会話の最中、紫里は突然僕の後ろに向かって手を振った。 繁華街から少し離れたこのファーストフードショップは学生よりも車のお客が多いから、最近よく来るのだが。 僕はチラリと振り返って紫里の視線の先を追った。 今日は日本人だ……。 トレーを戻して帰るところだったのか、紫里が手を振った相手の彼女は身体の向きを変えてこちらに近づいてくる。 黒髪を後ろで二つのお下げに束ねた少しジミ目な娘で、おそらく同じ学校の娘だろうと直ぐに判る。 今時お下げを作るこの辺の娘といえば、好聖館だけだ。 彼女は僕達のテーブルに近づいてくると、無言で両手を動かしてジェスチャーを見せる。 驚く事に、紫里も無言で笑ったままジェスチャーを返した。 僕はその異様な光景に目を丸くする。 紫里と、目の前に立っている娘を交互に眺めた。 ちがう……ジェスチャーっていうか、これは……手話だ。 「同級生の尚美ちゃん」 紫里は傍に立つ娘を僕に紹介した。 無言で手話を使うこの娘は、おそらく耳が聞こえないのだ。 僕は出そうとした声を呑み込んで、片手を小さく上げてニカッと笑ってみせる。 動揺していた……。 尚美は僕に向って軽い会釈をすると笑顔のまま、紫里と手話で話す。 「ステキな人だってさぁ」 紫里は悪戯っぽく笑って、尚美の手話を通訳した。 尚美は直ぐに手を振って、出口付近で待つ他の友達と一緒に店を出て行った。 僕は只ならぬ事態にあっけに取られ、暫しの間出口を見つめた後、紫里に向き直る。 「好聖館って、障害者もいるの?」 「うん。ウチは勉強しようという意欲があれば入れるから」 「そして成績優秀なら。だろ」 僕は少しだけ脾肉って嫌味っぽく笑う。 「紫里、手話できんの?」 氷が溶け出して薄くなったコーヒーに口を着ける。 「うん。少しね」 彼女は右手に拳を作って右頬に当てると、何処かのメイドの萌えポーズのようにその拳をクニクニ動かす。 「これ、仔猫」 両手のひらを開いて、胸の前で両指先を合わせて大きな屋根型を作る。 「これ、お家」 右手のひらを、胸の前で下から上にはらい上げる。 「これ、解らない。だよ。でね、『お家が解らない』で、迷子なの」 紫里は童謡などから手話を覚え始めたそうだ。 つまり、彼女が示したのは『迷子の仔猫』と言う事で、犬のお巡りさんの歌詞だろう。 「50音やアルファベッドを示す手話もあるけど、数が膨大で面倒だから普通はジェスチャーがメインで、補足に50音を入れるんだよ」 紫里は再び右手を上げて軽く拳を作ると、親指、小指、人差し指と中指。順に指を立てて、素早く『あ〜お』だけを示して見せた。 彼女の笑顔が、なんだか大人に見えた。 少し前、子供のように頬を膨らませてコーヒー苦い。ミカン嫌い。と言っていた彼女はそこにはいない。 さっきもそうだ。 手話を話す紫里が、一瞬遠くに見えた。 喧騒の中を、暇つぶしで漂う僕達高校生とは何かが違う気がした。 それは日本語を話す外国人のルーシーと笑顔を交わす様とも違っていた。 向こう側のフィールドに彼女はスッと入り込んだ。 尚美と紫里の二人は僕から、いや周囲から隔離された音の無い世界に入り込んで二人だけのコミュニケーションをはかる。 僕は何も解らないまま、ただ傍らで眺める事しかできない。 この時再び僕は思った。 紫里には謎めいた、底知れない奥深さがあると。 そして不安になる。 こうして表面的な付き合いだけで、彼女の奥深い本当の彼女を僕は知ることが出来ているのだろうか。 僕は周囲に見せているままが、ほぼそのままの僕だ。 普段見せない知識や格式や博学なんてほとんど無い。 紫里に感じる些細な謎や行動への疑問は、彼女の持つ奥深さに通じると思った。 奥深いからこそ、僕の常識とはちょっと異なる行動が時折見えるだけだ。 その裏側にはきっと、彼女の知識や思考に促される他の常識が在るのだと思った。 プリクラに対する彼女への疑問は、とっくに薄れていた。
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