その年の夏は猛暑で、ただじっとしているだけでも汗が滲み出て来た。体に纏わりつく雫が衣服に張り付いて、予備校までの道のりは地下鉄から上がってすぐに着くというのに、それだけでも不快感を催すほどであった。蝉の鳴く声が喧しくあちこちから聞こえて来て、しまいにはまだ朝の陽が昇り切らぬうちから大合唱するので目が覚める。公園に子供たちが集まって来て体操をするのや、散歩をする人の姿も見受けられるので、葵生もそれに倣って早く起きて少しでも勉強に勤しんだ。暑いといってもまだ朝のこと、すっきりとした頭でいられるうちにと勉強の計画も工夫して、順序立てて効率よく行っていった。 予備校にいる間は冷房のよく効いた部屋で一日中講義を受けたり、自習室にいたりしたのだが、この冷房が場所によっては効きすぎて、女子の中には寒さのあまり唇が紫に変色するような者もいたほどだった。こんな様子を見るにつけても、やはりあの彼女のことが思い出されて、今頃はどうしているだろうかと思い詰めはしないけれど案じることも多いのだった。
交際しているといっても受験生の身分柄二人揃ってどこかへ出掛けるというわけでもなく、ましてや次の恋人が出来るまでという珍しい契約の元であったためか、他の予備校生たちからは二人がそのような関係であるとはとても思えず、親しい姉弟のようにしか見えなかったのだった。葦香はそれが不満ではあったけれど、置かれている立場をよく理解していたので言い出すことも出来ない。ましてや、日に日に確かな手応えを得ながら合格へと近付いている葵生に対し、受験生としては三年目である葦香はまだ合格可能性が曖昧であるというのだから、そこを葵生に指摘されるのはとても気恥かしい。流石に少し面やつれしてほっそりとしているけれど、頬の僅かにこけたのが鋭さを増して、涼しげな目元が寝不足ではっきりと二重の線が入っているのだとか、細かなところが目立っていかに整っているかがはっきりと分かる。それに比べて、自分はというと、食事制限をしたり化粧をしたり日に肌を曝したりと、とにかく造り磨き上げてきたのが痛々しく惨めであると、殊更葦香はうち沈んでいる。 かと言って、何もせずにはいられない。まだ葵生は女学院の君なる人のことが心に根付いているのだから、それをどうにか引き抜いて、新たに自分を植え付けなければならないからなのだが、なかなか二人きりでいられる時間もなく、どうにか自習を切り上げる時間を揃えたり昼食を一緒に摂ったりする程度にしか設けられないのが、ますます熱を帯びて行く恋心にはとても物足りないことであった。 夏期講習になって、予備校生も現役高校生と共に講義を受けることになった。年齢など一つ二つほどしか違わないはずなのに、予備校生の中には予備校が終わると息抜きと称して遊びに行ったり、彼氏彼女の間柄になって二人で出掛けたりと、おおよそ大学生と変わらないであろう日々を過ごしている者も多く、また髪を染めたりピアスを開けたり、化粧をしたりしているからか、実年齢以上の差があるように見える。 葵生は高校生の時と変わらず髪も耳もそのままなのだが、それでも現役生に比べて気持ちの上でやや余裕があるためか落ち着いた物腰で、医薬学部進学のための塾においては一年前に聞き学んだことを確認するようにして受講し、この大手予備校では更に自分の実力を身につける場所と定めて、殊更熱心に取り組んでいた。そうは言っても、葵生は人の前ではそのような素振りは見せず、ただ真面目にしているだけで、自宅に帰ってからの物凄い集中力は、声を掛けるのも躊躇われるほどであった。何がそう葵生を突き動かすのだろうと、知る人は不思議に思うだろう。母はそんな葵生の姿を見て満足そうに見守りながら、「今度こそ合格するに違いない」と思い込んでいたのだった。 通常であれば、大手予備校を夕方まで受講し、医学部のための塾を夜から週に二日通っていたのだが、夏期講習となると事情が変わって来る。塾も午前から講義が始まるのでどうしても予備校と時間が重なってしまい、さてどうしようかと悩ましいことになっていた。何度も予定表を見比べながら検討した結果、医学部進学があくまでも目標なのでそちらを優先し、弱点または確認したいと思っている講義のみを予備校で学ぶことにしようと決め、そのように講義を申し込んだ。 