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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第85回   第三章 第十六話 【藤棚】5
 葦香はただ、珍しいほどの美貌と色気、そして才気のある葵生を弟のように可愛がれたらと思っていただけなのに、どういうわけか付き合うことになってしまって、受験勉強も手に付かず戸惑っていた。葵生は中途半端に交際するだなんて、到底出来なさそうな一途な人だと思っていたのに、こんなに軽い気持ちで言ったのだから心外で、見抜けなかった自分に腹立たしくて葦香は気を腐らせた。かと言って、何もせずつれづれに日々を過ごすわけにはいかないので、とりあえず机に向かって勉強はするけれど、それも長続きせずぼんやりと葵生のことを考える時間が増えて行った。
 あれほど気を付けていたのに、あっさりと葵生の虜になってしまったのが自分が悪いとはいえ情けない。だけど、予備校で毎日葵生と顔を合わせているのに満足せず、葵生が女子から話し掛けられていると嫉妬で胸が熱く煮えたきり、引き離したい気持ちに駆られる。葵生が休憩時間やちょっとした時にぼんやりと遠くを見詰めているのが女学院の君のことを考えているのだろうかと思うと、忘れさせようと、わざと話し掛けることもあった。
 葦香は美貌にさらに磨きをかけるため、手入れを毎日怠らず、渡されている月々の僅かな小遣いの中から捻出する美容への出費がかさみ、服装にお金を掛ける余裕がない。そのため、衣服に限っては流行のものを安価で購入出来るところへ、少し自宅からは遠いけれど通って安売りの時にまとめ買いをしたり、親について行ってねだって買ってもらうことがほとんどだった。高校生の頃は、日に焼けるようにするため、わざわざ夏場には暑いのを我慢して、外に参考書を持って出ていたもので、そんな葦香を母親が窘めたことは何度もあった。しかし、母親が仕事に出ている朝から夕方までの六時間ほどの間は、ずっと外にいて、汗を掻いても、かえって痩せることが出来るからと、暑いのを我慢して危うく熱中症になりかけたこともあったほどだった。
 そんな努力の甲斐あって、受験生になってほかの女子が身だしなみを構うことがなくなると、葦香の美しさは際立ち、擦れ違えば振り返っていつまでも見ていたいような、輝くばかりに磨き抜かれていた。服は上等なものでなくとも、見栄えのするものを色づかいも自分に合った体型も把握した上で選ぶので、その点でもやはりほかの女子よりも遥かに洒落ていて、見ごたえがある。
 近頃は物思いも加わって、ふと気を緩めた折の悩ましげに溜め息を吐く様子が特に美しい。しかしそんなのもごく稀にしか見ることが出来ず、桐之をはじめとするほかの男子たちは、
 「これでもう少し付け入る隙があればいいのに」
と、残念そうに話し合っていた。
 本気ではないとはいえ、一応付き合うようになったのだから、葵生ももう少し彼氏らしく葦香を気遣って話し掛けたり、たまには予備校の帰りを一緒にしたりすれば良いものを、以前と変わらず男子とばかり話していて、つれないのである。彼女と本当に思ってくれているのかも分からなくて、しかしこちらから構って欲しいというのも、折角葵生から言われて付き合うことになったのに関係が逆転してしまうのが惜しくて、言い出すことが出来ないでいる。
 大学生になっている女学院の頃からの友人に相談すると、
 「そんなに不満なら思い切ってこちらから押してしまえばいいのに。年上が引け目に思うのなら、年上を利用してお姉さんらしく導いてあげればいいじゃないの」
と言われて、そのときは成程と納得したものの、改めて自分の顔や体を鏡でまじまじと見つめると、これで葵生が満足するのだろうか、と溜め息が出てしまった。自分はこれでいいのだと思って、食べたいものも食べずに我慢して、野菜や海藻を中心とした食生活にして欲しいと母親に言って、自分には肉を一切入れないようにしてもらった。母親を見ていれば自分の将来の姿が見えるような気がして恐ろしくなり、苦しくなるほどに厳しく律して保ち、いやそれ以上に磨きを掛けて、誰からも顧みられるような美貌を手に入れたのに、映っている自分の姿はあまりにも細く華奢で骨張っていて、これが男から見て美しい、綺麗だと思ってもらえるだろうかと、葦香は努力してきたことが全て無駄だったような気がして、空しく天を仰いだ。
