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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第87回   第三章 第十七話 【綴織】2
 夏休みの間、椿希はひたすらアルバイトに勤しんだ。一度くらいは両親のいる北海道へ旅行がてら行こうかと思ったけれど、今年は京都に旅行してしまったため経済的に断念せざるを得なかったが、代わりに正月に行くということで了解してもらったのだった。
つれづれな一人暮らしなのですることもなく、毎日遊び呆けるわけにもいかず、部屋にいる間は本を読んだり英語の勉強をしたりするぐらいしかすることがない。ならば働く時間を増やしたいところだが、一時期調子の良かった体調を、また少し崩して数値が悪くなってしまい、再び薬を飲まなければならなくなった。
 「この病気の中では、薬を飲まないといけないとはいえ少量だし、数値からしても軽症の部類に入るんだけど、やっぱりちゃんと体調管理は人並み以上にしっかりしてくださいね。くれぐれも無理をしないように」
 大学病院の向日先生が言った。大学生になってから初めての診察となったのだが、先生はとても若々しく可愛らしい笑顔を向けている。流石に大学生のようだというのは言い過ぎのようであるが、大学院生と言っても差し支えのない様子であるが、その話し方といい言葉遣いといい、やはり同年配の友人たちにはない安らぎを感じられて、椿希は面倒な外来ではあるが決して嫌いではない。
 「大丈夫です。それと、実は私この大学の学生なんです。だから何かあったら、すぐにここでお世話になりますから」
 にっこりと笑いながら言う椿希に、向日あかり医師は呆れたように微笑んだ。
 「それは困るなあ。あまりここには来ない方がいいんだから。でも、うちの大学に合格したんだ、おめでとう。学部はどこ。どこであっても後輩には変わりないんだけど」
 入院したこともあって、すっかり打ち解けた仲の二人である。医師と患者という立場上、どうしても一線を引かざるを得ないのだが、それを除いては姉妹のような睦まじい関係であった。
 「文学部です。でも、先生。私の友達がここの医学部に進学したいと言っているんです。現役では残念ながら不合格だったけど、きっと来年には合格してくると思いますから、先生の本当の後輩になるかもしれませんよ」
 向日医師は相槌を打ちながら感心した様子である。
 「へえ、そうなんだ。お友達が来年うちに来てくれたら、本当にどこかで会うかもしれないね。私も当分は転勤がないと思うし」
 ほかにも少しばかり話があったようであるが、診察時間にも限りがあるので適当なところで切り上げたようである。こういう時、やはりこの関係がもどかしく感じるのだった。病が繋いだ縁というのが奇妙ではあるが、椿希にとってはこの主治医だからこそ悲観的にならずに済んだと感謝するばかりなので、病院というあまり近寄りたくないところではあるけれど、向かう足取りは決して重たくはなかった。
 処方された薬をすぐに取りに行くか迷ったが、まだ数日の猶予があるので先に藤悟と約束をしていたので、会いに行った。あまり気乗りのしない約束ではあったけれど、最後に会ったときからなんとなく気まずく、連絡も怠っていたのだが、以前京都土産を貰ったことがあったお返しを何としてもしなければと、律儀にも思っていたのだった。なんといっても兄の親友だった人で、両親も息子のように思っているのだから、幼稚な我儘からあまり疎遠になっては兄のためにも心苦しいので、兄の思い出を語り合うことの出来る家族以外のただ一人の人として、やはりこれからも付き合って行きたいと思うのだった。
 藤悟は椿希の部屋に行くと言ったのだが、幼馴染みとはいえ流石に男性を部屋に入れるのは気が引けて、部屋が片付いていないことを理由に別の場所でとお願いした。
 「椿希の部屋が片付いていないなんて、そんなことがあるものだろうか」
と、不満がったけれど、椿希の思うところも分からないでもないのでとりあえず了承した。とはいえ、椿希がその状況になるのを拒んだということが、藤悟にとっては遣る瀬無い思いに駆られるのであった。
 だがそれも、椿希の姿を久し振りに見て気が変わった。以前のようにただ清らかさが先行していたのが、今となってはすっかり大人びて艶やかなのだから、これは気持ちを抑えつけられるかどうかも怪しく、断られて正解だったように思った。
 身なりも、着る服に椿希の好みが現れている。個性的な服装を好む同年代の女子学生をよく見かけるが、椿希は細身の体によく似合う清楚なもので、取り立てて凝っているようでないのがかえってさっぱりと爽やかに見える。装飾品で地味にならないよう、少し華やかに見せているのが、音楽や絵画など芸術的な感性に優れているからなのだろうか、色合いにも気を遣っているようで程度を弁えていて、とても好ましく見える。
