携帯が鳴った。 『よお、俺』 幸彦だった。 『塾のゼミで、教室は違うんだけどさ、好聖館の娘と仲良くなってさ。ちょっと変わった娘なんだけど』 「そりゃ、よかったな」 僕は笑顔を作って、明るい声を発する。 『お前、手話とかできる?』 「できねえよ。何だよそれ」 『じゃあ、彼女は?』 「彼女?」 『好聖館の』 幸彦は僕らの事を知らない。 尋常を越えた三人の戯れも、その一人がいなくなったことも。 「ああ、もう逢ってないんだ」 『はあ? なんだよ』 「わりいな。じゃあ頑張れ」 僕は明るい声とは裏腹に躊躇なく、プチッと通話を切った。
夕間暮れ、僕はひとり運河にかかる橋の歩道で足を止める。 川面を抜けた夕涼みの風が、思いの外心地よかった。 長いと思っていた夏休みも、半分を消化してしまう。 こうして有耶無耶《うやむや》に僕達の時間は去ってゆくのだ。 今朝、テレビのワイドショーで終戦記念日の式典のニュースをやっていた。 ……そうか、今日は彼女の誕生日か。 紫里を思い出せば、兎瞳も思い出す。 あの二人は、僕の中で二人で一人なのだ。 まるで兎瞳の精神が獲りついたみたいに、僕の思考は錯乱する。 僕が付き合ったのは、はたして兎瞳なのか、紫里なのか……。 いや、僕は迷走にも似た二人の運命を、ただ傍観したに過ぎないのかもしれない。 甘く香るふたりの切なすぎるパトスを。
僕は橋の歩道から夕映えする夏空を仰いで、遠く果てしない紫色を見つめる。 蒼灰色に暮れたブルーベリーの空と、ラズベリーのような真っ赤な夕陽。 水門の周囲に生い茂った木々から、セミ時雨の喧騒が風に流れていた。 携帯電話に着いたストラップを徐に外して、淀んだ運河に投げ込む。 濁った川面は夕陽を浴びて、ゆらゆらと燃えるように紅く輝いていた。 毛糸球でできた人型のそれは、ゆっくりと流れながら夕陽を照り返す濁った川面に沈んで、あっと言う間に見えなくなった。
【8月15日PM23: 36】 ………………………… 突然ですが、このブログは本日をもって終わりにしたいと思います。 願わくば、ごくありふれた恋愛模様をここに綴りたかったのですが、この5ヶ月間は僕にとって二度と訪れない忘れ得ない貴重な体験だったと思います。 もうここにログインする事は無いでしょう。 でも、もしかして……大人になったいつか、ふと思い出して覗く日がくるかもしれません。 その時大人の僕は、何を思うのでしょう。
いままで観覧していただいた皆様に感謝いたします。
―敬具―
END
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