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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第82回   第三章 第十六話 【藤棚】2
 同級生たちが今頃、それぞれの進学先の大学で学生生活を楽しんでいることだろうと思うと、羨ましいのだが、不本意なところへ通うことになった笙馬のような者もいるのだからと、葵生はこうして浪人をさせてもらえるというのは本人の心次第のところがあるにせよ、運のいいことなのかもしれないと、時折塾生たちのことを考えることもあった。
 公立大学に進学した桔梗からは連絡があるのだが、それによると笙馬がすっかり気落ちした様子で顔色も悪く、憂鬱な様子で何を言っても笑うことがなくなったとのことだった。
 「励ませば励ますほどどんどん底へ底へと向かおうとしているようだ。原因も一つのことだけではないだろうから、俺もそっとしておこうと思うけど、どうもお節介なのが出てしまう」
 笙馬のことは気掛かりだけれど、どうすることも出来るわけもなく、ましてや葵生は浪人生なのだから自分のこと第一である。友情も大切とは思っていてもままならぬ身分がもどかしい。いや、たとえ浪人生でなくても、きっと自分は椿希とのことをどうにかすることを優先してしまうに違いない、などと考えていた。
 妥子とも音信は途絶えず、時々葵生からも妥子からも互いに送り合うのだが、妥子は笙馬のことは一切触れず、ただ今の大学生活について書き綴ったり葵生のことを激励するような言葉があったりと、姐御らしい内容に慰められる。予備校の友人たちとも親しくなり、笑い合えるのだけれど、寝食を共にし、旅行まで行くほどの仲とは比べ物にならないであろう。何より、妥子からはあの椿希についての内容も、葵生を刺激しない程度に伝えられているのが、本当の姉のような世話の焼きようで嬉しくも少し気恥ずかしくもある。
 「椿希は受験が終わって張り詰めていた糸が切れたかのように、少し体調を崩し気味のようで、しばらくの間気だるそうにしていたことがあったよ。もしや再燃かと思っていたんだけど、そうではなかったらしく、ただの体調不良だったみたい。今は少し口内炎が酷くなったらしくて辛そうにしているけど、来月病院に行くことになっているから、その時にでも診てもらうと言っていたわ。それ以外については心配はないと、私も思う。無茶をするとすぐに体に出るからと、自重するようになったのはいい傾向ね」
 葵生は椿希について書かれてあるところだけは、一層注意深く何度も何度も画面を、目を凝らして読み返した。妥子が大丈夫と言っているのだから、実際そうなのだろうけれど、口内炎だとかただの体調不良だとか、いかにも大したことないように書いてあるのを見ても、葵生にしてみれば只事ではないように気に掛かって仕方がない。「無理するといけない」、「体を慮って何をするにつけても、少し自重するようになった」、と書かれてあると、妥子に秘め事がもしや知られているのではと、返信するにも少し戸惑いがある。。
 こんなことをしている場合ではないのだが、不思議と勉強のときになるとそれが力になるようで、医者になる夢のせいだろうか、なんとしても医学生になって一刻も早く椿希を助けられたらと強く願うようになり、それが力となって集中力も熱意も増すのだった。ただ、秘め事のことだけは夜眠りに就く時になって否応なく思い出されて、あの状況が誰かに知られている場面が夢に現れて、時々ぞっとする思いをすることがあった。

 椿希は、体育の授業を気力でどうにか乗り切ったものの、やはり顔色が冴えず苦しかった。すぐに手洗い場に行って個室に入ってじっとしていると、胸に上がってきたものがあったので吐き出した。それでもまだすっきりしないので、昼休みの間に友人たちに用のあるふりをして、農学部の植物園のあたりまでゆっくりと歩き、気を紛らわせ、そこで休もうとした。しかし辿り着く前に気分が一層悪くなってきたので、近くの工学部棟に入って行った。近くの手洗い場までどうにか壁にもたれかかるようにしてのろのろと歩いているうちに、何人かに声を掛けられながら、どうにか着いた。
 「具合悪いのなら、横になった方が」
