桜の盛りは過ぎ、辺りの景色は緑が一面に広がって、鳥が木の枝で羽休めをしているのが愛らしい春の末の頃である。普段は街中ばかりを往来しているがゆえに、こうした風景も目を留めるほどではなく、道の脇に殺風景になりがちなのをなんとか飾り立てようと植えられているだけのようで味気ない。それでもないよりはいくらかは春を感じられるのだが、思えばやはりあの染井の学園の花こそ心も爽やかになるものだった、あれほど見事ではなくてももう少し四季の華やかさあわれさなどを感じられたらいいのに、と少し不満に思っていた。 気を遣ったのか気まぐれなのか定かではないけれど、葦香は葵生に、くれぐれも誰かに一緒に大学へ行くことは話さないよう念を押した。余計な噂を立てられてはいけないから、とのことだったが葵生が口の軽い男ではないことくらい葦香ならば見抜いているであろうに。葵生はそれを聞いて、「ああ、やはり他に誰も誘わなかったのだな」と察して、葦香の思惑など知るはずもなく、もし二人きりでいるところを椿希や妥子に見つかったら厄介なことになると思って、なんとか言い訳して約束を反故にする方策ばかり考えていた。 しかし、それを見抜いたのか偶然なのか、葦香が、 「あなたに拒否権などありませんからね。分かってるね」 と念を押すので、葵生はまるであの花火大会で椿希を誘ったときのことが思い出されて、急に椿希の立場になったのが可笑しくて一人、微笑した。 渋々、というのを貫いたけれど内心では、「まさか椿希と本当に出くわすことはあるまい。理系と文系では棟が離れているというし、文学部棟と植物園はかなり遠いから」と、気を取り直したようである。
天候はあいにく曇り始め、雨が降るとまではいかないにせよ花を見るには心ゆくまで楽しむことが出来そうにないのが、残念である。しかし、これもまたこの大学の学生として来れば良いと思い成し、またどうせ晴れ渡ったときに彼女と共に歩いた方が楽しいではないかと、それほど落胆することもなかった。とはいえ、これはこれで見ごたえもなかなかあるもので、葉が雲によって光を遮られて暗く影になっているのや、あともう少しで咲こうとする花の蕾が曇りなので機嫌を損ねて開花させるのを拒んでいるようなのだとか、この曇りだからこそ一段と映える色鮮やかな花もあり、無駄足だったとはとても思えない。 歩いている間も葦香は何やかやと葵生に語りかけていたが、ぼんやりと生返事を返すばかりある。まさか葵生がこんなに感じ入った様子でいるのが意外で、 「そうしていると本当に色男のように見えるよ。そんなところを女の子が見たら、きっとどんな美人でも才女でも惚れちゃうだろうな。それなのにまるっきりそういう気がないというのが信じられない。女学院の君と中途半端な関係だったっていうけれど、その子に夏苅くんのそういうところを見せたことがないから、こんな風にやもめのような感じになっちゃったんじゃないかと思うわ」 と、色々と話した。いつもならば余計なお節介と取り合うこともないのだが、葵生も丸くなってきたのか、それとも葦香が相手だからか、不快にも思わない。少し考えて言った。 「こういうところを見せても簡単に靡いてくれるような子じゃなかったから。もし軽い気持ちでいるような子なら、俺もこうまで思い詰めて尾を引くことなんてなかっただろうけれど、凛としているようで実は天真爛漫で、そのように見せて芯のしっかりとした子だからなかなか本心を明かしてくれなかった。それがもどかしくて、寝ても覚めても彼女のことばかり考えていた時期もあって、そのせいで自棄になって女ならば誰でもいいと、見境なく声の掛けられるままになろうとしていたことが、今思えば恥ずかしくてあの頃はどうかしていたと思う。だけど、一度卒業前に会う機会があって十か月ぶりくらいに久し振りに会ったらやはり、あの子は格別の人なのだとはっきり分かったものだった。それでも訳あって付き合うということは出来なかったのは、彼女のことを散々傷つけた罰なのかもしれない」 淡々と言葉を重ねているようだけれど、やはり話しているうちに様々なことを思い出していたのか、表情は変わらないが涼しげな目元の端が僅かに潤んでいるように見える。 葦香はそんな葵生を見ながら、 「まさかそんなにまで女学院の君にご執心だったとは。一途に思い詰める性質だとは思っていたけれど、そこまで誰かに愛されてみたいものだ。女学院の君が私の想像している通りならば、噂に聞くその人柄は申し分ないというし、もしかするとこの夏苅葵生には勿体ないのではないか。