流れるままに時は過ぎ、もう高校を卒業してから何か月経っただろう。雨がしとどに降り、濡れた紫陽花の葉が、たっぷりと受け止めた雫を落として土に跳ね返るのが風情ありげに見えるけれど、水溜まりの出来たところを避けながら歩いていると、感じ入ることもままならないのが残念な、このところの季節であった。 椿希がどうにか都合を付けて是非行きたいと思っていた賀茂の葵祭へ行こうと計画していたのは、一体いつからだったのだろうか。京都への憧れは兼ねてからあったけれど、おそらく藤悟に写真を見せてもらってからだろうか、必ず大学生になったらこの目で見なければと心に決めていて、暇さえあれば本を読んで知識を深め、その時がやって来るのを心待ちにしていたのだった。あの藤悟からもらった組紐はもう付けてはいないけれど、机の引き出しに大切にしまっていて、祭はもちろんのこと様々な所縁ある寺社仏閣、そして由緒ある伝統工芸などに触れることが楽しみで、気もそぞろな様子である。しかし、大学の講義の都合もあって葵祭は残念ながら見送ることとなり、代わりに祇園祭ならば試験も終わっていることだし念願叶いそうだとして、ここのところは熱心に祇園祭のことを調べている。 そんな椿希の心積もりを知った妥子が黙っているわけがなく、 「私も誘ってよ。私は日本文学専攻希望なんだから是非見聞のためにも、同行させてもらいたいのに」 と言ってきた。勿論断る理由などなく、妥子が共に来てくれるならばますます楽しい旅行になるに違いないと、快諾した。ゆり子を誘おうかという話になったが、ゆり子は無事に合格した女子大学のサークル活動が忙しいらしく、都合が合わなかった。従って親友同士二人きりでの初めての旅となったわけである。 こういうことには目ざとい茂孝がすかさず椿希のところへやって来て、 「どうしてそんなに面白そうな企画を教えてくれなかったの。俺も京都は是非行きたいところなのに。しかも祇園祭だなんて、三大祭の一つに数えられるくらいだから、一度行ってみたいのに」 と、いかにも口惜しそうに恨み言を言う。 「ごめんね。是非是非、大親友と二人だけで旅行がしてみたいとずっと思っていたことだから。この機会にもっと仲良くなったら、他の人も付け入る隙がなくなっちゃうかもね」 と、茂孝の意図を交わすようにはぐらかすのも、なんとも可愛らしく思えて憎めない。 「それでは、今度の旅行の予定には是非俺も入れて欲しいね。大学生になったんだから、折角だから思い切って遠いところへ行ってみたい」 と言うのは生々しくはないけれど、やはり椿希にとってはそういう艶めいた間柄ではないのにと、こちらの胸の内を探って、色良い返事を引き出そうとしているのが心苦しいことであった。 「思い切ってどこかへ行くのは楽しいよね。それならいっそのこと、皆を呼んじゃおうか。きっといい思い出がたくさん作れるはずよ」 察しのいい椿希のことだから気付いていないわけがないのにと、これほどに隙を見せないのに呆れて笑ってしまいそうだけれど、そんな彼女だからこそ口説き甲斐もあるというもの、こういう手応えのある人こそ、いつまでも飽きさせない人なのだと、茂孝は一旦このことは切り上げたけれど、やはり思いきれそうにない。葵生も椿希とのやり取りがとても楽しみでいたのだが、こういうところが茂孝も似ていると噂される所以なのかもしれないのだった。 天候が懸念されたが、その旅の間中はずっと晴れが予報されて、まずは一安心であった。 碁盤の目に作られた道を歩く、自分と同じ年頃の学生たちと擦れ違うたび、誰かに似た人がいたような気がしてほんのりと心が温められる。祭のある頃だからなのか、外国人もあちらこちらで観光しているのが見られ、そのときには異国の家族や友人たちのことを思い出す。