だから予備校で会う機会がめっきり減ってしまった葦香が、葵生と会えず寂しく思うのは言うまでもない。今まで毎日顔を合わせていたのが、週に一度ほどしか見ることがなくなったのはなんという辛いことか。夏期講習はそれまでの予備校の講義と違って、自分で好きな講義を受講出来るので、葵生のように掛け持ちしていなくても毎回同じものを受けるとは限らないのだが、葵生の場合は特に補助的に予備校の講義を受けることにした上、たとえこちらに来ていたとしても葦香がその講座を受講していないこともあって、ますます機会が減ってしまっていた。 「寂しいから止めてほしい。一緒に講義を受けたい」 などと、誰が言えるだろうか。ただでさえ契約上の彼氏彼女だというのに、そのような欲を見せては葵生の心が離れていくに違いないし、そんな我儘を言って葵生を困らせ、結果として葵生の大学受験が失敗に終わるようなことがあってはならないと、出掛かった言葉を呑み込んで葦香は耐えていた。葵生とたまに会うことがあれば、あちらの様子はどうか、今の調子はどうか、といったごく無難なことばかりの会話になってしまうのが味気ないものである。いっそのこと葵生のことなど忘れて、無我夢中に受験勉強に邁進出来ればいいのだが、次に会う楽しみを胸に辛い受験生活を過ごしているのだから、やはり忘れることなど出来ようはずがない。 葦香のそんなやきもきした思いに全く気付かぬわけでもないのだが、あくまでも本命の恋人が出来るまでの繋ぎとして考えようと言っていたのが、情が移ったのか、こちらを本気で頼りにしているのを見ていると、突き放すことも出来ない。夏期講習の慌ただしいのを理由に、少し距離を置けたら気が少しは楽になるだろうかと、葵生は少し日頃の憂さ辛さを晴らそうと、ここぞとばかりに真面目一途に勉強に取り組んでいた。 予備校に来たときに、あまり得意ではない英語を遅い時間に受講することにした。現役時代、椿希にいつも劣っていたけれど、彼女になんとしても追いつきたいと必死になっているうち、自然と成績も伸びてきたのだが、目標がなくなってからはどういうわけか、泡が弾けたかのように今ひとつの出来になり下がってしまった。実力はある程度ついていたので決して足を引っ張るほどではないけれど、英語さえもう少し良くなれば合格にもっと近付けるので、長文読解を速読かつ正確に理解出来るよう特に時間を割いていた。 葵生はいつも時間ぎりぎりになって教室に入るので、席は最前列か最後尾付近しか空いていない。ある日、最前列は流石に黒板が前に迫っているし粉が飛んで来るのでと、学生の体で邪魔にならないようなところを選んで席に着こうとしたところ、鞄や荷物を隣、そのまた隣と二席に渡って使っていたので場所取りでもしているのだろうかと、葵生が困って往生していると、 「すみません。ここ空いています」 と、持ち主の女子学生が言った。葵生は軽く頭を下げながら座るときに、ちらとその相手の顔を見たところ、際立った美形でも可愛らしさでもないのだが、なんとも言い難い人懐こい愛嬌を感じられて目に留まってしまった。少しそばかすが目立ち、眉も太くぼやけている。目も小さく円らであるのが年齢以上に若く見え、鼻も顔にちょこんと付いているように小さく、唇はぷっくりと可愛らしく見える。何もかも小造りで、光塾で美人や可憐な人たちに見慣れていた葵生には物足りないようであるが、小動物のような愛くるしさのあるこの女子学生を見て、心惹かれるとまではいかないにせよ興を感じられて、つい見てしまう容貌であった。 あまりじっと見ていたつもりではないが、視線が遣られていたので向こうが気になったらしく、 「何か」 と訊ねた。葵生は取りすまして、 「いえ、なんでもないです」 と言ったものの、その様子を見ていても近寄りやすく馴れ親しみやすそうなので、現役なのかと訊ねると相手はそうだと言って微笑んでいる。その笑顔もまた、初対面の相手に向けるようなものというよりは、もうすっかり馴染みの仲のようなものである。名は、播磨ぼたんと言った。 それから夏期講習のこの時間になると、この播磨ぼたんとよく話すようになり、自然と親しくなっていった。相手は現役高校生ということもあって、受験の心構えや雰囲気などを知りたがって、それを葵生が丁寧に答えていた。兄妹のように見える微笑ましさである。 