街の中央を流れる本流の河川は、大きく曲がりくねって河口へ流れ込む。 河口から1キロほど上流には二つの橋がかかり、上流側のより大きな橋の袂には、夏になると毎年打ち上げ花火の発射台が造られる。 二つの橋の中間に位置する場所には貸ボート屋が在って、日差しが暖かくなると休日には意外に混み合う。 もちろん、冬は閑古鳥が鳴いているけれど。
水辺に行きたいと言ったのは、紫里の方だった。 僕はボートなど小さい頃に一度漕いだだけだが、彼女に引っ張られて川辺に来てしまった。 「大丈夫でしょ?」 「いや、どうかな……」 「大丈夫、ボートがひっくり返ってもあたし、泳ぎ得意だから」 紫里はそう言って笑うけれど、僕はあまり泳ぎが得意ではない。 カナヅチと言うほどではないが、服を着たまま河で泳げる自信まではない。
川辺に突き出た桟橋と、そこに横付けされた黄色いボートが漣に揺らいでいた。 足を踏み出すと体が揺れる。 紫里は高揚した笑いを惜しげもなく発する。 スーツを着たおじさんと、奥さんにしては若く娘にしては不自然な二人組みがボートで出てゆくところだった。 真っ黒に日焼けしたおじさんが、愛想よく空きボートに促す。 「白渡《しらと》橋の向こうには、行かんでくれよ。あの先は河口に向う流れが急で、手漕ぎでは戻って来れんから」 僕らは深いシワの刻まれた真っ黒な笑顔に見送られて、桟橋を離れた。 見様見真似でゆっくりとオールをこいでみる。 ボートが水面を滑り出す。 「スゴイ、スゴイよ。ちゃんと動いてるじゃん」 紫里は水面に手を伸ばすと、指先を川面に向ってパタパタと動かす。 僕はなんだか重く感じるオールで手がイッパイな感じがし 「そうか?」 と辺りを見渡す。 日曜と言う事もあり、そこいらじゅうに楽しげなカップルの姿が浮かんでいる。 中には二人並んでオールを一本づつ仲良く担当しているカップルもいるが、紫里はとりあえずオールを持つ気はないらしい。 褐色に濁った運河の水も、太陽の陽を浴びた中で漂うと、何だか清々しく思えるから不思議だ。 ここそこで魚が跳ねる。 「見て見て、さかな!」 紫里はチャポンと水面に波紋が出来るたびに、高揚した声を上げた。 まあ……たまにはいいか。 僕は彼女の高揚感に合わせる素振りで、笑顔を向けながら重いオールを漕ぐ。 内心はオールを漕ぐだけでいっぱいいっぱいなんだけど…… ぐるりと大きく弧を描いて方向転換すると、オールがやたら重かった理由が判明した。 流れに逆らって進んでいたのだ。 河の緩い流れに沿って進むオールはやけに軽くて、ひと漕ぎでずいぶんと進む気がする。 「なんか、早くなったね」 「流れに沿ってるからだよ」 「ああ、そっか。こっちの方が楽でしょ」 紫里はボートの縁から顔を突き出して、ボートが切る僅かな波を見つめた。 「でも、戻る時が大変そうだけど」 「あたしも手伝おうか?」 紫里は冗談半分で笑うと、ストローのトートバッグから、いつの間に買ったのかペットボトルのジュースを取り出す。 「少し休もうよ」 二つのボトルを掲げて「どっち飲む?」 ラズベリーの果実入りミネラルウォーターと、ウーロン茶。 「紫里は?」 「じゃあ、あたしウーロンで」 彼女は手を伸ばしてラズベリードリンクを僕に渡す。 オールを止めると、ボートはゆっくりと惰性で漂う。 僕がラズベリードリンクを飲んだ時、紫里は携帯カメラのシャッターを切った。 日差しが途切れて川面に漣が立つと、素肌に冷んやりとした風を感じる。 僕は膝を着いて、紫里に迫ると手首を取った。 彼女は片手に携帯電話を持ったまま、沈黙して僕を見つめていた。 鼓膜の奥で漣の音がサラサラと聞こえる。 僕が紫里の手首を引き寄せると、彼女は力なく前に倒れるように膝を着く。 と、同時に俯いた。 「ご、ごめんなさい。まだ……もう少し待って」 その言葉の意味を僕は問わなかった。 僕は漣の音に誘われて、彼女の唇を狙っていた。 「そ、そうだね。まだ、だよな」 照れ隠しに、妙に声が大きくなる。 「ごめん……」 彼女は俯いたまま小さな声で言うと、上目遣いに僕を見上げる。 「ほ、ほら。ここ、周りから丸見えじゃん」 「そ、そうだよな」 本当は、大きな橋げたの影に入って、周囲からは死角になっていた。 だから僕は、彼女に迫ったのだ。 それでも僕は、彼女が否定してくる気はしていた。 今までも身体が触れる度にチャンスは覗っていたのだけど、どうも踏ん切りがつかなかった。 直ぐに身体が触れ合う気安さとは裏腹に、微妙な拒みの空気が彼女の何処かから漂っているのだ。 それでも通り過ぎる漣の音が、いま、何となく僕の衝動を沸きたてた。 再びギラつく日差しが僕達を照らす。 目を細めて空を見上げたとき、僕はボート屋のおじさんの言葉を思い出す。 この橋を越えると戻れない……。 「ヤバイ、紫里。こっち来い」 「えっ、だって……」 「バカ、違うよ。漕ぐの手伝え。ここから先は流れが速くなるから戻れなくなるぞ」 紫里もボート屋のおじさんの言葉を思い出したらしく 「あっ!」 と声を上げて僕の隣に腰掛ける。 「でもあたし、ボートなんて漕いだ事ないよ」 僕は身振り手振りで漕ぎ方を教えるが、紫里はなかなか上手く水をかけないようだった。 それでも僕達は必死でオールを漕ぐ。 その時潜り抜けた橋は、既に30メートルほど後方に在った。 紫里の漕ぐ力が小さいから、方向転換はすぐに出来た。 しかし、橋は少しずつ確実に遠ざかっている。 僕達は河の流れに負け、後ろ向きに河口に向って進んでいた。 船首に背中を向けているので、霞む流れの先が大きく開けているのが見える。 河口だ。 別に滝が待ち構えているわけじゃないから、そのまま流されても海へ出るだけなのに、僕らは完全に焦りに飲み込まれていた。 それも、さっきの気まずい空気をかき消すにはちょうどいいのだけれど。
僕達の船は結局、救助に来たモーターボートに引かれて、河をゆっくりと上って貸しボート屋の船着場へ無事戻る事ができた。 穂のかに甘酸っぱいような不思議なスリルに満ちたひと時を、僕達は素肌の腕が触れ合う中で堪能した気がする。 それが楽しいのか苦痛なのか、僕は困惑するのだ。
【6月1日pm23: 56】
…………………… 人の思考と言うのは判らない物だ。 ただ、それが自分の予想していた悪い方向へ動いていると感じるとき、行動は消極的になる。 この日々は続くのだろうか……。 明日は筋肉痛か。
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