高い建物のない鴨川の川辺に佇む恋人たちが等間隔を開けて座り語らい合うという、噂に聞いていた光景を見て、椿希も妥子もそれぞれ胸にある人のことを思い浮かべたに違いない。京都は盆地なので山に囲まれているが、あれが大文字だの、あのあたりが嵐山、鞍馬、大原三千院はあのあたりだの、二人で本を覗きながら京都の街を少しでも目に焼き付け思い出にしようとしていたのは、微笑ましかったことであろう。 あまりこの旅の祭りの間のことは伝わっていないので多くを書き記すことは出来ないけれど、住み慣れた街を離れて古の時代を感じさせる京都にいるせいか、一層しみじみと、趣や古来の嗜みある人々や文化などを肌から感じたせいか、語り尽くした様々な思いに胸が熱くなったのだった。ゆかしい町屋造りの家々に祇園の町を歩き座敷へ急ぐ、あどけなさの残る舞妓や気品溢れる芸妓、観光客が扮装した変身舞妓、哲学の道を通ればここを離れ難く思ってゆっくりと噛み締めるように、何枚も写真を撮りながら忘れまいと歩いて行く。鞍馬の山へ向かう電車に乗りながら眺めた紅葉の頃が偲ばれる青い葉や川のせせらぎ、渡月橋を流れる桂川は鴨川と違って雄々しく荒れたのが、見ようによってはこの厳しい自然こそ本来の姿に違いないと、感嘆の息が漏れる。嵯峨のあたりの竹山の、上も横も緑の景色が広がるのは幻想的で、閑静さから鳥の囀る声も虫の音も微かに聞こえてくるようで、心が現れて瑞々しさが胸いっぱいに広がって行く。夏の蒸し返るような暑さも水音に紛れ、涼しげな風が川からさやさやとそよぐ。 碁盤の目の町のあちこちの鉾に、男たちが囃し立てている様子や多くの人の賑わいは、流石は三大祭と呼ばれるだけあって大層見事で、出来るものならば鉾一つ一つを見比べてみたいけれど、この人の多さは尋常ではなく、とても全てを見て回れそうにない。しかし、それでもここに来れたというだけで胸がいっぱいになる感動をたくさん得られたので、とても満足して帰って行ったのだった。 せっかく京都に来たのでと、出来るだけ土産物も京都らしさや和風のものの多く売ってある店を、宿の仲居さんに聞いて訪ねて行った。 組紐も売ってあるのを見ると、椿希は微笑んであの藤悟からもらったものを思い出した。藤悟にも何か買って帰るべきなのかもしれないが、なんとなく物というのは憚られる気がして、色気ない味気ないと思われるかもしれないが和菓子にしようかと思い、ここでは選ばなかった。和物というものは品があって見ているだけで、淑やかな気分になれるのだが、いざ実用として使おうとすれば場面を選ぶので難しい。妥子も気に入ったものは色々あるようだが、なかなか絞り切ることが出来ないらしい。 そんな中、目を引くものがあった。その綴織の袱紗は桜の柄が描かれていて、舞い散る花弁がはらはらと爽やかでありながら、その淡い色合いが花は必ず散るという儚さを感じさせた。蝶が一羽、桜の花の近くを飛ぶのが一層心惹かれる図柄で、椿希はそれを手にとって眺めた。 「綴織はとても織るのに手間のかかるものなんですよ」 少し中年の年頃の、品のある店員が言った。 「桜と胡蝶」と題されたその西陣織を手にしていると、妥子が気付いて寄って来た。 「すごく綺麗。袱紗の中で一番それが、椿希には合っているような気がする」 妥子も勧めるので、ただ美しく思っていただけだったのが急に手に入れたい気になって、とうとうそれを購入してしまった。おそらく使い道などないだろうけれど、旅の思い出として部屋に飾っておくのも良いかもしれないと思い成した。 それから扇子を色違いで二人は同じ柄のものを買い、妥子は菓子箱や手鏡などを買っていた。荷物が随分多くなってしまって、帰り道は苦労しながら歩いたのだが、それもまたいい思い出であった。