と、親切な女子学生が言ってくれたけれど、椿希は苦しいながらも笑みをなんとか浮かべ、「大丈夫です」と、個室に入った。歩いている間に戻さなくて良かったと安堵し気が緩んだ隙に、また戻してしまったので、椿希はいよいよ不安になる。大学病院はすぐそこだけれど、行くのも気が引けるし薬局に行くのも病院以上に勇気が入ることだった。
 いくらか良くなったので外に出ると太陽の光が眩しく、きらきらと緑の若葉が萌え出ずる美しさに、少し微笑が零れる。暖かな陽気に包まれて、せっかくここまで来たのだからと、植物園まで気をつけながら歩いた。
 広い庭園なので全てを探索するには日が悪いけれど、近くの藤の園までならどうにかなるだろうと、まるで森のように緑に覆われた庭園を一人、歩いて行く。少し木の影になったところはひんやりと寒く、影のないところは暖かく、壁になっている春の木が鮮やかな色の花を咲かせて迎えてくれている。
一般の人たちとも何人かと擦れ違いながら通っていくと、藤の園へと辿り着いた。藤棚は小学校の運動場の端にあったのを覚えているけれど、それよりも何倍もの広さで比べ物にならない。近くまで来ると、視界には長い房や短い房などから可憐な紫色の花や、花に埋もれるようにして見える緑の葉ばかりで、藤の世界に迷い込んだようであった。奥へ奥へと入って行くと、藤によって光が遮られて薄暗いけれど、端のあたりの陽にあたるところの房が風に吹かれてゆらゆらと揺れ、零れんばかりの太陽の恵みを受けているようである。
 椿希は藤棚を抜けて、見えるところのベンチに座って一息を吐いたが、あまりの見事さに圧倒されて、体の悪いのも忘れてしまいそうである。気分の悪いときには取り乱してしまって慌てるばかりであったが、藤を眺めていると考えることも心を乱さずに落ち着くことが出来るようで、一つ一つ整理をしていくと、大学病院ではなく下宿先の近くの医院に行くことが一番良いのではという結果になった。
 深呼吸しながら空を見上げていると、こんなに麗らかな気候で、花を愛でる人々の顔も清々しくほんのりと頬が赤く色づいて陽気だというのに、葵生のことを思い始めた途端気が重くなって、溜め息を吐いてしまった。
 葵生に好意を寄せられているらしいということは、もう随分前から気付いていたけれど、そのときはまだ藤悟のことを慕っていたためか、友人以上には思うことが出来ず、時々妥子から、
 「知性も容姿も、運動神経も、あんなに揃っている人は珍しいよ。彼氏にするには理想的な相手で女子からもよくもてるのに、すごくつれない人だからね。その分、これはと思った相手に対してはひたすら一途で、大切にしてくれそうじゃない」
と、はっきりとではなく葵生とのことを勧められても、やはり心が動くことはなかった。いや、本当はそのひたむきさと、何かにつけてよく気が付いてくれていたこと、言葉では表し尽くすことの出来ない、年齢よりも遥かに大人びた妖艶な色気に徐々に魅了されていったのだが、それを認めてしまうことで自分を保てなくなる気がして、気のない振りを続けていたのだった。
 自分にだけ向けられる笑顔、自分を見詰める悩ましげな視線、異性の中では自分にだけ呼ぶ名前、それらに気付くたびに彼との距離が縮まって行くのを感じ、そうなることを望むのと怯えるのと、二つに引き裂かれた心が痛く苦しくなった。
塾は多くの気の置けない友人たちばかりで楽しかったけれど、葵生の情熱に気付き心揺さぶられるようになってからは、顔を合わせることで平静が保てなくなるのが怖かった。ずっとそうだったから、葵生が塾を去るというのを聞いたときには少し安堵してしまったのも事実だった。そうだというのに、入院して病室で独りきりになるといつも、葵生が懐かしく恋しく、彼が突然あの病室の扉を開けて入ってくるようなことを期待してばかりいた。あれほど慕っていた藤悟のことも霞むほどに、葵生に惹かれていたなどとは認めたくなかったけれど、夢にまで見て、彼と花火大会に行ったことや給湯室での不意の口付けがたびたび蘇ると、彼を冷淡に突き放したこの子供じみた配慮のなさこそが呪わしくて、塞ぎ込んでいたものだった。妥子や藤悟などの見舞が慰めとなって、どうにか恋にばかり偏らず、受験勉強へと切り替えることは出来たけれど、それでもただ葵生への申し訳ないような思いだけは消えることなく、神社への合格祈願の折には自分だけではなく、葵生もまた無事に思う結果が得られるようにと願っていた。連絡先の知らない葵生とは、もう二度と会うこともないかもしれないのにいつまでも引き摺ってばかりはいられないと、身を斬られる思いではあったが、心を振り捨てて熱心に受験勉強に打ち込んだ。
