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作品名:DUAL 作者:徳次郎

第1回   【1】
DUAL【1】

 風はまだ時折冷たい冬の名残を感じさせていたが、公園の端に植えられた梅の木は白い花が満開で、確かに近づく春の香を漂わせていた。
 麗かに漂う雲は陽の光を浴びて真っ白に輝き、まるでその白さが地上を照らしているようで、彼方に聳える秩父の山なみがくっきりと見えた。
 西武池袋線入間駅。
 岩山のような公衆トイレが在る西口のロータリーを抜けて、ケヤキの並木通りの坂を登って行くと大きな交差点がある。
 真っ直ぐ行くとDr何とかという有名な発明家の研究所があるが、左に行くと直ぐに稲荷山公園の自衛隊基地があり、右へ進むと立派な建物の市役所がある。
 その市役所の向かい側の大きなマンション。
 12階立ての一階部分はテナントになっておりコンビニや信用金庫が入っているが、路上に面していない内側の物件はここ数年何も入った事がない。
 だから、一階部分のエレベーター通路周辺は何時も閑散として、子供の影さえ見る事は少ない。
  管理人室と書かれた部屋には、誰の姿も無く、時折よれよれの爺さんが中に座っていたりする。
 昨年ここの屋上から、中央の吹き抜け通路部分に飛び降り自殺した人がいるが、翌朝まで誰にも発見されずに通路に転がったままだった。
 そのマンションの十階の一室、薄暗いリビングで結衣島乃亜(ゆいしまのあ)は一人佇んでいた。
 目の前にあるのは土色に変わり果て、横たわる父親の姿。
 そこは、地獄でも天国でもなく、テレビと安いソファが置かれた6畳ほどのありふれたリビングだ。
 タバコのヤニであちこちが茶色く変色したカーテンの隙間から、陽の光が差し込んでいた。
 その中央に倒れた父親の顔は、眠りの中で悪夢にうなされているような苦悶に満ちた表情を浮かべたまま硬くなっている。
 しかし、乃亜にはこれから始まる自由を意味するその光景が、まるで大聖堂の天井画のように見えるのだった。
 そう、昨日までこの家はこの土色に変わった男のせいで、乃亜にとっては在る意味地獄よりもおぞましい空間だったのだから。
 母親は、彼女が十二歳の時にある日突然家を出て行った。その翌年から父親の虐待は始まった。
 誰にも言えない。誰も助けてはくれなかった。
 一階テナントのコンビニ店主は、乃亜が買い物に行くと、子供は誰もが幸せいっぱいで暮らしていると思っているかのように優しい笑みをくれた。
 でもそれは、彼女にとって何の助けにもならなかった。
 誰も知らないごく平凡な日常の中で、乃亜が向かえる夜は絶望と恥辱に満ちていた。
 乃亜は土色の骸を前に電話をとり、警察へ連絡した。
 その声は、思わず笑みが零れそうなのを抑える為に震えていた。



 自転車に乗って目の前の国道を渡り、市役所の向かい側に在る市民プールを横切って県道に出ると、市民会館の前に出る。
 その道を真っ直ぐ走り、突き当りを右へ曲がるとゆるい下り坂が続いて駅前から伸びる寂れ果てた商店街の外れに出る。
 そのT字路を左へ走ると直ぐに国道16号線がある。
 広めの歩道に沿って風を切って走り、ニッサンディーラーの前の横断歩道を渡ってファミレスの前を通り抜け、路地をしばらく行くと、右手の民家の先に学校が見えてくる。
 父親の葬儀が終わって間もない頃、春休みに入ったと言うのに、乃亜は今後の事を報告する為に学校へ来た。
 父親の葬儀は、近くの葬儀会館を借りて慎ましく行われた。
 乃亜は何とか無心を保って喪主を務めた。
 お通夜の焼香に来た担任教師は、落ち着いたら一度学校へ来るようにと言ったのだ。
 落ち着くも何もない。乃亜は初七日が終わると、直ぐに学校へ向かった。
 正門から入って直ぐの駐輪場に自転車を止めると、校庭の隅を横切って校舎へ向かう。
 運動部が盛んなわけでもないこの学校の春休みの校庭は、閑散として人影は無かった。
「じゃあ、引っ越して一人で住むの?」
 担任教師の笹沢静果が言った。
「はい。伯父が近くにいるので」
 乃亜は嘘を言った。親戚なんてほとんどいない。葬儀を出してくれた僅かな親戚も、ほとんど顔の知らない人たちだった。
 誰が何処に住んでいるかも訊かなかったし、向こうもこの先乃亜がどうするのか訊く者は無かった。
 きっとみんな、これ以上関わりたくないんだ…… 乃亜は葬儀の全てが終わって、みんなが帰宅する際に、お礼をいいながらそう思った。
「そう。お金は大丈夫なの」
「はい。当分は大丈夫です」
 お金が無いと言ったら、あんたがあたしの生活費を出してくれるわけでもあるまいし……
 生命保険のお金が下りるし、アルバイトもしている。なんとかやっていけるだろう。
 引っ越し先は決まっていると言う乃亜に、担任の笹沢は
「じゃあ、引っ越しが済んだら連絡ちょうだいね」
 そう言って慈悲の笑みを見せた。
 乃亜は校舎を出ると、堪えていたものが一気に湧き出して
「バッカみたい」思わず声にだした。
 そして、乾いた風に吹かれながら校庭の真ん中を駐輪場まで闊歩した。
 静かに流れる雲が頭上を通り過ぎると、眩しい陽射しが降り注いでいた。



   つづく…




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