目の前の娘はあからさまに「ふう」と息を吐くと 「あの……相川哲《あいかわとおる》さんですよね?」 「あ、ああ……そうだけど」 彼女は驚いて視線を泳がせる僕を他所《よそ》に、喋り続けた。 「あ、あたし……好聖館高校の水原紫里《みずはらゆかり》です。この春三年になります」 「いや、あの……」 「あ、ユカリという字は、紫に里って書きます。ちょっと変わってるんです」 「はあ?」 「相川くんは彼女いませんよね?」 「いや……あの……」 「去年の九月以来、6ヶ月以上彼女いませんよね?」 な、何だよそのあまりに具体的データは……。 「いや、そ、そうだけど……」 僕は果てしなく困惑した。 いったいこの女はなんだ? 何が目的なんだ。 僕は闇の中で物音を聞いたような、得体の知れない不安に包まれて、ひたすら水原紫里《みずはらゆかり》と名乗った娘の水色のブラウスの襟元から、ブレザーの胸元に視線をウロウロさせた。 モスグリーンのリボンが小さく揺れている。 甘い香りが風に流れて僕の周囲をグルグル取り巻く。 彼女の声は留まらなかった。 「それでですね……あの、あの……あたしと付き合いませんか? いや、付き合ってください。付き合いましょう」 紫里と名乗った娘は、必要な事を全て言い終わったのか、再び「ふう」と息をついて僕を見上げる。 恥じらい半分、決意半分のような微妙な微笑。 浅めの二重が涼しげで、でも睫毛はしっかりカールされている。 身長は……160センチ弱くらいか? 確か、前に付き合っていた恵美もこのくらいだったと思う。 いや、もう少し小さかったか? 前髪を作らないワンレンを横分けにしてヘアピンで留めたおでこが、春の陽光に照らされてちょっとキュートに見えた。 長い髪を三つ編みにするような校則は特にないようで、その辺が地方都市に顕在する中途半端さなのだろうけど。 耳から外れた長い後れ毛が数本、たおやかに風に流されて揺れている。 化粧は禁止のはずだが……春休みだし、やっぱりマスカラとリップくらいは必須なのか……。 僕は彼女の瞳の虹彩をチラリと見ると僅かに視線をそらして、黒々と伸びる睫毛や、小さくて丸い鼻の頭、なんだか濡れたように艶の在る唇などを眺める。 卵の先のように絶妙な丸みをおびた顎先……。 顔が小さい。パーツが小さい。 「で……どうですか?」 紫里は手に持った革製のスクールバックの取手を強く握りなおした。 この界隈で指定のスクールバックが革なのも、好聖館の特徴だ。小物ひとつとっても、上品さが見え隠れする。 僕は目の前の彼女に何処と無く現実味を感じなかった。 まるで液晶画面を挟んだような不思議な感覚。 この状況はまるでバーチャルだ。 「いや……どうですかって言われても、今会ったばかりでキミの事まったく知らないし……ていうか、なんなの?」 僕は何度もカラーリングを繰り返して少し痛んだ髪をかき上げる。 僅かに苦笑するしかない。 春休みに入って直ぐ、ハッシュドブラウンというイマひとつ難解な茶髪にチャレンジしたばかりだ。 実際はどうと言う事はない、こげ茶色だけど。
彼女は悩ましげに細い眉を動かしてかき上げる僕の頭を見ながら、僕の問い掛けに少し困った顔をする。 しかしその時僕は気付いた。 彼女の背景に見える線路上には既に僕が乗るはずの電車が到着していて、まさに今発車する所だった。 町おこしの為に車両イッパイに描かれた9人のヒーローキャラクターが、ゆっくりとスライドして視界から消えて行く。 「あっ、電車……」小さく叫ぶ。 その言葉に彼女も気付いて後を振り返った。 「あっ、ご、ごめんなさい。あの電車に乗るはずでした?」 乗る為にここへ来たに決まってるだろ……。 「いや……まあ。次があるからいいけど」 次の電車は26分後だ。 「じゃあ、次の電車が来るまでそこのマックでお茶しません?」 紫里は開き直ったような笑顔でちいさく駅の斜向かいを指をさす。 白くて細くて長い指だ。 仕方ない……独りでボケッと電車を待つよりずっとマシだ。 僕はついそんな事を考えてしまったのだ。
この時さよならをしていれば何の問題もなかったのに、紫里の涼しげな瞳が陽光を吸い込んで深い緑色に輝いていたのを見た時、僕の心まで吸い込んだのかもしれない。 僕は苦笑して、仕方なく彼女と一緒に歩きだした。 なんだか体中が妙にこそばゆい感じがして不自然に足を踏み出していたけれど、乾いた風が清々しかった。 二人の肩には、当然のように不自然な距離があった。
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