20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第83回   第三章 第十六話 【藤棚】3
 それからしばらくして椿希の体調不良は治まった。不思議なくらい、すっと体の中から不安の霧が払われ、今までの滅入っていた気持ちも春の気候のように晴れやかに、いつもの凛とした明朗さを取り戻していた。
 下宿先には時々妥子が遊びに来て、そのまま泊まったこともあった。一晩中おしゃべりが尽きないのが女子らしいところである。妥子は大学生になってから書店でアルバイトを始め、椿希もまたイタリアンレストランでアルバイトを始めたので夜遅くにでもならなければ、なかなか二人でゆっくりと話すことも出来ない。専ら話の内容といえば、そのアルバイトのことや大学での出来事などであったけれど、姉妹のような二人だから話すことがなくなったとしても、一緒にテレビやDVDを見ているだけで十分であった。
 「春成さんとは会ってるの」
 妥子が雑誌から顔を上げて訊ねた。秋の夜長とは言うけれど、春の夜長もまた過ごしやすく、葉桜になった木々が窓から電灯に照らされているのが美しく見える。そちらに目を向けていた椿希は振り返って、
 「ううん、たまに連絡だけ。忙しいんでしょう、理系だもの」
と言った。
 藤悟はここへの引っ越しを手伝ってくれたので住所は分かっているけれど、椿希を訪ねて来ることはしなかった。あの様子だと時々様子見に来そうなものを来ないというのは、あの葵生とのことでまだ臍を曲げているからなのだろうか。そんな人だっただろうか。図りかねる藤悟の心情を刺激してはと、椿希も時々連絡をする折には葵生のことには触れず、ただ大学生活のことやサークルのこと、アルバイトのことなどを伝える程度に留めていた。
 「春成さんって、いい人だよね。椿希のことをあんなに心配してくれるなんて、幼馴染みだからといっても本当にまめまめしくて、ああいう人こそ旦那さんに欲しいものよね」
 妥子が異性のことを話すとしたら圧倒的に笙馬か葵生のことぐらいで、近頃になって大学の友人たちのことがぽつりぽつりという程度だった。藤悟のことなど入院のとき以来の突然のことだったので、椿希は真意を図りかねて言葉が咄嗟に出なかったが、もしやと思い当たることもあって、親友同士の気の置けなさから言っても気を悪くはしないだろうと、思い切って口にした。
 「もしかして、藤悟くんのことが気になっているの」
 そうだとしたらとても嬉しいことなのだけれど、笙馬とのことがまだ心に残っていて、美人で明晰な妥子を好ましく思って声を掛けてくる男は何人もいるというのに、肝心の妥子が気乗りしないようなのがずっと気になっていた。藤悟のことが気になっていたからだ、という理由ではないだろうけれど、妥子は澄ました顔で姐御っぽく意見してくれるのが頼もしく、葵生ですら頭が上がらない様子なのだが、凛としていながら鷹揚さも持つ椿希よりもずっと繊細で、あまり見られないけれど落ち込めばなかなか上がって来れないのがとてもいたわしいのだった。
 妥子は俯き加減で、
 「気になっているのは確かね。椿希の入院のときの様子を見て、それで笙馬にはない包み込むような優しさで話されてる椿希が、すごく羨ましかった。本当言うと、椿希と春成さんを見ているとお似合いで、葵生くんでなくても椿希にとってはいいのかもしれないなんて、考えたこともあったんだよ」
と、珍しくぼそぼそと言う。そんなところを笙馬は知らずに別れてしまったなんて勿体ないこと、こんな妥子を見れば、守ってあげなければと男心が芽生えてくるであろうにと、椿希までもが胸が塞がる思いがするのだった。
 「藤悟くんのことが好きなら、私は笙馬くんのことはさて置いてもいいと思うよ。だけど妥子が悩んでいるのは、まだ笙馬くんのことで迷っているからなんでしょう。簡単に切り替えられるはずもないだろうし、すぐに気移りするのは軽いようで気が引けるのかもしれないけれど、そんなに思い詰めないで藤悟くんとまずは友達になってみたらどうかな」
 友達になるのに、今まで自然な流れであったのに、わざわざ友達になる決意をしなければならないなんて、それも頑是ない子供ではなくなってしまったのがなんだか悲しいことのように思える。椿希がこのように言うのもまた大変珍しく、妥子は流石親友だと心から頼もしく思うし、本当に有難くも思う。
 「だけど、椿希は構わないの」
と、まだ遠慮がちに妥子は言う。本当に勢いもなく萎れた様子なので、様々な察しかねる事情が積もっていたにせよ、妥子が優秀すぎるからという理由で離れた笙馬のことを、椿希は恨めしく思った。