いや、噂というものは何かと誇張して伝わるものだから、意外と彼女も幼くて、見ていて初々しいところがあるのかもしれない」 などとあれこれ考えているのが、全くの的外れなことではないようである。まさか葦香がこれほど鋭いとは思ってもいない葵生は、自分の恋のことを話すなど不慣れなので、要らぬことまで話してしまったのだった。 藤棚のあるところへ着くと、平日で盛りを過ぎたこともあって人も少なく、空き時間を利用して学生たちがぱらぱらと散見される程度であった。染井のように何かの花木などが有名というわけではないけれど、園を歩いていて季節柄もあるだろうが、この藤棚は格別に手入れされているようで花房が垂れ下がり、紫の薄いのや濃いのが混じっていて、これが本当に全開を過ぎたのかと思えるほど申し分ない美しさである。 「春といえば桜だけど、藤もこんなにいいものだとは思わなかった。染井の高校の次はこの藤棚の大学に是非とも入りたいな」 独り言も自然と漏れるものである。葦香もまた、葵生と同じくこの場にあっては感嘆せずにはいられず、しばし話すのを止めて見入っている。 こうして春の花に包まれるように藤棚の下で天井を見上げながら立っているのは、写真にでも撮って眺めていたいような似合いの二人である。殊に葵生は恋煩いもあって、藤の花の中で一層その艶麗さを増して、悩ましげな顔つきがまだ少年といってもいい年頃なのに婀娜めいている。高校生の制服を脱ぎ棄てて、まだ浪人生ということもあってお洒落も存分には出来ないけれど、さらりと羽織った紺色の薄手の上着が余計な飾りもなければ個性的な形ではないけれど、それがさっぱりとしていて好ましくよく似合っている。下は黒のジーンズで、少しだけ色落ちしたものだがなよなよとせず、まだ少し硬いものだが上着の色に負けを取らず上等に見える。服装こそどこといって艶めいたものなどないというのに、葵生から醸し出す色香は、裕福で有閑な婦人がいれば、さぞかし喜んで手招きしそうなものである。 よくこんな人を目の前にして女学院の君は陥落しなかったものだと、葦香は不思議に思っていた。初めから葵生のことを弟のように思わなければ、自分もうっかり惹き込まれていたかもしれないと、さらに用心している。このように客観的に考えられているうちはまだいいけれど、少しでも油断すれば堕ちていく一方だと、気を抜くことは出来ない。 「それにしても、やっぱり女学院の君に会うことは出来そうにないね。残念だけれど。一度会ってみたかったんだけどなあ、もしかしたら私の知っている人かもしれないし」 取り紛らわせようと、うっかり葦香らしくもなく考えていたことを話してしまったので、葵生は「ああ、やはり椿希を見たかったのか」と呆れたが、「いや、椿希に一度会ってもらうのもいいかもしれない。知り合いだとしたら尚更俺にとっては結構なことではないか」とも思って、失言したと言った後でややうろたえている葦香に気付かず、 「姉さんになら一度会ってもらっても良かったかもしれないな。彼女の気持ちもきっと、敏感な姉さんなら分かるだろうから。俺はどうにも鈍くて今ひとつよく分からないんだ」 と、やけに素直である。 葵生が予備校でいるときと違って、物腰も柔らかで穏やかな様子でいるので、 「その女学院の君が誰なのか、思い切って知りたいところなんだけど。夏苅くんと同い年で、すごく学院内でも有名な別嬪さんがいて、もしかしてその子が女学院の君なのではと私は推測してるのね。ただ綺麗なだけでは夏苅くんは満足しないだろうけど、その子はなんといっても内から出ずるものが違うのか、他の女子とは少し違った優雅な立ち居振る舞いだったというし、ある方面での才能も抜けていたのだと聞くから、夏苅くんにはとてもお似合いのような気がしてね」 と、仄めかして訊いてみた。葵生は流石に面映ゆいので答えるのも億劫だし、椿希のことを知っているかもしれないというのが、これが縁で再び彼女と巡り会うこともあるかもしれないし、あるいはこの親切心も下心あることで、ともすれば葦香の興味心が彼女を傷つけてしまいかねないのではと、どうするべきかと考える。 「それについては友達から色々と言われていて、冷やかされもしたし、中には彼女にも俺に対しても妬ましいようなことを言うのもいたようだけど、嬉しい意見も耳に痛い意見もひっくるめて、これが客観的な俺達に対する評価なんだろうなと思っているよ。