話をしていくうちに、ぼたんは女学院の学生ということが分かり、何かにつけて縁があるのを不思議に面白く思う。進学校の学生が集まるので、自然と同じ出身校が重なることは多いのだが、それにつけても親しくなる相手が皆、女学院出身だということは、まだまだ椿希との縁も切れていないに違いないと心強いことであった。 ぼたんは葦香よりもずっと気安く話すことが出来、言葉を選ばず思ったことを素直に話しても構わないであろうという気の置けないところが、なんといっても好ましかった。葦香のように男子から崇められ、振り向かずにはいられないような人というのは傍目には憧れるけれど、いざ付き合ってみれば気詰まりするところも多く、思いを寄せられるのは有難いけれど無碍に扱えない重々しさがあって、ぼたんと話していると心は軽く慰められて、会える日が待ち遠しいとさえ思うようになった。親しくなるにつれ、一緒に帰ることもあり、帰るまでに喫茶店に寄って短い時間歓談することもあり、友人以上の間柄のようではあるが、人の心は見た目だけで推し量ることの出来るものではないので、さて真相はどうだったのやら。 ぼたんは年齢よりもずっと幼くおっとりとしていて、確かに学はあるけれどそれ以外のこととなると無知なところが多く、世間から見て恥ずかしく慎むようなこともあっさり口にしてしまう。女子校の出身ではあるが、男馴れしていないわけではなく、中学生の頃に小学校の同級生の男子と初めて交際したというのだから、その面では葵生よりはずっと物馴れていて、時に葵生を驚かせるようなことも言うのだから、見た目で人の生き様を判断しにくいこともあるのだった。 講義が予定よりも早く終了し、時間もある夕暮れ、外はまだ十分に明るく夕陽の橙よりもまだ水色の晴れ渡った空が広がる、少し涼しげな風の吹く頃、どちらが言い出すともなく喫茶店へと入って行った。 コーヒーの香り高いのが店いっぱいに広がり、豊富なメニューから一つを選ぶのも惜しいことであるが、あの花火大会の始まる前に入ったのもちょうどこの時間頃だったと思い出すと、本日のお勧めのものを選び、何も他に混ぜることなく飲んだ。 「そんな苦いものよく飲めるね。私なんて紅茶ですら、砂糖をいっぱい入れないと苦くて飲めないよ」 と言いながら、目の前で何本もの粉砂糖を入れ、ミルクも何杯も入れて掻き混ぜている。とても上品とは見えない様ではある。しかし、美味しそうに顔を綻ばせて飲むのを見ていると、咎める気持ちも失せてしまう不思議な人柄であった。 いつものことだが、話はほとんどぼたんが喋っている。葵生はひたすら聞き手に回るのだが、お喋りな妹がいたらこのような感じなのだろうかと、兄のような気持ちでいるので、時に呆れながらも楽しんでいた。 しかし今日の話はいつもに増して過激で、昔の彼氏のことのほか、理想とする男のこと、そしてその相手を見つけたときにどのようにして接近するかなどを、楽しげに話し始めたのだった。 「人にはいろんな意見があると思うけれど、私はこれはという人がいればすぐに行動を移す性質なんです。どういうところを見るかと言えば、やはり何と言っても第一印象でしょう。見た目の良い人に惹かれることが多いのは、人間の性でしょうからどうしようもないけれど、それに加えて仕草や表情だとかは、その人の人柄が透けて見えるようなので、つい観察してしまいます。 私は女子校出身だけど、こういう塾や予備校などで男子と接して、交際寸前までの仲になった人や実際に短期間付き合った人もいたけれど、想像していたとおりの人に出会うことはなかなか出来ないみたいで。まあ、向こうもきっと私のことをそう思っているんでしょうけれど」 と、こういうことは熱弁をふるって休むことなく一気に話をしたものだから、口が渇いたのかまだ熱い紅茶をがぶりと飲んだ。だが、すぐに熱さでむせて、口の周りを汚くしてしまった。 「そういう奔放なところが男には放っておけないと思うのかもしれないな」 と、葵生が苦笑いしながら言うと、 「そうそう、そう言ってもらえるとすごく嬉しい。だけどやっぱり私もいつかは大人の男性と恋に堕ちたくて。こんな私を包みこんでくれるような温かな人がいい、と思うけれど、手頃な人がいるとつい声を掛けてしまうから、いけない癖と分かっているけれど体を許しても構わないかな、なんて考えるんです」 と、恥じる様子もなく言ったので、葵生の方が照れて顔を逸らしてしまう。