夏苅葵生は、元来あまり細かなことは気にしない性格で、何かいさかいがあっても水に流してしまおうとするところがあって、細かなところに気付いていても気に留めないようにしている。気にし始めたらきりがない、と思っているからなのだが、近頃どうしてもこびり付いてしまった悩み事があって、それは時折ふとした時に思い浮かんでくるのだから悩ましいことである。 それまで経験したことのなかった胸のときめきと、心のざわめきを抑える術を知らず、いつの間にか視線は彼女にばかり注がれ、何かをする時にでも彼女がもし見ていたらとつい考えてしまうのは、恋に堕ちたからだというのだろうか。 冬麻椿希という少女のことばかり、寝ても覚めても四六時中考えてしまい、この前彼女とこんなことを話した、あの時笑った、ああいう癖がある、こんな一面がある、などと、よくもまあはっきりと覚えていることである。通学途中はまさにそのことを思い出すよい機会で、繰り返し思い返しては、思わずにやけてしまいそうな口元をどうにか押さえ込むのだ。 それにしても、彼女と出会ってからよく同年代の異性を観察するようになったものだが、可愛らしいと思う子はよく見かけるのだが、はっとするほどの美人というのは少ないものだということに気付き、椿希のような子はそうそういるものではないのだと思うと、ますます夢中になってしまいそうである。 凛とした佇まいの中に秘められた、女性らしい柔らかな物腰と気品ある言葉遣い、機知に富んだ会話は聡明な葵生にとって、非常に手応えのあるもので、少しずつ心に深く染み込んで行く感覚がまた、椿希のことを忘れさせないものにさせた。 物事を観察する際の洞察力も鋭く、それでいてそれを言葉にするときには相対するものを闇雲に批判するのではなく、丁寧に聞き手を素直に聞き入れさせるような、柔らかい口調で言葉を選びながらなので、自分と異なった意見であっても、それも一理あることだと受け入れやすくさせている。 そして聖歌隊で歌を習っているからなのか、感性も人一倍豊かであった。研ぎ澄まされたその感性や情緒を解する心の有り様を見ていても、こちらが見習いたいと思うほどで、学業面では葵生の方が優れていても、音楽のみならず美術にも造詣が深いので、芸術の方面では是非彼女に色々と話を聞いてみたいと、心は惹かれてしまっている。 彼女といると、自分も新しい何かを吸収することが出来るし、自分の持つ知識の水準を下げることなく会話が出来、それは非常に心地良いものだった。毎日が刷新されるような清々しさから、塾へ行くのが楽しみで仕方ない。
ある日の放課後、その日は部活がなく、塾に行くまで時間があったので、級友たちと体育館でバスケットボールを楽しんでいた。元々体育会系の部活といっても大会で入賞を狙うような強豪校ではないので、それほど熱心に活動しているわけではなく、空いた日には自由に使っても良かったので、時々こうして友人たちと遊ぶことがあったのだった。 葵生はボールをぽんぽんとつきながら、間合いを取り、規則正しく弾ませていたのを隙を突いて乱し、一気に攻め込んで走り抜き、そのままゴールに入れた。風のように駆け抜けて振り返ると、仲間たちと軽く手を叩き合った。 肩で息をしながら、体力は消耗されてはいるものの、日常の様々な苦労や悩みをこうして晴らしているためか、皆の表情は一様に明るい。鞄を投げ出し、学生服を脱いで激しく動き回るのは、久しぶりに身も心も自由にさせたことで、すっかり身軽になってしまったようである。 本気で勝負しようとは思っていないので、敢えて得点板も倉庫から引っ張り出さず、笑いふざけ合うことも多かった。 そろそろ塾へ行く時間になったことを体育館に掛けられた時計で知った葵生は、汗を念入りに拭いて鏡で髪を整え、学生服の身なりを気にしながら、いそいそと帰る準備をしていた。妙に浮き足だっているのが周囲の目から見ても明らかだったのか、級友の一人が、 「色男の夏苅くん、今日もお前には勝てなくて残念だよ。そんなに慌てているけど、もしかしてその塾には小督の局でもいるのかな」 とからかい、周囲も興味深々といった様子でにやにやと笑いながらこちらを見ている。小督の局とは、平家物語に登場する人物で、この前の古文の授業に出てきたのを持ち出して言ったことであった。すると、別の誰かが、 「小督の局とはまた良くない例だなあ。それだと結局最後は悲恋なんだから、どうせなら紫の上にしておこうよ。夏苅は差し詰め光源氏ということで」 と揶揄した。そして「若紫だと、夏苅が危ない人に思えるだろう」と付け加えたのは余計なことである。だが、そんな風に言われても葵生は上手いこと言うなあ、と思うばかりで嫌な気持ちにはならない。ただ少しばかり気恥ずかしいのだけれど、 「紫の上はいないけれど、そのうち出てきたらいいよな」 と、葵生は曖昧に答えた。それにしても同級生で同性ながらに惚れ惚れしそうな容姿であるから、女子高生の恋人を作るなんて簡単だろうと、ここにいる皆は胸の内では思っている。とはいえ、やはり以前から追っかけの女子学生に対して、冷淡な態度を取り続けていたことを思うと、なんて勿体ないと返す返す思ってしまう。 去っていく姿までが夏苅葵生という俳優か、夏苅葵生を演じている誰かを見ているようで、なんとも不思議な魅力を持った人だと返す返す思うのだった。
