次の金曜日、僕は放課後に紫里と待ち合わせをして、月島兎瞳《つきしまうさみ》の家に向った。 彼女は病院に入院しているわけではなくて、命の危機にありながらも定期的に通院しているのみだと言う。 それはつまり、具体的な治療法が無いからに他ならない。 下校時間が一段落してひと気が引いた学校の裏門から、直ぐ傍の家並の一角に兎瞳の家はあった。 ごく普通の、なんの変哲もない二階建ての家屋は灰色のブロック塀と大小の庭木に囲まれていた。 白工の運動部が練習するかけ声や、野球部の金属バットの音が微かに響いてくる。 その度に僕は、だれか知り合いに見られる事を恐れて周囲を見渡した。 紫里は慣れた素振りで玄関まで行くと、チャイムを鳴らす。 ゆっくりとドアが開き、小柄な中年女性が顔をだして笑顔をみせる。 「こんにちは、おばさん」 「あら、いらっしゃい」 親公認の親友である事が伺えた。 「今日は新しい友達連れてきたんですよ。といっても、兎瞳《うさみ》は知ってるんですけど」 「あら、そうなの」 兎瞳《うさみ》の母親はそう言って笑うと、訝しがるわけでもなく僕を玄関に通してくれた。 難病の娘をもつ母親として、予想外に明るい母《ひと》だった。 「さ、行こう」 紫里は遠慮もなく玄関を上がると、明るく笑って僕を二階へ続く階段へ促す。 「じゃあ、後でおやつ持って行くわね」 下から明るく言った兎瞳の母親に紫里は 「はい。でも、お構いなく」 階段には嵌め殺しの大きな窓があって、明かりを充分に取り入れていた。 三つ在るドアの左端に『USAMI』というウサギの形をした木製の札が掲げられている。 紫里は軽くドアをノックして「あたし、入るね」 そう言って軽くドアを開けた。 病人の部屋とは思えない、やっぱり女の子特有の甘ったるい匂いが零れ出て僕の鼻孔に纏わり着く。 ズカズカと部屋に入る紫里の後から、僕は少し首をすぼめるようにして後を追った。 「じゃじゃ〜ん」 紫里は両手を僕のほうに斜めに向けて延ばすと 「哲くん参上!」 おどけるように笑顔でそう言った。 僕はなんと挨拶すればいいのか戸惑った。打ち合わせをしておくべきだった。 初めてだけど、初めてではない彼女に「始めまして」はおかしい気がして、僕は一瞬口ごもる。 紫里の肩越しに見える少女は、ベッドに身体を起こして蛇イチゴのような真っ赤な、小さな果実をプチプチと口に運んでいた。 「ひさしぶり、元気だった?」 こちらを向いた兎瞳の口から出た第一声だった。 僕は一瞬耳を疑って、半口を開けたまま佇んでしまったが、慌てて顔に浮かぶ困惑を隠す。 紫里が僕の脇腹を肘で突く。 そうだ……僕と兎瞳は初対面なんかじゃないのだ。 いままで何度もデートを重ねて、一緒にプリクラを撮っている仲なのだ。 彼女にとってはおそらく……。 「あ、ああ。う、兎瞳も元気か?」 上々か? 僕は自分自身に問いかけた。 兎瞳はだいぶ小柄で、真っ白を通り越して青白い顔をしていた。けっして肌色ベースではない、別の何かで構成された色だ。 耳の隠れるショートカットは色素が薄い為なのか、ほんのりと茶色くて、小さな顔にクッキリと浮かぶ大きな瞳も薄い茶色をしている。 でも水晶のように透明な微笑みは明るくて、その無垢な笑顔に僕はつられるまま笑っていた。 兎瞳はガラスで出来た小さな小鉢をベッドの横に置く。 蛇イチゴのような果実が、ラズベリーだと気付く。 部屋の甘い香りは、この果実のせいだろうか。 「少し痩せた?」 兎瞳が言う。 「そ、そうかな? あんまり自分では解らない」 初対面での会話ではなかった。 兎瞳は混乱しているのだろう。「原宿また行こう」とか、「あの映画また観たい」とか、紫里との想い出をすり替えた記憶で僕に話しかけた。 「ラッコ、可愛かったね。また行きたい」 「ああ、1匹増えたらしいよ」 「ホント?」 彼女の笑顔は、僕らと同い年には見えなかった。 もっと子供のように、もっと幼さに包まれて笑う。 事実を捻じ曲げた幻想と錯乱の想い出の中で……。 おそらく紫里は、僕と出かけるたびにその様子を彼女に一部始終聞かせたのだろう。 カノジョとしてではなく、兎瞳と僕を傍観する友人として。 それは兎瞳の記憶の中で、僕との想い出に置き換えられるのだ。 僕は終始曖昧な笑顔できわめて曖昧に「ああ」と言う事しか出来ない。 紫里は咳き込むフリをして、零れそうな涙をそっと拭っていた。 「紫里、何処で哲くんに会ったの?」 兎瞳の問いは、おそらく今日どうして二人が一緒に来たかという事だった。 「うん、ほら哲くん学校そこだからさ、偶然兎瞳ん家の前で会ったのよ」 兎瞳の記憶回路は正常ではないのだ。 紫里はそれに対応したウソをつき続ける。 あちらこちらに飛び散るタンポポの種を捕獲するかのように、小さな矛盾の粒を的確に補正する。 真実の扉は開かない。 僕はといえば、できるだけ明るく笑顔でやっぱり「ああ」と言うばかりだった。
夕暮れが経ちこめる頃、僕と紫里は兎瞳の家を後にした。 「ありがとう」 「いや、いいけど」 二人はそれきり会話をせずに歩く。 なんだか心の中が、煙に包まれていた。 紫里も「これでいいのだろうか」という困惑に包まれた表情を微かに見せる。 僕はそれに気付かないフリをした。 夕陽の朱色に染まる西の空に比べ、暮色に変わり始めた東の空はまるでブルーベリーのような濃い紫色に滲んでいた。
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