紫里と相談して、兎瞳を連れ出す事を決めた五日後の夕方、僕は彼女と二人で兎瞳の家に行った。 何時ものように紫里は外に留まり、僕だけが玄関へ行ってチャイムを鳴らす。 「あら、今日は珍しい時間ね」 兎瞳の母親は笑顔でそう言うと、なんの躊躇もなく僕を招き入れる。 「もう直ぐ夕飯だから、ちょうどいいわ。一緒に食べましょう」 「あ、いえ僕は……」 僕は曖昧に笑った。 二階の兎瞳の部屋に一人で向うと、軽いノックの後に「俺」と言ってドアを開ける。 この部屋に来たのはコレで6度目なので、もう大分慣れた。 が、僕は彼女の部屋に入って直ぐに困惑する。 兎瞳が何時のも兎瞳でなかったから。 「哲ちゃ〜ん」 兎瞳は僕の顔を見るなり半ベソでそう言った。 「あたしのケイタイ無いよ。哲ちゃんに貰ったケイタイ」 兎瞳はベッドから降りて、パジャマのまま絨毯《じゅうたん》の上を這いずり回っていた。 僕があげたのはケイタイではなく、ケイタイストラップなのだが……。 しかし、そんな事はどうでもいい。僕が驚いたのは、兎瞳の喋りがあまりにも幼稚だったからだ。 僕を哲ちゃん呼び、ケイタイが無いくらいで半ベソをかいて床を這いずっている。 ……どういうことだ? 「哲ちゃんも探して。あたしのケイタイ」 「あ、ああ。大丈夫、どこかその辺にあるさ」 僕は兎瞳と一緒に床に膝を着いて辺りを探った。 枕元のちょうど下に当たるベッドの陰に、携帯電話は落ちていた。僕のモノとおそろいのストラップが着いている。 「これだろう」 僕が片手にケイタイを掲げると、兎瞳は涙目のまま無邪気に笑った。その無邪気さに、僕は恐怖する。 見つかったケイタイを開く兎瞳を横目に、僕は外にいるであろう紫里に電話した。 『どうしたの?』 紫里は直ぐに電話に出た。コールの相手を液晶画面で見たのだろう。 「兎瞳がちょっと変だぞ」 『どんなふうに?』 「なんだか、幼稚園児みたいだ」 『ああ……』 紫里は溜息の混じった声を出す『出ちゃったんだ』 「なんだよ、それ?」 『時々幼児期に解離するのよ。滅多にないんだけど』 「じゃあ、今日は中止か?」 『でも、兎瞳は兎瞳なんだけど』 「幼稚園児の彼女を連れて歩くのか?」 紫里はほんの少し考えて『哲が決めて』と言った。
僕は携帯電話の画面と戯れる兎瞳をチラ見する。 紫里との電話はまだ繋がったままだった。 「判った、行こうぜ」 僕は兎瞳を連れ出す計画をそのまま実行する事に決める。 とりあえず兎瞳を着替えさせる必要がある。今の彼女が自分で着替えられる気がしない。 「兎瞳、着替えよう」 「なんで?」 「お出かけだよ」 僕は子供に言い聞かせるようにそう言いながら兎瞳のパジャマのボタンを外す。指先が微かに震えた。 子供の視線で僕の手を眺めると、兎瞳はニッと歯を見せて笑う。 何故か犯罪を犯してる気分になる。 「何処行くの? 哲ちゃん」 「いい所さ」 彼女の鎖骨はくっきりと白く浮き出て、その凹凸がなんだか痛々しい。 レースの着いた下着が眩しくて、僕は一瞬の罪悪感に包まれる。 身体も小さく確かに痩せてるが、僕と同い年の女性の身体に変わりは無いのだ。 その証拠に、彼女の身体から香る香気《におい》は、子供のそれとは違う女の匂いだ。 しかし、ポケッと小さな口を開けて僕の動作を見つめる彼女の瞳はあまりにも無垢で、男に服を脱がされたという恥辱は無い。 僕はクローゼットから淡い水色のワンピースを取り出すと、下着姿の兎瞳をなるだけ見ないうちに彼女の頭から被せる。 「ズボン、脱げるな?」 兎瞳はコクリと頷いて、自分でパジャマのズボンを脱いだ。 僕はワンピースの衿に入り込んだ彼女の短い後ろ髪を手ですくい出す。 汗がでる……既に逃げ出したくなった。 僕の思考は迷走する。 本当にこの娘をつれて繁華街を歩くのか? 大人とも子供ともいえない精神崩壊寸前のこの娘が、僕らの手に負えるのだろうか。 僕のことをどう思っているのか? 幼なじみか、幼稚園の友達か……? 僕は逃げ出したい気持ちを抑えて、その時を待った。
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兎瞳の家に初めて遊びに行ったのは小学校四年の春だった。 彼女の部屋の窓は日中でもカーテンで遮られて、蛍光灯が燈っていた。 家の中も出来るだけ日差しを遮る為に雨戸などを閉めているから薄暗い。 でも私は、その奇妙な家が好きだった。 なんだかヒミツの隠れ家に案内されたようで、ドキドキした。 兎瞳は真っ赤なラズベリーを口に入れて微笑むと、私を部屋へ招き入れた。 この頃の彼女は、家の中を自由に歩き回る事が出来た。 私よりは少しおっとりした動作だったけど、気にはならなかった。
一度行くと、私は頻繁に兎瞳の家に行くようになった。 家にいても独りぼっちだけど、兎瞳の家に行けば一人じゃないから。 彼女は何時も真っ赤なラズベリーを食べていた。 頬をぷくぷくとさせながら、赤い果実を口へ運ぶ。 何故か年中彼女の家にはラズベリーがあったけど、ハウスモノとか在るかは判らない……。 兎瞳は私にとって親友であり、妹のような存在だった。 でも、寂しさを癒してもらうのは、何時も私の方だったと思う。
しかし兎瞳は、中学になると少しずつ会話がかみ合わなくなり、足腰も自由に動かなくなっていった。 私は学校へ通いながら、放課後に彼女と会うことばかり考えていた。 毎日ではないけれど、週に何度か私は兎瞳を訪ねた。 本当は毎日行きたかったけど、中学生なりにそれは迷惑かも知れないと考えていた。 多少かみ合わない話も直ぐに苦にならなくなった。 でも成人まで生きられないと、彼女の両親から聞かされて、それを知ったとき私は、兎瞳の前で不覚にも涙を流してしまった。 何故私が泣くのか解らない彼女は「大丈夫だよ」と言って、私の頭を優しく撫でてくれた。 嗚咽が漏れて、よけいに涙が止まらなかった。 今までに無い焦燥と苦悩を強いられて、家に帰ってからは親に聞こえないように布団に頭を突っ込んで夜通し泣いた。 それ以来、私は兎瞳がこの世からいなくなる日まで、泣かない事を心に誓った。
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