最近は健康のためにスーパーで水を買う人が増えているようだ。谷川の水、日本名 山天然水など言って一リットル百円程度で売っている。安い日本酒のパックと比べて 二十分の一と安いがミノルが小さかったころでは考えられないことであった。
戦後まもないころは地方のたいての家の土間には大きな水瓶が置いてあり、井戸か ら汲み上げて運んだ水が貯めてあった。喉が渇くとその水瓶から柄杓ですくって飲ん だり炊事に使うのである。ミノルの家には井戸もなく離れた公会堂の広場の井戸から 父のマゴが重たい水を運んだ。天秤棒の両側に水桶を吊るし肩にかついで汗を流しな がら何度も往復したのだった。
ある夏の朝にミノルの家に井戸掘り職人がきて南側の小さな庭に丸い穴を掘り始め た。遠縁の太吉さんも二人の職人と一緒になって竹を割ったようないつもの明るい顔 でたくましい筋肉を見せた。上側の土は軟らかく、スコップで穴を少し掘ったところ で三叉の木の櫓を組み滑車を吊るした。モッコに盛られた黒い土が下から運ばれてき て穴の底は次第に深くなってゆく。土が崩れやすくなり井戸穴へ降りるにも上がるに も注意がいった。 「出た!出た!」 との大きな声にミノルも下を覗いてみると穴の底から水がしみ出していた。それ から井戸の内側は石で補強され、上部には蓋がされて三日間の井戸掘り作業が終っ たのだった。
その井戸が完成した夕刻に、ささやかなお祝いを母のトシは用意しており、ミノル も兄のタカシも宴の角に坐った。父のマゴは 「どう、もどうも、ありがとうございました。本当にご苦労さんでした」 とうれしそうに笑って胡坐かいて座っている多吉さんたちに酒をついだ。トシは 「これで父ちゃんは遠い井戸から水を運ばなくてもよくなったに」 と言って低い木の食卓に刺身の皿などを並べた。 ミノルも、うきうきした気分を感じながら箸で刺身をつまんだ。今まで魚と言えば 鮒や鰌などの煮たものだったのでミノルにとって刺身を食べたのは初めてで其の味に びっくりした。猫の三毛も脇にいて首を伸ばし食べたげに鼻をヒクヒクさせた。
日が改まってまもなくして手押の井戸ポンプが土間の流し台の横に据えられた。腕 の太さほどの筒から勢いよく出た水は夏は冷たくスイカを冷やし、冬は温かく赤切れ の手のトシを喜ばせた。ガシャガシャと音を立てる公会堂の井戸のポンプよりはるか に新型で、屋根の太陽熱利用の温水器まで水を押し上げた。その温水タンクは器用な マゴが造ったのだったが、ミノルは兄のタカシと交代でその温水タンクへ水を毎朝上 げた。夏場では温水タンクの水だけでお風呂の湯はまかなえたのだった。
それから何年かして大通りから水道管が引かれて蛇口から水がでるようになり、マ ゴの遠い井戸からの水運びや屋根の温水器へのポンプ水揚げ作業はたちまち遠い思い 出となった。
現在、千葉県に住むミノルの家庭ではスーパーから水を買うことはしていない。舌 が鈍感なせいか分からないが、蛇口からでる水でほぼ満足している。たまに自動販売 機で谷川の水などを立ち飲みすることはあるが貧乏性なのかもったいないと思うので ある。
20081109
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