 「人と出会うのが運命ならば、葵生くんと別れなければならなかったのもまた、運命だったんだと思う。葵生くんと出会ったことで、それまでの幼い心が少しは大人になって、人を愛するということを覚えることが出来た。それに、彼という目標がいたからこそ成績もぐっと伸びてきたのだから。人と出会うこと、何か事件に遭遇すること、その一つ一つに意味があるのなら、葵生くんと別れたのは得るべきものを得尽くしたからに違いない。だから私は、彼のために彼の幸せを祈ろう」
 初めのうちは無理してそう思い込んでいて、「やはり別れは辛い」と落ち込むこともあったけれど、ここで結果を得なければ、出会いの意味も無に帰すことになると自らを励ましているうちに天王山の頃を迎え、その頃には葵生は思い出に変わっていて、懐かしく思うことはあってもそれ以上の感傷に浸ることもなくなっていった。
 受験が終わって、受けた大学全てから合格通知が届き、妥子と喜びを分かち合って二人であちこちを遊びに出掛けた。染井の君、という言葉もすっかり塾生たちも聞こえなくなり、葵生はきっと高校卒業を機にまた新たな出会いによって彼の道を進むに違いないと、椿希もほんの僅か、心の隅に寂しさを感じながらも割り切って、彼女自身で新たに未来を切り拓かねばなるまいと決意したのだった。
 そうした直後に突然桔梗から、卒業旅行に行くという連絡があって、それに葵生も誘うことにしたというのに椿希は激しく動揺して、
 「何もそんなことをしなくても。葵生くんのことを知らない人だって、塾内にはいるのに」
と、つい困った顔を隠すこともなく言った。桔梗は不思議そうな顔をして、
 「個人的に俺が誘いたいだけなんだ。三年生になって入って来た奴らは呼ばないし、全員誘ってたら楽しくないから、友達ばかり選ぶよ」
と言った。あんな風に表情も繕わずに言うと、桔梗も不審に思っただろうにと後悔したが、断るのはもっと怪しく思われるに違いない、妥子やゆり子も誘うということだから二人と一緒にいればいい、と快諾ではなかったが了承した。
そして出会ってみると、やはり嫌な予感は的中して、ようやく消えかかっていた思いが再び体の奥から燃え上がろうとするので、椿希は体が震えた。あまりにも葵生の視線が優しく愛しさを含んでいて、包み込むような笑みでこちらの心が離れていくのを阻止していた。叶うものならば逃げ出したいけれど、その微笑みが鎖のように心を縛り付けられ根負けしたようになって、つい親しげに話をしてしまった。
 それだけで済めばまだ良かったのだけれど、あの雪山の宿の物置部屋で突然背後から掻き抱かれたとき、出会った頃は変わらなかった背丈が随分と差がつき男の口元が自分の額のあたりにあるのに気付いて、不覚にも不思議な火照りを感じてしまった。しかし、はたと我に返ってこのままではいけないと、その腕の力に抗おうともがき、振り解こうと身をよじったが腕を掴まれて引き寄せられ、逃れようと一瞬の隙に入口へ向かうも、次は途中で手首を掴まれて仰け反るようになって、そのまま畳の上に倒れ込んだところを男は覆い被さり、じっと椿希の瞳を捉えて見詰めた。
 それから後のことはもう思い出さなかった。椿希は溜め息を吐いて目を瞑った。覚悟を決めなければならないのだろうか、出会いも別れも運命で、再会も運命だったのならばこうなるのもまた運命なのだろうかと、眉を顰めながら考えた。小鳥の囀りが耳に入って来て、顔を上げればつがいがどこかへ飛び去って行くのが見えた。再会出来たことは喜びと共に苦しみも運んできて、それは塾にいた頃よりもずっと増幅していた。葵生は一体どう思っているのだろうと、椿希は知りたいけれど確かめる気にはならなかった。

 下宿しているマンションに戻り、教科書やノートの入った荷物を抜き、代わりに保険証を財布に入れて医院へと向かった。通りの並木道の美しさを鑑賞している間もなく、足早に扉を開けて中に入った。