 言うか言うまいかと少し躊躇したけれど、この際にでも妥子に知って欲しいことを全て言ってしまおうと、恥ずかしくて胸に秘めておきたかったことまで、椿希は包み隠さず妥子に話してしまった。妥子は驚き呆れて、また大層顔を赤くして、先程の気も腐らせるばかりの思い詰めようなどはどこへやら、椿希と葵生の二人の様子にどうして気付かなかったのだろうと、自分のことで胸がいっぱいになっていた雪山の宿のことを思い返していた。
 確かにあの朝、どこを探しても椿希はいなくて、起きて来たばかりの葵生が椿希の行方を知っていたのは不自然だったし、椿希があの後葵生を避けるようにしていたのも、いつもならば気が付いてどちらかに訊ねようものをと、今にしてみればなるほど辻褄の合うことばかりであった。
 話を聞いて、今まで椿希も話したくても話せなかったのだろうと、自分のことばかり聞いてもらっていたことを心から済まなく思い、詫びても足りないようで妥子は涙を流した。今時珍しいほどの葵生の一途な深い愛情は言うまでもなく明らかではあったけれど、見ている側がもどかしくて取り持ちたくなるほど慎重で奥手だったのに、まさかこのような事態になっていたとは想像もつかないことだった。確かに葵生が塾を辞める直前などは、はち切れんばかりの思いを持て余しているようにも見受けられたが、それでも椿希にはどこまでも優しかっただけに、妥子はどう言えばいいのか分からなかったが、ただ涙が止まらなくて拭っても拭っても溢れてくる。葵生とこの前連絡を取り合ったときに、体調不良だと送ったそのことを思い出して、取り返せるものなら取り返して、代わりに恨みがましい内容のメールにして送りたかったと、とても口惜しくてならない。
そうしているうちに、椿希までもそのときのことを思い出したのか涙ぐみ、妥子ほどではないけれどしんみりとしている。そういえば椿希は、前はただ清らかな美少女といった感じだったのが、匂い立つような艶やかさでしっとりと、物憂げに頬を染め、壁に寄り掛かって溜め息を吐くのもまた、同じ女性でありながら色香漂う様で、じっと見入ってしまう。
妥子に打ち明けたことで心が軽くなったものの、話したことがかえって葵生のことをはっきりと思い出して辛く、胸の潰れるような思いがして椿希は心を塞いでいた。顔かたちや声などは朧げではあるけれど、ただ睦言やら温もりやら、そして高校時代の様々な思い出などが次々と浮かんできて、裏切られて悔しく思ったことと、それでもなお葵生に惹かれていることと、いくら考えても心が一つに定まらない。
 「どうするの、葵生くんにはそのことを言うの」
 遠くの街の灯が落ちて暗くなり、月だけが妖しく輝く真夜中だった。外の音も静まり返り、宵の闇が縫うように街を包み、寂寥を添えて体を冷え冷えとさせる。いくらか落ち着いた妥子は上着を羽織って、椿希に訊ねた。
 「今のところは言わないつもり。今は受験のことだけ考えていて欲しいから。葵生くんだって浪人生同士で誰か好きな子が出来るかもしれないし、私にだって彼氏が出来てしまうかもしれない。だから、わざわざ知らせることはないと思うの。結局、何事もなかったのだから」
 どうしてこうも上手くいかないものかと、無情な仕打ちを受けたようで妥子は自分のことに思い重ねて、笙馬にも葵生にも擦れ違いが生んだ結果なのだと知らせたいところである。
 椿希は呟いた。
 「早く、何の躊躇いもなく、心から好きになれる人に巡り会いたい」

 そんな話を二人がしていたことなど露ほども知るわけがないのだが、葵生はどういう訳か、胸の内がおどろおどろしく蠢いていて、まるで醜い虫のようなものが這いずり回っているようであった。初めのうちこそ体調が悪いのだろうと思っていたが、どうやら気分のせいであるらしいと薄々気付いていたので、ここのところ受験勉強にかかりきりになっていたせいだろうかと、たまには息抜きでもしようかと考えていた。
 ちょうどそんな折に葦香が、
 「夏苅くん、良かったら今度大学行ってみない」
と誘ってきた。
 「オープンキャンパスのことか。まだ時期は早いんじゃないか。それに、別に俺は行かなくても」
 気分転換はしたいけれど、大学へ何をしに行くというのかと葵生は嘆息を漏らした。
 「植物園に行こうよ。藤が今の季節はすごく綺麗みたいよ。それに、あの国立大はあの女学院の君も確か通っているんでしょう。もしかしたら偶然会えるかもしれないし、そうなったらまさに運命だと思わない」