彼女の人となりや得意不得意については、あばたも笑窪というものだろうか、俺もよく隅々まで把握していなくて、他人から見れば欠点と捉えられるようなところもおおよそ好ましく思えるから、あまり参考になるとは言えないかもしれない」 と言って、誰と明らかにすることだけは避けて、そういえば少し前に桐之が言っていたことを思い出した。こうして見れば葦香も申し分ない美しさで、どこといって難があるようには思えない。 「陸奥葦香は、自分を厳しく律してあの容姿を保っているんだな。何もそこまでしなくても十分美人だというのに、女っていうものはそれほどまでに美しくありたいと求めるものなのか。あの腰の細さは街を歩くどの女の子よりも遥かに痩せていて、さっと風が吹けば倒れてしまうのではと心配するくらいすごく華奢だよな。そのせいか、首元の鎖骨のあたりは思わず視線が遣られてしまうほどはっきりと浮き出ていて、そうなるように狙っているのかアクセサリーがあの辺りで煌めいているのが色っぽい。あらゆるところを磨き抜いていて隙がなく、あれほどの努力を世の女性みんながしているわけではないだろうに、弛まぬ心掛けでいるのを尊敬せずにはいられないよな」 桐之が言うのはもっともなことと、改めて葵生は思った。椿希以外の女性をこれほどまでに注視することもなかったので気を付けて見ていると、本当にこの葦香も魅力的なのである。ならば椿希と比べてみようと、花に見とれている振りをしながら様々に思い浮かべた。 あの色白の肌理細やかな、指先で触れてみたいような柔肌と艶やかな髪がなんといってもまず思い出され、次に目鼻立ちの、決してそれぞれが大きくなくともはっきりと、めりはりがある整った知性漂う顔かたちの、ほんのりと朱に染まった頬と熟したばかりの果実のような赤い唇が艶めかしい。少し離れたところから見れば背筋の通った凛とした佇まいで、それは本人の意思というよりは無意識のところから来るようで、生まれ持った朗らかな気質と思慮深く聡明な内面が滲み出ているようである。細身であるのは確かだけれど、華奢だとは思ったことのないふっくらとした丸みを帯びていた。 二人ともそれぞれに魅力的で、もし出会ったのが葦香の方が先であったならば、葦香こそ第一の人になっていたかもしれないのだが、やはり離れていてもなお詳しく思い出される椿希のことは格別であるので、比べることそのものが無意味なようである。 「俺のことより姉さんはどうなんだよ。姉さんこそ俺よりも遥かにそういったことは経験も豊かだろうし、物の考えもしっかりしているから興味深い話も聞けるんじゃないかと楽しみにしているのに、少しも聞いたことがない」 藤の花を背景にして微笑しながら言う葵生が大層艶めかしいので、葦香は「やはり思った通りだ。この子は自分で分かっていないだろうけれど、特に何もしていなくてもすごく色気があるのだから」と、嘆息した。 「私はそんなに百戦錬磨ではないもの。面白くもない話をして興ざめにするのは良くないだろうと思って。まあ、そんなに気になるというのなら話さないでもないけど、過去のことなんかよりも今後のことの方がよっぽど私には大事だわ。夏苅くんのような男の子がそのあたりをほかにうろついているなら、すぐにでもお近づきになろうとするんだけど」 同じことを言うのでも椿希ならば愛嬌が溢れるだろうに、この葦香は年上ということもあるだろうがひたすら大人びていて、アルトの掠れた声に聞き惚れてしまいそうである。 「それは光栄なことだ。いいね、それなら試しに付き合ってみるのはどうだろう」 と、いつになく流暢に葵生が言った。 「試しだなんて。女学院の君のことはもういいの」 恋に長けた色男のような葵生に、葦香は戸惑っている。 「いいというわけではないけれど、だから試しなんだよ。お互いのために、少しは恋慣れしておいた方がいいのではと思って。言わば契約みたいなもので、本命が現れるまでの繋ぎとでも思えばいい。もしそれで互いに本気になったのなら、それはそれで付き合いを始めればいいだろうし」 葦香は呆れて物も言えないけれど、葵生がまさかそんな提案をするだなんて、思い込んでいた葵生の像からは掛け離れ過ぎていて、妙な胸騒ぎを覚えたのだった。いっそ、女学院の君とばったり出くわして、きっぱりと葵生の心が彼女に向けられた方が落ち着くのにと、こんな身分だからこそ悩ましい種を得てしまったものだと、気も塞いでいくようであった。
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