 医院は外観も洒落ていて、煉瓦が壁の一部に埋め込まれていて西洋風で可愛らしく、内部は掃除が行き届いていて清潔感があり、全体的に白と桃色で統一されている。ほとんどが自分よりも年長の女性ばかりではあるが、椿希は受付で初診であることを伝えた。
 「こちらに本日の診察目的をご記入ください」
 周りの人が気になるので、少し離れたところへ移動して問診表を記入した。過去の病歴の欄のところではペンを持つ手が一度止まったが、現在大学病院に掛かっている旨を簡単に書いた。そしてさらさらと書き進めたが、また手が動かなくなった。想定していたことで、その答えは用意していたのだが、兼ねてより決めていたように書こうと意を決して、再び持つ手に力を込めて書いた。
 「今まで予定通りであったのに、もうふた月もありません」
 診察室に通されたときにも同じことを女医に伝えると、女医はそういう患者を何人も今まで診て来たのだろう、落ち着きを払った様子で言った。
 「先ほど待合の時間にお願いしておけば良かったですね。体調が芳しくなくてそうなることもあるでしょうが、念のためご懐妊かどうかの検査をしておきましょう。話はそれからです」
 大学病院の向日先生とは違って、一見冷たくはあるけれど手際良く看護師を促し、患者に失礼にならないように取り計らう。この先生になら安心出来るかもしれないと、大学病院での初診のときの教授のあの無礼さを思い出して、深く頭を下げて看護師について行った。
 だが、その検査キッドを渡された瞬間に急に胸が苦しくなり、椿希は持つ手が震えるのをどうにか抑えていた。個室に通されて独りきりになると、葵生の顔かたちや声色など、もう思い出そうとしても浮かんで来づらくなるほど見向きもしなかったことが急にありありと浮かんできたが、もうここまで来たのだし、躊躇って結果が変わるわけでもないのだからと心を奮い立たせ、椿希は葵生の残像を振り払った。あの男は、こんな風に涙が落ちそうなのを堪えているのも知らずにいるのだ、と思うと隙を作った自分が腹立たしいけれど、男を恨む気も起きなかった。
 看護師に案内され、再び診察室へ戻ると、女医に台に横になるよう言われてエコーを取った。ひんやりとしたジェルがぞっと背中を弓なりにさせ、画面の白黒の映像をじっと見詰めた。
 「見たところ、どこといって悪いところはありませんね。それと、ご懐妊はされていらっしゃいません」
 椿希は急に視野が開け、憑き物が取れたかのように表情がふっと緩んだ。
 それから、医師から問診がいくつかあり、それに椿希は丁寧に答えた。理路整然とした答え方に医師は、
 「よくご自分のことをお分かりで、お見事です。私が言うのもなんですが、あなたはすごく思慮深い方の様子。辛いことも苦しいことも心に溜めやすく、それで体の調子を狂わせるということはたびたびあるのだろうかという気がします。あまり無理をなさらず、適度に発散させてください」
 安堵のあまり、椿希は会計を済ませて医院を出るなり、力が抜けたように持っていた鞄を落としそうになった。顔を上げて帰ろうとするときに目に映る景色の清々しさと瑞々しさがやけに目に留まって、あれほどの倦怠感や気分の悪さも綺麗さっぱり消え、このままぶらりと散歩して帰りたいところであった。
 妊娠ではなくて良かったけれど、もしもそうなっていたらどうなっているのだろうと、考えてしまう。産むと決めたところで相手に生活能力があるわけでもなく、堕胎せねばならないかもしれなかったし、産んでも構わないということになれば、葵生や自分はどうなるだろう、このまま学生生活を続けられただろうか、親の援助を受けるにせよ責任を持って生まれた子を育てあげられるだけの心構えが出来ていただろうか、様々な弊害ばかりが思い浮かんでくる。もちろん葵生との間の子となると自分もとても嬉しいし心から愛することが出来るに違いないけれど、今の浪人生と大学生という身分のままでは子供を愛育するのに差し支えも出るだろうし、どちらか、あるいは二人ともがお互いの未来を犠牲にしなければならなかったかもしれない。それらの覚悟がなかった、と椿希は振り返るにつけても、このことを誰にも話さず、そして最も望ましい結果で良かったと運命に感謝した。子供のためにも、自分のためにも、そして葵生のためにも、本当に良かったと。


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