何か言えば動揺しているのが悟られるようで、言葉も言えない。 それからもぼたんは次々に話を繰り出すのだが、葵生は適当に相槌を打ちながら、そういう話は女子同士でするとしても、男である俺の前でするなんてと、怪しからぬこととまではいかないが、女心は分からないと、また余計な物思いの種を見つけてしまったのだった。もう少し大人になれば、そういうことを言われてもたじろぐことなく、笑って上手くあしらうことも出来るのだろうが、それでもふと、椿希ならば年を重ねようとそのような開けっ広げに、明け透けに話すだろうかと思い合わせると、あのような慎ましやかで気品のある人こそ手に入れたいものだと、改めて懐かしく恋しく思うのだった。 しかし、それでもあのぼたんの愛嬌には慰められるところもあり、心に秘めることは積もらせながらも、なおも睦まじい友人同士の付き合いを続けていたのだった。
夏の日があれよあれよと過ぎて行くうちに、行きたいと思ってもなかなか葵生に会う機会もなく口に出せなかった花火大会も終わってしまい、まだ残暑は厳しいものの、もう少しずつ秋へと季節は移ろい行くのが、葦香には大層あわれな様子でしっとりと過ごしている。 葵生は夏の生まれだったので、もう十九になっていた。成人には今少しというところであるが、もうすっかり大人の男として見目かたちも麗しく、沈着冷静な物腰に冗談めいた表情も加わって、打ち解けにくいような外見が、いくらかは緩和されたように見える。 葦香は葵生の誕生日には何か贈ろうと思って、あれこれ考えたけれど、まだ契約恋人という状態であるから、あまり重々しいものを送ってはかえって気を遣わせることにもなろうと、色気のないことであるが、天満宮で購入した合格祈願のお守りと鉛筆を揃えて、話のついでにさりげなく渡した。 葵生は受け取ると笑って、 「ありがとう。なんだか人から物をもらうのは初めてだ」 と、少し照れたようにしているのが男ではあるが、可愛らしく見える。初めてという言葉に葦香も嬉しくなって、女学院の君を超えたとして逸る心を抑えながら、 「私のような連敗中の人間からこんなお守りを渡されても、かえって厄がつくように思うかもしれないけれど、ちゃんと神社で祓いを受けたものだから、御利益の方が大きいんじゃないかと思ってね」 と、いつものようなさばさばとした調子で言った。本当はその時に絵馬まで書いて、葵生の分と自分の分を二つ、それぞれの合格を祈願してきたのだが、それは胸に秘めておく。何でもすぐに口にする性質の葦香がこれほど秘め事を多く作るのは初めてのことで、これほどひたむきになれるとは自分でも思いもよらないことだった。 葵生は葦香が笑うのを見て、 「あまり根を詰め過ぎないようにな。最近は見ていても顔色も優れなくて、目も虚ろに見えたから心配していたんだ。話すことも前の調子のように、毒舌と言われようとずばり意見する姐御のようなところが、このところ鳴りを潜めてしまっていたのが残念だった。それも、やはり大詰めになろうという時期だから仕方のないことだけれど、元気のないのを引き摺って秋から冬へと繋いでしまうのではないかという気がして、でもこちらも無理するなよと言えるような立場ではなくて、どうするべきか考えあぐねていたものだった」 と言ったのが葦香は嬉しいやら恥ずかしいやらである。細かな変化などには気付かないか、気付いていてもそのことを口にするような人ではないと見定めていたのが、こちらを気にしてくれていたのだと知って面映ゆい。 「それはお気遣いどうもありがとう。そうね、これからあまり考え過ぎないようにする」 女学院の君のことは敢えて出さないでおいた。きっと葵生は、彼女に対しては常に観察して僅かな違いも見抜いていたに違いない。 「それじゃあ、今度はあの大学に行くのを俺が誘ってもいいだろうか。並木道の黄葉がとても綺麗だというから、行ってみたくて。大学に入ってから存分に楽しむとしても、気晴らしにはなるだろう。俺もそんなに長い間楽しいことを我慢していられないからな」 葦香は表面的にはそれを当然のようにして、 「そうね。それじゃあその日が来るのを支えに、受験勉強に励むとしようかな」 と言ったが、内心では葵生のこの優しさが自分にだけ向けられているのがとても嬉しく、舞い上がるようであった。
|
|