蒼い天空に浮かぶ太陽の光は、アスファルトを白く照りつける。 鬱屈した心を熱い風が吹き抜ける度に、視界に映る並木の木洩れ日が幻夢にゆれていた。
僕はあれから紫里とは逢っていない。 兎瞳の葬儀の帰り、彼女を抱きしめたのが最後だ。 海の日に、家出をしていた母親が帰ってきた。何食わぬ顔で、前と変わりなく台所に立って夕飯の仕度をしていた。 その翌日、試験休みが終わって終業式の為学校に行った。 僕は兎瞳の家を見るのが辛くて、少し遠回りして正門から学校内へ入る。 あの家屋を見ると、心がひび割れをおこしそうで怖かった。 兎瞳を亡くした紫里を思う事が辛かった。
「裏の家のあの娘、死んだんだってな」 教室へ入ると、隅で誰かの声が聞こえた。僕に言ったのではない。 「ああ、なんか精神病の女だろ」 クラスでも目立たない部類の板倉と斉藤が珍しく声を大きくして話していた。 「そうだったの?」 「狂って死んだらしいぜ」 後で気付いたのだが、学校裏の月島家に奇妙な少女が学校にも行かずに暮らしている事は、知る人ぞ知るミニ知識で通っていたらしい。 僕は駆け寄ってその会話の主である板倉を思い切り殴り倒した。 彼は後ろのロッカーに派手に身体を打ち付けて転げたが、僕を睨んだだけで反撃はしてこなかった。 自分の発した「狂って」という失言を理解していたのかもしれない。 それか、入学当初に上級生からカツアゲを受けていた彼を、僕が救ってやった恩を忘れていないのか。 どっちでもいいけど……。 その場から立ち去る僕を、教室に入って来たばかりの幸彦が声もかけられずに見ていた。 僕は右のこぶしに僅かな痛みを感じながら、彼の横をすり抜けて教室を出た。
それから本当の長い夏休みが始まった。 高校に入って彼女のいない夏休みは初めてで、僕は何をして過ごそうか正直途方に暮れた。 結局ただ流れる日々を消化してゆくしかない。 連日続く暑い日差しが頬に痛くて、紫外線の凶暴さを実感する。 幸彦は進学の為にゼミの夏期講習で忙しいらしいが、専門学校志望の僕には関係ない。 一度だけ駅のホームで紫里を見かけたけれど、僕は結局声をかけなかった。 長い黒髪とスカートの裾が、夏の風に煽られて静かに揺れていた。 紫里が水泳部を辞めたのはきっと、この夏を兎瞳と過ごす為だったのだと思う。 最後の夏になるであろう事は、長い付き合いの中で彼女自身が一番知っていたのだろう。 彼女は陽炎に揺られながら、上空を見上げていた。 白い月が浮かぶ青空の向こう……遠くの誰かを見つめて。 それは僕ではないだろう。 生前兎瞳が言っていた。 「あたしはきっと月から来たんだね。だから、月の光に照らされるのは大丈夫だけど、太陽の光は浴びる事が出来ないんだね」 そうかもしれない。 紫里はきっと、旻天に浮かぶ白い月の向こうに帰った親友を見ているのだ。 僕達の恋愛ごっこは、兎瞳がいなくなった事で終わりを告げた。
◆ ◆ ◆
兎瞳の目は正しかった。 純真無垢な彼女の感覚が発見した彼に私は惹かれた。 相川哲は兎瞳を受け入れた。彼女の心を受け入れた。 それは確固たる愛ではなかったかも知れないけれど、彼女を人として愛してくれたのは確かだと思う。 彼の兎瞳を見つめる目は優しかった。 私を見る彼の目も充分に優しいけれど、彼女を見る目は仔兎を見つめるような優しさがあった。 私は時に、その眼差しに嫉妬しては、それをかき消した。 嫉妬の妖精ティンカーベルが心に舞い降りる度に、何度も追い払う。 羨んではいけない。兎瞳にはその資格があるのだ。 相川哲は兎瞳が発見した男なのだ。 私はそれを彼女の為に手探りで探し出しただけ……。
私はこの夏、二つの大切な物を同時に失った。 親友である月島兎瞳と、彼女の為に偽装カノジョを演じた相川哲。 私は何時の間にか……いや、最初にウソを並べてマックで会話を交わした時からきっと……。 兎瞳の為に取り込んだ感情は私の感情そのものと同化して、何時の間にか正三角形の愛情ベクトルを描いていたのだ。 でも……たぶん、もう哲には会わないと思う。 兎瞳がいなくなったらそうしようと決めていた。 兎瞳の為に付き合った男は、兎瞳と共に葬らなければならない。 兎瞳にとっての初めての男は、私にとっての初めての男。 それは、夏の夜に降る淡雪のように、一瞬で容《かたち》をなくして消える。
ある日兎瞳が私に言った。 「哲くんは、あたしの幻想なんだね」 「幻想じゃないよ。哲くんは兎瞳のカレシだよ」 私は身を乗り出していた。 「あたし、時々判るんだ……」 「時々?」 「うん。時々……でも、忘れちゃう」 兎瞳は肩をすくめて笑うと 「紫里も好き?」 私は困惑した。 兎瞳は再び「哲くん、好き?」 私は晴れやかに笑いを作る。 「兎瞳のカレだもん。好きだよ」 「あたし、哲くんとキスしたのかな」 兎瞳の笑顔は困惑の迷走を繰り返す。 「したよ。カレシだもん」 私は躊躇なく言った。 「そう……」 「そうだよ。決まってるじゃん」 私は涙が零れそうなのを必死で堪えて、ニカッと笑う。 「紫里、こっち来て」 兎瞳に小さく手招きされて、私は彼女が半身を起こしているベッドの上に身を乗り出した。 彼女は私の唇に、キスをした。 軽く触れるだけの、冷たい感触だった。 私は驚いてその場から動けなかったけど、仰け反ったりしなくてよかった。 気持ち悪いとか、イヤダとかそんな感じじゃなくて、寧ろ心地よかった。 ラズベリーのような、穂のかに甘い香気《かおり》がした。 彼女はきっと、私が哲に心を奪われている事を知っていたのだと思う。 目まぐるしく日々錯乱する思考の中で、当たり前のように気付いていたのだ。 私達はお互いの心を見透かしながら、優しさのオブラートでお互いを包み合っていた。 時にそれはふたりを切なくさせたけれど、そうしてゆくしか一緒にいる術がない事をお互いに知っていたのだと思う。
その二日後、彼女は静かに旅立った。
私は葬儀の終わった夜、哲と最後の別れを済ませて家に帰ると、夏期講習の申し込みの事を無理に考えたりした。 年明けには大学受験が待っている。後期の申し込みなら、まだ間に合うだろう。 お風呂の湯船に浸かりながら、そればかり考えた。 それでも勝手に頬を涙が伝う。 頬を伝った熱い液体は、熱い湯船に落ちて同化する。 堪えきれなくなって、浴槽に浸かったまま声を押し殺して泣いた。 走馬灯のように兎瞳が、哲が私の心を支配する。 声が零れそうで、両手で顔を覆ったけれど、それでも嗚咽が止まらなかった。 浴室に響く自分の声を聞いたら、いっそう我慢できなくなった。 湯船に顔の半分をつけると嗚咽の響きは収まったけど、息が零れるたびに湯面がぶくぶくと泡立った。 夜風に木々の葉が擦れ、虫が鳴いていた。 囁くような透明で悲しい声が、窓ガラスをそっと震わせた。 ブクブクっと再び湯面に泡が立つ……。
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