 うっかり椿希が通っている大学のことも話してしまったのを覚えていたのか、葦香はわざと試すように言うのに負けて、葵生は顔を見られないよう背けた。
 「女学院の君って、あんたも出身だったんだろう」
 葦香は葵生の反応を楽しむように、艶然とした笑みを表情の上に形づくって、きらめきを唇に乗せた。
 「私も確かに女学院出身だけど、その子の名前を知らないんだもの。教えてくれるのなら、これからはそう呼ぶけれど、もしかしたら私の知っている子かもしれないし、それだと夏苅くん困っちゃうでしょう。堂々としていられるほどの度胸も経験もあるようには思えないけど。見た感じは大人びていて落ち着いているけれど、うぶな感じがしてね。まあ、それが面白いといえば面白いんだけど」
 大きな目で見詰められると心の奥まで見透かされそうである。ほっそりとした指を顎に当てて、首をやや傾げているのが二十歳の魅力のように思えて、椿希がその年頃になればさぞかし艶めかしさも増すだろうに、と引き合いに出して比べてしまう。
 やや気圧されながらも、葵生は落ち着いた声で、
 「そうだな。もしかしたら彼女のことを知っているかもしれないし、そうなると彼女にとっても俺にとっても具合が悪いだろうから止めておくよ。その女学院の君と偶然会うかもしれないって、それは期待してないけど、まあ気分転換には確かに良さそうだから都合を付けてみようか」
と、なんでもないように装う。
葦香は笑って、心の中では、
 「強がっているけれど、本当は彼女に会いたいくせに。我慢しているのが見え見えなんだから。そういうところが面白くて、ついからかってしまうんだけれど。それにしても、いくら染井の男子高出身だからって、塾や予備校で女子から人気もあっただろうに、今まで本当に巡り合わせが悪かったように異性慣れしていないのが不思議で仕方ないわ。そんなに女学院の君に入れ込んでしまっていたということだとしたら、是非にもその正体を知りたいというもの。あの学校で人気だったという子は確かいたけど、年のほどはどうだったか。この夏苅くんと同じ年か一つ下か、それくらいだったと思うけれど」
と、あれこれと詮索をしているのだった。
 葦香は一度こうと思ったら、徹底的に追究しなければ気が済まない性質なので、友人知人などを通じて、学校でとても評判だったあの年下の女子学生が誰かを、それとなく訊ねてまわった。誰も誰もがはっきりと覚えておらず、微かに苗字だけは覚えていた者もいたけれど、年齢については曖昧な答えしか返って来ない。途方に暮れて、「もうこんなくだらないことは辞めようか、つまらないし。おそらく、女学院の君とはあの子のことではないかと見ていたけれど、私の思い違いかもしれないから」と諦めようとしたときに、一人、思い出したという友人から連絡があった。
 「確か二つ学年が下だったはずだよ。聖歌隊にいたという子のことでしょう。だったら間違いはないね、妹の友達だったみたいだから」
 葦香は途端に思い出して、ああ、あの冬麻椿希といった子が確かに女学院にいたはずだと、記憶が蘇ったのだった。中学入学の時にもその美少女ぶりは評判だったし、葦香が高校に進学してからも、その聖歌隊での群を抜いた感嘆するばかりの才能と、笑みが零れそうになるという朗らかな美貌は噂に聴こえていた。一度は見てみたいと思っていたけれど、椿希が高校に進学してきたときには葦香は受験生で忙しく、残念ながらその機会を逸したまま卒業してしまった。
 葵生と椿希が知り合いだった、という仮説を立てると葦香はますます興味が湧いて来て、これは是が非にでも葵生を藤の大学に連れて行かねばならないし、出来るものなら鉢合わせさせてみたいものだと思った。たとえこの当て推量が外れたとしても、こちらには何の不都合もないのだから。もしこの二人が知り合いであったならば、是非にも二人を並べて拝んでみたいところであるし、目の保養にもなりそうではないかと、楽しそうな様子である。
 葦香の考えなど知ることのない葵生は、予備校生たちと雑談をしている。無愛想な葵生が打ち解けて笑みを見せるようになり、時折冗談さえ言うのだけれど、それが女学院の君の前ではもっと柔和に、さぞかし優美な表情をするのだろうと思うと、ますます楽しみになってくる。
 葦香は細い腰に手を当てて、太腿が露わになった足を組み換えながら、まもなく来るその日のことを考えているのだった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 38837