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作品名:バスの中で 作者:菅原ぽぽろん

最終回   1
 会社を辞めることになったので、昨日の夕方からデスクまわりの整理をした。大学を卒業して今の会社に入社したが、二年半で出て行くことになった。二年半は少し長すぎたかもしれない。そんなことを考えながら、昼休み前には引継ぎ済ませ、すべての身辺整理を終えた。二年半僕のねぐらであった会社の近くのアパートは昨日のうちに引き払っていた。今日はこのまま一度実家へ帰る予定だった。

 昼食はとらなかった。いつもそうだった。会社ではコーヒー以外の何かを口にした記憶がない。同僚と一緒に食堂へ行ったこともなかった。

 会社から最寄の駅まで歩いて十分ほどの距離だった。普段は歩いて問題ない距離だが今日はそうしなかった。デスクの荷物を詰め込んだ旅行用のキャリングケースを持っていたし雨も降っていた。会社と駅を十五分置きに往復するシャトルバスが走っていたので利用することにした。以前は一日に数本、それも朝夕の出勤・帰宅の時間帯に合わせたものだった。外回りで駅を利用する社員が多いため、今のような本数まで増やしたのだと上司から聞いたことがあった。僕が喫煙所で時間を潰していると、必ずといって良いほど上司が現れそんな雑談を一方的にしていった。話し出すと夢中になる上司の指に挟まれた煙草が、一度も吸われずに灰になり散っていくのが強く印象に残っている。ああいう無駄遣いをなくせば少しは小遣いが増えるのにと僕は思った。

 十二時十五分。時刻表通りのスケジュールでシャトルバスが正面玄関に入ってきた。大きなキャリングケースを持ったスーツ姿の僕は、これから出張に行く社員のように見えただろう。昼休みにバスに乗る奇異な人間は僕ひとりだった。僕は見晴らしの良い運転席の斜め後ろの席へ座った。運転手は五分の停車時間を利用して喫煙所で煙草を吸っていた。五分後、戻ってきた運転手がブザーを鳴らし扉を閉めると、バスはゆっくり発進した。

 僕はタクシーに乗ったときの沈黙が耐えられない性質の人間だった。見知らぬ二人の人間が密室で黙り込んでいるのだ。絶えられない。そういうときは、いつも僕の方から話を切り出すようにしていた。同僚や上司と話すよりも不思議と気分が楽なので、むしろこういう会話は好きなのだ。

「そういえば、一年前と比べてだいぶ本数が増えましたよね、このシャトルバス」

「ええ、そうなんですよ」

 運転手は笑いながら返してきた。気さくな感じのおじさんだった。年齢は五十代半ばくらいだと思った。僕の親と同じか少し下の世代くらいだろうか。顔に深く刻まれた皺や禿げあがった頭に少し残る銀髪のせいで年上に見えるのかもしれない。もっと若いのではないかとも思った。

「私たち利用する側にとってはとても助かりますよ」

 優等生的な発言をしてみた。まったくの他人、しかもバスを降りればもう二度と会わない人を相手に話しているので、別の人格になるのもいいかなと思った。

「まぁ、逆に忙しくなりすぎちゃって運転手が休めないくらいですよ」

 ハンドルを握りながら運転手は答えた。バックミラーでちらちらこちらの顔を確認しながら器用に運転していた。乗客との会話には慣れているような感じだった。

「そうですよね。一時間にきっちり四本ずつ走っていますもんね。いったい何人の運転手さんでやってるんですか」

 実際にこれは僕の素朴な疑問だった。一時間に四本、ちょうど十五分置きに会社と駅の間を往復している。しかも、シャトルバスの路線は一本だけではなく、近くの営業所への路線を含めると全部で三本あった。時刻表を見る限り、昼休みの時間もないように思えた。

「この路線は私ひとりで運行しているんですよ。ほかの路線も一路線に運転手がひとり。あと運行状況の確認のために配車センターにひとり常駐しているんです」

「お昼はどうなさっているんですか?」

 この際、聞きたいことは何でも質問してみようと思った。会社でもこういう姿勢だったら、上司や同僚からの評価も違うものになっていたのかなと思う。

「一週間前から昼休みをとるようになりました」

「それまでは?」

「食べれませんでしたね。とてもじゃないけどスケジュール的に厳しかったですから」

 この人も仕事中に昼食をとっていなかった。理由は違えど自分に仲間ができたような奇妙な連帯感を覚えた。そういう自分がまた空しくもあった。彼は続けた。

「ま、そのおかげで、私、今日でこの仕事クビなんですけどね」

 ハンドルを右手で握りながら、左手でクビを切るポーズをする彼の顔は笑っていた。そんなことを言われたら、理由を聞いてみるしかない。僕はいつの間にかそういう人間を演じるのに夢中になっていた。バスの座席に座っているのは、会社にいるときとは違う人間のようにも思えた。

「えーと、どういうことですか? あ、別に言いたくなかったら結構ですから……」

 遠慮という言葉を知っている。そういうところをアピールできる人間になっていた。このような自己アピールを普段の僕はできない。

「口は災いのもと、ってやつですな」

 もともとシャトルバスの時刻表にはかなりの無理があったらしい。休み時間もほとんどとれず、労働基準法に触れるような勤務を強いられていたという。雨天や朝夕の交通渋滞でバスの運行が遅れれば乗客と会社の双方からクレームを受けたらしい。バスは道路を走っているのだ。乗客も会社も渋滞による遅れくらい理解してやれよ、と僕は思った。
彼が言うには、運転手にとって最も嫌なのは厳しいスケジュールを強いられることだという。時間厳守の強迫観念に駆られ、運転を疎かにし、事故を起こした運転手を彼はたくさん見てきたと言っていた。今日のような乗客の少ない日は、話し好きな客にその不平不満を題材にした話をしたそうだ。その話が会社の幹部の耳に入った時には、彼は会社に批判的な上に危険な運転をする運転手ということになっていたという。彼は上司に呼び出され、一週間後の支社への異動を命じられた。最後の一週間だけは昼休みをとることができたという。そのかわりのクビだ。そして今日は彼の最後の出勤日だった。僕は理不尽さを感じた。

 駅までの数分間、僕は自分の経緯を運転手に話していた。大学を卒業して会社へ入ったこと。入社以来、上司と馬が合わず、次第に同僚たちも距離をとり始めたこと。孤立した中で二年半の空しい時間を過ごしたこと。今日、会社を辞めたこと。僕は何故かすべてを話していた。彼は僕の性格でそんな状況になるのは考えられないといった不思議な顔をしていた。そう思うのも無理はない。彼と話している人間と僕は根本的に別の人間なのだった。演じれば他人の見る目は変わるものだと思った。

 バスを降りると雨はやんでいた。運転手は扉を閉めてバスを出した。窓越しに見えた彼の顔は変わらず笑顔だった。


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