 今日は京都土産を渡すと聞いていたけれど、何も聞かされていなくて突然呼び出されたならば期待してしまって、この姿を見てしまっては離れ難く思うに違いない。しかし、それ以上に踏み切ることはあるわけがないので、そういうところが弱味であると藤悟自身もよく分かっているのだった。
 京都でのことを聞き、撮った写真を眺めながら藤悟は、先程まで思い募らせていたわだかまりも溶けるように消え、自然と微笑みながら相槌を打ったり問いかけたりしていた。それはかつての何も胸に抱かなかった頃の兄妹のような、微笑ましい親しさであった。
 「最近は滅多に会うこともなくなって、気兼ねせずに出入り出来ていたあの家も別の人が住んでしまって、なんとなく寂しい気分でいたけど、こうしてまた椿希と差向いで話していると昔に返ったようで、嬉しく思うよ」
と言うのは本心からであろう。椿希も微笑みながら、
 「本当にご無沙汰してしまったけど、また親たちもいずれ帰って来るだろうし、どうかまた親たちにも、兄さんにも会いに行ってやってね。喜ぶから」
と、おっとりした調子で言った。
 藤悟は、こちらが下心を持って椿希に相対しなければこのような態度であるのに、少しでもこちらがその気を見せればあからさまではないけれど、疎ましく思うようなのがあわれなことであった。大人になってしまうと、子供の頃のように自由に心と心を行き交うことも出来たのが、隔たりが出来て様子を窺わねばならなくなったのが、なまじ幼少の頃から親しくしていただけに残念なことであった。
 なんといっても椿希の方が初めは藤悟に憧れていたというのに、今となってはそれが逆転してしまっている。それもあの葵生と出会ってしまったからであろうか。葵生は男から見ても確かに艶めかしく、人を惑わせるような色香を伴った風采であったから、納得いかないわけでもないが、頑ななところのある椿希が葵生に籠絡されようとは、見る目を違えたかと落胆せずにはいられない。しかし、二人がそれから会っている様子もなく、連絡を取っているわけではないので、二人の間にはただ感情だけが流れているばかりなのだと、まだ付け入る余地はあるに違いないと、藤悟は自分を慰めもしていた。
 「相変わらず妥子ちゃんとは仲良くやっているみたいで、羨ましい親友の仲だな。それにしても妥子ちゃんも本当に大人びて、私服を見ればもう女の子というよりは女性といった感じで、綺麗になったね」
 藤悟がそう言うので、これを機にと椿希はそれとなく妥子のことを仄めかして話した。藤悟は心外な顔をしたが、妥子のことを知らないわけではないし、椿希の友人ならば信用が置けるのは間違いないので、心動かされるような気にもなった。
 「妥子はあの通り賢くてしっかりしているから、同級生の男の子にとっては持て余してしまうところがあるみたいでね。妥子だっていつも芯の通していたいんじゃなく、時々は誰かに甘えたいときだってあるはずだから、包容力のある少し年上の男の人が、そんなところを分かってあげてくれたらと思うの」
 そんな当たり前のことを聞いても、折が折だからか、いつもよりもしみじみと心に染みわたるようで、そこまで椿希も言うならばと、
 「いつか会う機会でもあればその時にでも、色々と話をしてみたいものだね。妥子ちゃんとは病院で会ったきりだけれど、思えばとても賢い子だったと覚えているよ」
と、いかにも乗り気な風にはせず、友人に会うつもりでいるようにしたのが心憎いところであった。
 椿希としては、親友のためを思ってしたことだが差し出がましくはなかったかと、言った傍から心苦しく振り返ったものの、藤悟の人柄が軽々しくなく誠実で優美であるところは重々承知しているので、妥子がこれで少しでも心が慰められるのなら、と思っていたのだとか。
 妥子にはそれから少し後で、「こういうことになっているけれど、どうか」と報せたが、妥子は、「珍しいことをする」と、普段の思慮深さゆえにこういう取次などはしなかったのに、それも恋の奥深さを知ったゆえなのだろうかと思って、
 「気遣ってくれてどうもありがとう。春成さんのことはかねがね素晴らしい人柄だと思っていたし、なんといっても椿希の信頼する幼馴染みだから、機会があれば是非にでも」
と、短く返事を送った。
 思い煩うこともこれで少しは軽くなるであろうと思われる。今頃あの笙馬も新たにいい人を見つけているのだろうかと思い遣ると、藤悟とのことが今後どうなるか知れないとしても、この機に人から真面目に思われていたのを本来の性質に戻し改め、心を開いていくことにしたのだった。
 笙馬に連絡を取るか取るまいか、連絡先を知っているので思い切ってどうしているかと尋ねようかともいう考えが過ったが、もうあれから数か月も経って今更未練がましくするのも、思い切りの悪いことだとしてそれきりになってしまったようである。


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