を訊いて来たらしい。 「お母さん、タバコ吸うの?」 「あたしも、いろいろあったからね」 そういって、乃亜を見上げた母親の笑顔は、さっき見たときよりもずっと年をとっているような気がした。
「こんな小さなアパートに一人で住んでいたんだね」 乃亜の部屋に入った母親は、そう言ってテーブルの前に座ると、辺りを見回した。 「小さいっていっても、一人にはちょうどいい」 乃亜は、母親にお茶を差し出して、向かい側に座ると少しだけ笑顔を見せた。 「あたしもあれからいろいろあって……」 「聞きたくない」 乃亜は途端に母親の言葉を遮った。 「勝手に出て行ったくせに、そんな身の上話なんて聞きたくないよ」 乃亜は俯いたまま、母親の顔を見ようとはしなかった。 自分で勝手に好きな道を選んだくせに、その事についての愚痴なんて聞きたくも無い。言い訳も聞きたくない。 あたしは選べなかった。何も選べなかった。唯一選べたとすれば、自分の命を絶つことだった。でもそれは、あの男から逃れる勇気とは別の覚悟が必要だった。 その覚悟がない自分は、結局は現実の濁流に流されながら掴まる場所も無く、ただもがき続けた。そして、溺れる寸前で、あの男は死んだ。 あたしのこれまでを訊こうともしないで、自分の事ばっかり…… 「お茶を飲んだら、出て行ってください……」 乃亜は俯いたまま呟いた。 母親は、お茶に手を付けずに立ち上がると 「ごめんね。乃亜」 そう言って、玄関のドアを開けた。 乃亜は振り向きもせずに、ドアの閉まる音だけを背中で聞いていた。 込み上げる涙の意味は判らなかった。 しゃくりあげる声が、夕暮れの陽射しを受ける小さな部屋に響いていた。
陽はとっくに暮れて、カーテンを閉めていない窓の外には、無感情な暗闇がただ漠然と広がっていた。電気も点けないまま月の薄明かりだけが差し込む静寂した部屋の中で、乃亜はベッドの上で膝を抱えたまま壁に背を着けていた。 今何時なのか、どのくらいの時間が過ぎたのかも判らない。 DVDレコーダーの小さなモニターの明かりがやけに明るく見えるが、表示している時間は小さすぎて読み取れなかった。 携帯電話の着信ランプがひと際明るく輝いて、着メロが鳴った。 乃亜はその音と光りに自分を取り戻したかのように立ち上がると、部屋の電気を点けて、携帯電話を手に取った。 着信モニターの表示は相田めぐみだった。 「もしもし」 乃亜の声は何時に無く弱々しかった。 「あぁ、あたし。大丈夫だった?」 「うん。ごめんね、カラオケ行けなくて」 「そんなのいいよ。お母さんどうした?」 「うん。帰ってもらった」 「帰ったって? 何処に?」 「知らない」 「乃亜…… 本当に大丈夫」 「うん。有難う」 「あたしさ…… 困った事があったら力になるからね」 「ありがと、メグ」
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