僕はこの家の電話が鳴るのを合図に、兎瞳をおぶって彼女の部屋を出る。そういう計画だ。 「哲ちゃん、どこ行くの?」 「楽しい所に行こう。俺と一緒に行くの嫌かい?」 背中に負ぶさった兎瞳はブンブンと首を振る。 恐怖を感じるほど、彼女の身体は重さを感じない。 「行く。哲ちゃんと一緒に行く」 僕は静かに部屋のドアを閉めると、音を立てないように階段をつま先で下りた。 兎瞳は軽かった。背中に微かな重量しか感じないのは、それだけ痩せて肉が無くなっているのだろう。 僕の首に廻されたか細い腕の手首がやたら骨ばっていた。 紫里は今頃適当に話しを延ばしているはずだ。 僕は気配を消して玄関のドアに手をかける。 ダイニングから夕飯の匂いと共に、兎瞳の母親の声が聞こえる。 「行って来ます」僕は心の中で呟いて外へ出ると、音を立てずに玄関ドアを閉めた。
通りへ出ると、紫里がまだ電話で話していた。 僕と兎瞳の姿を見ると、そそくさと話しを切り上げて電話を終わらせる。 「成功だね」 「ああ」 僕達三人は、準備していた自転車に乗って路地を駆け出す。僕の後ろに横乗りさせた兎瞳は、足をブラブラさせながら楽しそうに笑っていた。 僕らは地元で一番大きなゲーセンに出向くと、次々に最新のプリクラ機器の前に立った。 ほとんど歩けないはずの兎瞳は、ヨタつきながらも自分の力で歩いた。 幼児性に解離した精神が、上手く身体を動かしていたのかもしれない。 兎瞳の無邪気さは子供そのもので、その姿は滑稽で切なくて、果敢なくて……そして何故か愛おしくて……。 僕は彼女の頭をグリグリと撫でたり、頬がくっつくほど顔を寄せてプリクラを撮影した。 紫里は時折気を利かせて三人の輪から抜けると、僕と兎瞳が撮る姿を眺めて優しく微笑んだ。 その間も兎瞳の家から何度も紫里の携帯に着信があったのを、僕は知らないでいた。 ぼくらは夜の街を通り抜けて、マックで夕飯を食べて、再び自転車に乗って兎瞳を送り届ける。 夏の夜風が、おがくずのような匂いを何処からか運んできた。 線路に沿った道を走っていると、民家の間に小さな畑が見える。 僕は何気なくそのキャベツ畑に視線が行った。昔はあちこちに空き地や畑が在ったのもだけど、最近は大分少なくなった。 すると、キャベツ畑の中で何かが動いた。 月影はほの暗く夜の景色を照らし、近くの街路灯の明かりも畑に届いていた。 僕はキキッと自転車を止める。 背中に兎瞳の身体が当たった。 「どうしたの?」 紫里も自転車を止めた。 「何かいるぞ」 僕はキャベツ畑を指差す。 「猫じゃない?」 紫里がそう言った時、その言葉の誤りにぼくらは気づいた。 並んだキャベツの隙間から長い耳が黒い影となってヒョコヒョコと見えたのだ。 「ウサギ?」紫里が呟く。 「ウサギだ」 僕は兎瞳を乗せた自転車を置いて、畑に駆け寄る。もちろん忍び足で。 兎瞳は畑を見つめたまま、じっと瞳を凝らして 「ウサギ見たい!」 紫里は兎瞳を連れて、僕の後ろからゆっくりと近づいて来た。 そっと首を伸ばして畑を見渡すと、人の気配を感じたのかキャベツ畑の先客はゴソゴソとうごめいた。 僕が畑に一歩足を踏み入れると、ウサギはピョンっと勢いよく跳んだ。 やっぱりウサギだ。 僕はキャベツを跳び越えてウサギを追った。 「紫里、そっち」 僕が指差すと、紫里は兎瞳から手を放して、僕とは反対側から畑に入る。 「マジ、ウサギ!」 紫里が高揚した声を上げる。 しかし、ぴゅ―っと紫里の足の間をウサギはもの凄いスピードで跳び抜けた。 「ぎゃっ」 「バカっ!」 「だって、速すぎだよ!」 僕と紫里は位置を入れ替えるように再び両脇からウサギを追い詰める。 月影に照らされたウサギの鼻が、ピクピクと脈動するように動いていた。 二人に挟まれたウサギは、行き場を失って立ち止まった。 が、次の瞬間僕と紫里の手の届かぬ方向へ大きくジャンプしたのだ。 「あっ」 「ちっ」 二人が目で追った先には兎瞳が膝を着いていた。ウサギは何を血迷ったのか彼女の胸元に飛び込んだのだ。 兎瞳はビックリした拍子にウサギを両腕で抱きとめる。 偶然とまぐれが重なる神業的な奇跡だった。 「やった!」 紫里も僕も思わず叫んだ。 兎瞳は驚いた顔を、直ぐに笑顔に変え瞳をランランと輝かせる。 「ウサギだ」 「そうだよ。よかったね兎瞳」 紫里が近づいてウサギを覗き込む。 黒々とした大きな目を輝かせるこげ茶色の迷い仔は、おそらく野ウサギだ。 「何処から来たのかな?」 「さあね」 僕も兎瞳の胸元を覗き込む。 鼻がピクピクとスゴイスピードで動いていた。 背中の柔らかそうな毛が、ふわりとうごめく。 すると、兎瞳はぱっと腕をといでウサギを地面に放った。 凄いスピードで跳ねるウサギは、三歩跳びほどで僕達の視界から消えたように見えた。 「あっ」 僕も紫里も思わず無念の声を上げるが、兎瞳は故意にウサギを放したのだ。 「なんで?」紫里は言った。 「心臓が凄くドキドキしてた……」 「心臓が?」 「うん。脅えてたよ。かわいそうだから……」 兎瞳は悲しそうな顔でそう言うと 「怖いのは嫌でしょ。ウサギも嫌だよね」 そう言ってにっと笑った。 月影に白い歯が見える。 「そうだな」 僕は腰に手を当てて、キャベツ畑を見つめた。 紫里は兎瞳の膝小僧に着いた土をほろうと畑を見渡して 「哲……キャベツ踏んだでしょ」 「お、俺か?」 「あたし踏んでないよ」 確かに見渡せば、畑のキャベツは幾つか潰れて、土はあちこち荒れていた。
帰り際、兎瞳は一度だけ我に帰ったように呟いた。 「哲ちゃん……死ぬって、どんなだろうね」 僕はギョッとして振り返るが、そこにいるのは足をブラブラさせる幼女の兎瞳が、風に髪を靡かせるだけだった。 玄関から出て来た兎瞳の母親は、僕達に怒ってはいなかった。 ただ小さな涙を浮かべて兎瞳を抱きしめると 「もう黙って連れ出したりしないでね」と言った。
「疲れた?」 帰りの道で紫里が言った。 僕達はずっと黙ったまま自転車を押して歩いていた。 「いや、別に」 僕はそう言いながらも、少し疲れた笑顔を紫里に向ける。 兎瞳に疲れたのではない。 彼女を見守る自分の姿に、いや、紫里の姿に疲れたのかもしれない。
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