 受験生なのに少しもやつれた様子もなく、若さが漲り、張りがあって、日を追うごとに精悍さを増していく葵生を見ていると、何故こんなにも苦しくなるのだろうか。他人から見れば見栄えのする二人であろう。しかし欠点ばかりあげつらって悲しく胸も塞がるので、葦香は、このままではまた浪人することになってしまうと、気を強く持とうとするけれど、努力が足りないからこのように気が滅入るのだと、体の細さを保ったまま女性らしい体つきになろうと、貯金を切り崩しながらあれこれ手を尽くすのだった。

 このようなことばかりを書き連ねていては、まるで葵生が女に対して酷く思いやりのない男だったのではと捉えられかねないので少し弁護をしてみようと思う。
 あの大学は文系学部と理系学部とで分かれて棟が建っていて、学部によっては全く異なる場所にキャンパスがある。医学部と文学部は同じ敷地内にあるのだが、医学部も文学部もそれぞれ端にあるので最も遠く離れていて、その両棟を繋ぐ並木道がとても有名であった。秋になると黄葉で覆われるその道はまだ青々と生い茂った若葉が瑞々しく、見上げれば空の青と緑の葉が煌めいているのがとても見ごたえがあった。
 高校とは比べ物にならない広大な敷地を、どこまでも澄み渡った空と春の光を浴びながら、この僅かなときばかりは受験生であることを忘れて、ただこの景色と、その名が帝国大学とされていた頃からある由緒ある文化財などを存分に眺めていたくて、ゆっくりと歩を進めた。
 「染井の桜はきっと見事だったんだろうと思うにつけても、この大学は黄葉こそ有名だというから、春と秋で木がそれぞれ季節に沿った色づき方をするのだから、秋も是非来て見てみたいものね」
 想像ではあったが、染井はこうだろうか、こちらは黄葉ではこうなるのだろうか、と比べていると、葵生は染井の君らしく、
 「染井の桜といい、大学の黄葉といい、本当にその学校の学生になれば誇らしく思えていいよな。これはなんとしても合格して、いずれは黄葉の君なんていう綽名で呼ばれてみたいものだな」
と、言った。葦香は突然黄葉の君などというのが出て来て驚いたが、
 「それなら女学院の君も、今では黄葉の君なのではないの」
と切り返した。葵生は笑っているばかりで答えようとしないので、「誤魔化しているつもりだろうか」と、小憎たらしく思ったが、
 「まあいいでしょう。ちゃんと大学に合格してごらんなさい。そうしたら、いくらでも夏苅くんのことをその綽名で呼んであげるから」
と、いつものように姉ぶって言った。
 「ああ、是非頼むよ。そのためにも受験は頑張らなければ」
 見た目があまりにも綺麗で、街中を歩く女性の中ではずば抜けていて、しかも同じ女学院出身ということから何かにつけて椿希と比べがちであったが、茉莉や妥子と比べた方が適切のようである。
あの頃はまだ自分の特性を理解していなかったためか、身繕いするのにも迷いがあって頻繁に系統を変えることが多く、色の合わせ方や濃すぎる化粧のため時々失敗していた茉莉であったが、服装や外見への思い入れは強かったらしく、よく鏡を見ては身だしなみの確認をしていた。髪の色を金髪に近い色に染めて、目張りを太く入れて睫毛を太く塗りたくり、肌荒れを上から何重にも重ね塗りして隠したりと、見るに堪えないような容貌になってしまったこともあったが、葵生が最後に見た茉莉の姿はすっかり落ち着いていて、年相応にすっきりと若々しく、化粧気がなくなったのがかえって爽やかに見えたものだった。
 「夏苅くんは成績がいいじゃない。私なんて浪人二年目なのに危うい状況だから」
 恥ずかしそうにしているけれど、そんな横顔がほっそりと儚げである。
 葦香のことを姉さんと呼ぶように、姐御と呼ぶ妥子を思い出せば、そういえばこの二人も女学院出身同士だったと、とても懐かしく親しみを覚える。
 妥子はとても頭脳明晰で成績も良く、勉強ばかりで世間知らずで井の中の蛙になっていた葵生の気付かぬところを多々指摘し、決して心驕ることがなかったのが、他の女子とは違っていた。あの雪山の宿のことを妥子に知られぬよう、素知らぬ顔で何気なくしていたけれど、妥子が知ったならばさぞかし裏切り者と恨めしく思われるだろう、それはとても辛く心苦しいことと、葵生はそれだけは気掛かりなままでいる。椿希が妥子に話すとは思えないけれど、勘のいい妥子のことだから察しているかもしれない、と思うと、本当は連絡を取りたいところなのだが二の足を踏んでしまう。
 「夏苅くんは、その女学院の君以外に心惹かれた人はいなかったの。女なら誰でもいいと思った時期があったということは、そのうちの一人くらいは誰か気になったことは」
 こういう風に、椿希や茉莉ならば訊ねないだろう。妥子ならもう少し言葉を慎重に選ぶだろうが、こういうところがあっさりとした葦香の良い気質なのだと、葵生は嫌がる風を見せない。
 「情を持った人はいた。けど、恋だったとは思えない。相手には悪いけど」