宴の後は物寂しい心地になるとはよく言ったもので、椿希もいつになくしんみりとしていて、独りきりの部屋でわざと照明を落としてぼんやり外を眺めている。夏の夜なので窓を開け放しにして、そよそよと吹く風に心地よく当たり、月の光を浴びて悩ましげに壁にもたれかかっているのが艶めかしい。こうした夜に思い出すのは、あの星屑の空の下で語らい合ったことで、綴織を手に取り撫でながらそっとこれまでのことを振り返っていた。 もう見慣れてしまっているはずなのに、この綴織の繊細で上品な織り方がこの夜は大層艶やかに見え、恋もこうしたものなのだろうかと、結ばれた人のことを思いながら、しみじみとしている。機を織るように丁寧に紡がねば成り立たない、切るも切らぬも人の心ひとつなのだと悟ると、あまりにつれなくしてしまった心の冷たさを、さぞあの人は恨んでいることだろうと、詫びたい気持ちである。もしまた巡り会うことがあるのなら、是非にも冷淡であったことを詫びなければならないが、今はその時ではない、今度こそ合格するという気でいるのだから邪魔立てはするまいと、厳しく心を取り締まるのは、凛としていると評されただけあって気高いようにも見える。 他の男に気持ちを移すことは簡単であるし、そうすることで万一再会の望みが叶わないとしても傷つくことはないであろうけれど、それではますますあの情熱は何だったのかと後悔するであろうから、ひとまず葵生がこの大学に合格して、そのときにどうなるかで様子を見ようと思い定める。まだ向こうが強い気持ちのままでいるのなら、どうにかしてでも彼は会おうとするであろうし、自分もそうすることにしよう。だが、気持ちがすっかり冷めてしまっているなら、それきりの縁だったと諦めることにしよう。そのように考えて、まもなくやって来る花火大会のことに思いを移した。 それからのめくるめく思いのことをいちいち書き連ねるのも、椿希のことについては上手く伝わっていないので出来そうにない。葵生のことならば、どうやって知り得たのかということまで細かく聞かされたものだから、むしろ書くものと書かずにおくものとの選別に悩まされるのだが、椿希のことといったら上辺のことばかりで細やかなところは想像で繋いで書くことしか出来ないのが辛いところである。
椿希はアルバイト先でも、時々会うことのあった大学の友人たちからも、その明るく華やかな性質から男女問わず大層慕われていて、 「これで特定の彼氏がいないというのが不思議なくらいだ。本当は隠れて誰かと付き合っているんじゃないか」 といった噂も頻繁に飛び交っていた。見る者誰もが、その類稀な整った美貌と背筋の通った容姿、手脚の長いことや透明感ある肌などに嘆息吐かずにはいられないのだが、圧倒するようなものではなく、聡明さと親しみを感じさせ、微笑ませるような鷹揚としたところが素晴らしいと、素直に認める者ばかりであった。そのところは、分別もついている年頃からであろうか、塾にいた一部の心ない女子学生のような醜い罵声は少しも聞こえなかったのである。 そんな風に言われていることは、僅かばかり耳に入って来るのだが、それにいちいち反応して否定して回るのもかえって白々しく、不興を買うことにもなりかねないし自分自身も気分の良いものではないので、素知らぬ振りをして、たまに直接聞いた折に、 「ありがとう」 だとか、 「そういう噂通りの女性になれるよう、精進しなくてはね」 などと言って、思い上がらず謙虚にしているのだった。あまり褒め讃えられるのも面映ゆいのが、染井の君と呼ばれていたかの人のことが思い出されて、苦笑いしながらも鬱陶しがらずに微笑んでいるのが、あの葵生と決定的に異なるところであった。こうしたところが、葵生との相性が他のどの女と比べても抜群に優れていた所以かもしれない。
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