『はあ? 夢見てんじゃねぇよ、哲』 電話の向こうで幸彦が声を荒げる。 「本当だって。本当に向こうから声をかけてきたんだよ」 『ありえねぇ。何でお前なんだよ』 「そんなの知らねぇって」 僕は極めて事実を話したつもりだ。 好聖館高校の娘が、向こうから僕を逆ナンしてきた事実。 しかし、幸彦はいっこうに信じようとしない。 『友達の家でお前を見かけて惚れたって? そんな事あるか?』 「俺にいうなよ。向こうが言ったんだ」 彼は極めて否定的だった。 しかし、そんな事を言われても、彼女がそう言ったのだから仕方がない。 それを信じないで何を信じるのか。 いや、僕はこの時紫里の心の内をもっと考えるべきだったのかもしれないが、向こうから猛烈なアプローチを受けて邪険にできるほど、僕は普段からモテモテの男ではない。 「とにかく、様子をみるよ」 『おまえ、新手の宗教とかに勧誘されんなよ』 幸彦は終いには失笑していた。 僕はプチッと通話終了ボタンを押す。 幸彦に話した事を少しだけ後悔していた。 そんなに否定的に意見されたら、何だかいかにも彼女が宗教的勧誘が目的で僕に近づいたかのように考えてしまう。 浮ついた心の中に小さな暗黒を抱きながら、僕は携帯電話に着けたストラップを眺めた。 突如メールの着メロが鳴る。 〈今日はありがとー。これから楽しい毎日を思うと今からウキウキだよ〉 僕は何だか複雑な気持ちでそれを読むと、ごく差し障り無い言葉で返信した。 それでも心の中は踊っていた。
「哲ってば、ありえないよ」 紫里は大きな口を開けて笑った。 とりあえず間近で指さすなよ……。 「なんで、あたしが宗教勧誘とかするの? マジありえない」 彼女はお腹を抱えて笑いが止まらなかった。 僕達は二日後、出会った駅前で待ち合わせした。 短い春休み。出来るだけ遊ぼうという事だ。 「だってさ、変だろ?」 「だから、この前言ったじゃん。あたしが信じられないの?」 紫里は僕の目をまっすぐに見つめて少し困ったような笑みを浮かべた。 あの涼しげで、でも仔犬のような目。 「いや……そう言うわけじゃないけど」 「じゃあいいじゃん」 彼女は僕が羽織ったパタゴニアのジャケットの袖を引っ張る。 彼女の笑顔の前では、僕の疑問なんて何の意味もなさなかった。 黒い髪がふわりと揺れて、甘いフルーツのようなシャンプーかムースの香りが漂うと、魔法にかかったように全てを忘れ去ってしまう。 こうして僕は最初の不安を打ち消すと、紫里と過ごす時間の中で勝手に安堵し始めていた。 彼女の一面しか知らないまま。
彼女はあまりにも気さくで、女を感じさせない事も多い。 荘明というか、サバサバしてあっけらかんとして一緒にいる事に気兼ねがない。 仔犬に見えるのはそのせいだろう。 それでいて時折、明らかな女の顔をこちらに向ける。 眉をクイッと上げて頬をふっくらとさせ、澄ましたよりもやや笑顔……。 そうだ、閉じたまま口角を上げるからだろうか。 そんな時、瞳の奥に明らかな女の光が見えるのだ。 その光はまるで、冬の夜空に輝く一等星のように涼しげで眩しい。
紫里と出逢って一ヵ月が経っていた。 ゴールデンウイークの前半、僕は他校との合同絵画展覧会の為に、市内の小さな丘に在る公園へ来ていた。 市内の高校が五校合同会を組んでの展覧会で、残念ながら好聖館高校は含んでいない。 僕は油絵の風景画と水彩のイラストを二点出品したが、作品はひたすら家で描きあげたので、部活らしい活動はしていない。 前日にミーティングがあっただけで、部長が合同会議の報告と展示会のプログラムを配っておしまい。それだけだ。 合同展覧会は丘の上に在る、桜が自慢なのに何故かつつじ園と呼ばれている大きな市営の公園で行われた。 大きなキャンバスを持って坂道を登るのがけっこう大変で、丘の上に在る商業高校生徒以外はみんな、毎年僅かな不満を漏らす。 紫里と会う約束はゴールデンウイークの後半まで無かったのだが、初日の昼頃に突然私服姿で現れた。 「哲〜」 僕が屋外の展示場をウロウロしていると、突然声をかけられた。 紫里は手に持ったバンダナの包みを掲げて笑っている。たぶん弁当だ。 「お昼持って来たよ」 僕は小走りに彼女へ駆け寄る。 周囲にいる他校の連中の視線が、僕と紫里に交互に注がれていたから。 合同展覧会の参加には二つの女子高が参加しているのだが、そばかすにメガネとか、かなりふくよかで頬がリンゴのように赤かったりとか、とにかくあまりパッとした娘はいない。 そんな合同会の中で、見るからに同世代である白いワンピース姿の紫里は、ある意味異端者だった。 「どうしたんだよ、いきなり」 「ちょっと驚かせようと思ってさ」 紫里はそう言って笑うと「お昼時間まだ?」 少し髪を切ったらしい。 というか、何時も横分けにしている前髪を下ろしていた。たぶん、前髪を造る為に少し切ったと思う。 「今、交代で取ってるから、後二十分くらいしたら……かな」 「そう……」 宙を舞う桜の花びらに誘われるように、サラサラと紫里の髪が揺れていた。 「メールとかくれれば、調整して貰ったのにさ」 「う、うん。いいよ、別に」 紫里は膨らんだトーとバッグをブラブラ揺らして 「じゃあ、少しその辺見てる」 「ああ、わるい……」 なんだか聞き分けのいい紫里に、僕が罪悪感を受けてしまった。 昼の時間が来ると、僕は紫里を促して会場から目の届かない場所まで行ってひとつのベンチを占領した。 満開時期から少しだけ遅れた日程では在るが、周囲にひしめく桜の枝葉まだまだ桃色の花でいっぱいだった。 紫里は翌日も予告無しで公園の会場にやって来た。 「クッキー焼いたよ」 連日訪れる彼女の姿と、そこへ近づく僕の姿を見つめる周囲の視線は少々痛かった。 僕は紫里と弁当を食べると、自分で焼いたと言う彼女持参のクッキーを合同会の連中に振舞った。 たぶん彼女もそんな事もあると考えていたのか、充分な量があった。 紫里が好聖館高校の生徒だと知ると、周囲の連中は彼女と親しい僕に冷ややかな視線をザクザクと投げかける。 それでも手作りクッキーを口にすると、男子連中はずいぶん喜んだ。 挙句、チョコクッキーだと思って口に入れたそれが、ただの焼きすぎだと知った連中は、僕を少しだけ慈悲深く見つめた。
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