電車に乗るのに駅のホームで待っていたら、背後から声を掛けられたので振り向くと、そこにいたのは塾生であり、高校の同級生でもある日向柊一であった。 「奇遇だね。今日ももしかして体育館にいたの」 柊一は葵生と偶然会えたのが嬉しいのか、色白の顔にほんのりと赤く頬を染め、目を細めながら言った。 「まあな。そえにしてもよく知ってるな、時々体育館で放課後遊んでるっていうこと」 知られて疚しいことはしていないけれど、ここのところ柊一は葵生のことなら何でも知っていると言わんばかりに、塾生たちにあれこれと葵生のことを吹聴して回っているので、あまり良い気持ちではない。柊一は誤魔化すつもりなのか、笑ってそれに答えようとしない。 そういえば、先日友人に、 「最近、日向とよく喋ってるけれど、あれは塾の話でもしてるの。夏苅と日向が仲がいいっていうのはなんだか違和感があるし、妙な組み合わせだなって思っているものだから」 と言われて、確かに柊一とは面識はあったものの、同じ組になったことがないというのもあるけれど中学時代に会話した覚えはないことを思い出した。 教室の隅の方で、青白い顔をした、あまり他人と多くを喋ろうとしない閉鎖的で陰気な雰囲気の少年たちが集まっているのが葵生にとっては苦手で、意識をしていたわけではないけれど、避けていたのかもしれない。時々舐めるように人や物を見詰める視線が気味悪く、組を跨いでその小さな集団は妙な連帯感で結ばれていて、どこにいても監視されているようで、その仲間の一人である柊一が塾にいるのに気付いたときには、これからのことを思い遣って軽い頭痛を感じたものだった。 塾内でもそれほど親しくなることはなく、適度な距離を置いているつもりなのだが、柊一はこの機会に近づけたらと思っているのか、何かの用にかこつけて葵生に頻繁に話し掛けるようになった。塾の話をしているときは、二人だけの秘密を共有しているような気分がして、柊一は他の同級生たちの知らない葵生を見ているのだと、優越感に浸ることが出来た。一方の葵生はというと、柊一とはあくまでも塾の話をしているだけで、特に秘密めいた謎の話をしているつもりは全くないので、必要だから喋っているのだ、というつもりである。 二人の間にこのように思いの隔たりがあることを知らない柊一は、なんとも哀れな気もするけれど、葵生の思いの方が世間では多くの人たちに理解してもらえるのであろう。そういう点からすれば、柊一にとっては二重の意味で哀れである。 電車に乗っている間、葵生からすれば仕方なくといったところだが、それを押し殺して、柊一とあれこれと話をしていたのが、それほど益になるような話もなく、何度欠伸を殺したことだろうか。こうしていることにしても、どうせなら椿希と話している方がよほど心安らかになるし、楽しいのに、早く目的の駅に着いてくれないかと上の空である。よって、二人で話した内容もそれほど覚えておらず、ここでもまた柊一がなんとも可哀相なことだ。 駅に着く少し前になって、それまでほとんど柊一が話をしていたのが一度途切れたので、葵生は思い出したように口を開いた。 「あまり俺のことを塾の皆に言って回るのは、止してもらえないか。皆の中で俺の間違った像が出来上がっていくのを見ていると、俺はそんな大した人間でもないのにって辛くなるんだ。俺のありのままの姿は分かる人には分かるかもしれないけれど、それにしても聞いていて恥ずかしいから」 葵生がそう感じるのも当然のことである。だが柊一にしてみれば、葵生の名声を高めようと思ってのことなのに、そういう風に言われるのは心外だと思って、 「どうして。僕は葵生は皆から注目されるに値すると思っているんだけどな。もっと目立っていいと思うし、もっと自信を持つべきなんだ」 と訴える。葵生は謙虚な気持ちから言っているのではなく、心底そういう風に上へ上へと持ち上げられるのが厄介で迷惑だと感じているので、柊一の言葉にもただ鬱陶しいものとしか思えない。 「俺のことを評価してくれるのは嬉しいけど、俺の言動を事細かに、それから脚色を加えて大袈裟に皆に伝えるのは困るんだ。もっとはっきり言ってしまえば、それだけ俺のことを観察されているのだと思うと、気味が悪い」 婉曲に言うより、しっかりと思っていることを伝えようと思った葵生は、自然と言葉の調子にも強さが込もっていた。葵生の思いの強さを感じられた柊一は、ばつの悪い思いをしたものの、「でも」「だけど」と口篭っていて諦めようとしない。 「そういうことだから」 と、冷たく突き放すように言ってしまうと、葵生は一切の言い訳を受け付けまいと遠くの景色を見詰めている。柊一は厳しく言われてもなお、あまりにも整っている葵生の横顔を見ながら、葵生は惜しいことをしている、と思ってそっと溜め息を吐いたのだった。
都会の街並みがどんどん遠ざかり、光が遠のいて家々の弱い明かりが見えるようになると、光塾の最寄り駅に着いた。この辺りは住宅街が広がっていることもあって、どこかにふらっと寄り道の出来るようなところはなく、皆足早に家路に着こうとしている。街からそう遠く離れていないのに、明かりの数も強さもぐっと減り、落ち着いた雰囲気と共にどこか寂しさも感じられて、心細い心地もする。 車のよく通る大通りを少し歩いていても、喧騒の音は極端に違っていて静かだから、色々と考えるにはうってつけである。葵生も柊一も、それぞれの思いを巡らせながら光塾への道程をゆっくりと歩いていたのだった。
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