 もうすっかり思い出すことのなかった、あの月下美人の女のことが記憶の隅からすっと、何の淀みもなく流れるようにして蘇って来た。最後の別れのとき、女はとても調子を悪くしていて辛そうだったのに、見捨てるようにして去って行ってしまったことが、あのときはそれほど気にも留めなかったのに、長く月日が流れた今となってはあれほど心の支えとなっていた人をつれなく、置き去りにしてしまったことが申し訳なくてならない。それでもやはり、あの人に愛情を持っていたとはとても思えず、ひとときの心の慰めとして勝手に会いに行ったり行かなかったりしていたのだから、きっと恨んでいるのだろう。あの人の心の中を思い遣ることなく、ただ彼女に会えないやり場のない思いだけで訪れていたということが、拭い去ろうとしても根深く残るわだかまりであった。
 「やっぱりそれじゃあ女学院の君一筋だったんだ。珍しい寵愛ぶりだわね」
 葵生は流石にこれには苦笑いをせずにはいられず、
 「まあ、そういうことにしておこうか」
とだけ言って、面映ゆい様子であった。
 こうして思い返せば決して異性とのかかわりがなかったわけではないけれど、桔梗ならば上手く渡り合って、こうした人たちに恨みがましい思いをさせることはなかったであろう、なんとも我ながら不器用なことかと、葵生は思った。すまなく思う気持ちは他所に、きっと会えば言えないだろう心の弱さが、まだ幼いのだと自覚させられて、葵生は身悶えした。

 学校が落ち着いたら会おう、ということで桔梗から連絡があった。地方の大学に行ってしまった者もいるので、近隣の大学に通っているかつての塾生ばかりを誘うことになったのだが、それぞれ新しい生活を送っているので思うようには集まらないだろうし、また敢えて会うのに気兼ねするのは詰まらないだろうと、ごく親しかった友人ばかりに声を掛け、ちょうどあの塾のキャンプのある連休前に、あの塾の近くで会うことになった。
 髪を染めて緩く巻いてあり、ほんのりと化粧をして愛らしさが増したゆり子が、珍しく幹事を務めている。淡い色のスカートが柔らかく穏やかなゆり子に似合っていて、こんな子だっただろうかと桔梗は驚いていた。高校生のときは茉莉につられて、少し派手な服装でいたけれど、目の前にいるゆり子は清らかでたおやかといった雰囲気である。
 「もうすぐ妥子ちゃんと椿希ちゃんが来るよ。桂ちゃんは後から来るって。しばらくは男の子一人だけど、頑張って耐えてね」
 茉莉にまつわりついていた記憶しかなかったので、こんな子だっただろうかと、しみじみと見てしまう。少しまだ肌寒い夜だが、もう夏が近いので陽が長くなっていて、これから始まる夜を過ごすのに、飲みに出ようと陽気に歩いていたり、恋人同士睦まじく連れ添っていたりと、通り過ぎる人々を見ているだけでもとても興味深い。人間観察をするのにかこつけて、お喋りな桔梗が話し掛けるのも憚られるほどゆり子の横顔をじっと見詰めて、二人は静かに友人たちの到着を待った。
 時間ちょうどになって妥子と椿希がやって来た。今日もまた時間にだけは大らかな感覚の妥子を急かしていた椿希が、軽く文句を言っている。
 「お久し振りね、桔梗くん。いい男になっちゃって」
 冗談も相変わらずで桔梗は笑った。
 「妥子もいい女になったな。男が放っておかないだろう」
 緊張が少し解けて桔梗は、いつもの調子で言った。
 そうして、かつて仄かに思いを懸けた椿希を見ると、彼女もまた薄く化粧をして、元々の整った顔立ちが一層艶やかさを増して美しい。ただ高校生の時に目立っていた、男子学生にも引けを取らない凛としたものは薄らいで、あの頃より長くなり染めた髪と、気品がありながらも指先にまで色香漂うような、しっとりとした仕草に目も眩む思いである。
 冗談を言い合える妥子こそ安心出来るような気がしたが、妥子もとてもさっぱりとしていながらも眉や唇のあたりがとてもはっきりとしている。ただでさえ明晰な人だったのに、それに加えて美しくなっているので気遅れしそうである。笙馬が、会いづらいからと言ってこの誘いを断ったのだが、妥子のこの様子を見ればますます気が引けてしまうのではと思われた。何より、桔梗自身もさっき気軽に声を掛けたけれど、淑女然とした風采なので軽率だったかとほんの少し悔やまれているのだから。
 ああ、こんなにも近くにいた子たちが綺麗になっていくと、桔梗は感慨深く店までの距離を歩いていた。仲の良い三人の女子は変わらず和気藹々としているけれど、昔のようにそこに割って入っていくのは気遅れしてしまいそうで、早く桂佑が来てくれればいいのに、とそればかり考えて気を紛らわせていたのだった。


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