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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第81回   第三章 第十六話 【藤棚】1
 予備校はもう三月末から始まっていて、来年こそは何が何でも合格したい葵生は現役の頃から通っていた医学部進学予備校に加えてもう一つ、大手予備校にも通うことで文系科目の強化を狙うことにした。おそらく僅差で不合格となったであろうけれど、その念の入りようからはとても一年前を想像することなど出来ない。
 春の麗らかな気候がもたらした色とりどりの花が咲き乱れるのがゆかしく、あの女学院のチャペルで聴いた聖歌隊の合唱や歌姫の美声と清らかな佇まいに言いようもなく心がざわめいたことを、今もまだはっきりと覚えている。しかしそれどころではないのだから、たびたび湧き起ころうとする思い出を今は忍耐して、強いて押さえつけているのであった。油断すれば、予備校の往復や眠りに就くようなふとした折に、様々なこと、とりわけ椿希への慕情が懐かしく恋しく募っていくのだが、それもその時限りで後々に感情を引き摺らぬようにして、受験勉強に支障を来さぬよう注意を払っている。旅行先での、かの胡蝶のようなひとの豊かでしなやかな艶麗さを全く振り払うことは出来ないとしても、それも全て大学に合格してから収拾を付けようと割り切っている。
 去りゆく者は日々に疎しというものなのか、恋しい人が傍にいないことで寝ても覚めても思い続けるということはなくなったものの、それは葵生だけの問題であって、葵生のことを密かに気に掛けて近付くような女は、やはりここでもいたのであった。
 新たに通うことになった大手予備校で同じ講義を受けていると、いつも同じ面々と顔を合わせるので次第に親しくなり、中には時々息抜きにと遊びに行くこともあるようだが、何年も浪人することがあることもあると聞くだけに、葵生は慎重な心持で、まだ四月だからといって余裕ではいられない。柔らかな風の吹く穏やかな気候も、染井の桜を懐かしむことも、花壇を彩る菫を慈しむことも、夏の月下美人が花開くところを一夜かけて眺めることも、秋の葉の黄色く色付いた並木道を学内で我がもののように歩くことも、いずれは必ずと心に決めながらもまずはさて置くとしているので、まるで光塾に入塾したばかりの頃のような無口さである。だがあの頃から様々に経験し省みたことから、他人を近寄せないような鋭さは鳴りを潜め、いくらか表情は柔らかくなっている。
 他人からすれば僅かな変化なのかもしれないが、自分では驚くほど人に対して寛容になった。今でもまだ、どうやら恋愛関係になることを望んで近付いてくるらしい女たちには辟易していて、煩わしいのだけれど、それでも無碍に扱うこともなく、さらりとかわして気のない風にするのは、そういう方向にようやく長けて来たためであろうか。

 その予備校の友人たちの中に、際立った美人がいて評判になっていた。味気ない日々を過ごしているからであろうか、一部の男たちは可愛らしい子がいればそのことでとても盛り上がっていたのだが、美人とはなかなかお目にかかれないものらしく、とても整った美形とのことで心惹かれ、わざわざその教室にまで行って見詰めるのだった。
 その人は葵生とはもう最初から同じ教室にいたので、当然葵生もよく知っていたのだが、それほど騒ぎ立てられているとは思いも寄らず、噂を耳にしてから注意深く見るようになったのだが、なるほど確かにそのあたりを歩いていても、目を見張るような人である。
 名は陸奥葦香(むつ・よしか)と言った。背丈がすらりと高く、見ている方が心配してしまうほどの細く華奢な骨組み、赤毛に染めた髪がゆらゆらと背中のあたりで揺れている。そんな体つきではあるけれど、日焼けし過ぎない程度の小麦色の肌が年齢以上に婀娜めいて見せ、大きくぱっちりとした二重の目は長い睫毛が一層大きく見せていて、鼻がとても高く先は尖っていて、口も目や鼻の大きさに合うような大きさで、並の人間よりもひとつひとつが大きい。
 葦香のような外見に女は憧れるものなのだろうか、とにかく女たちは葦香を見ては「あのようになりたい」「頑張って痩せなくては」と言っている。細見で長身、目鼻立ちがはっきりとしていて小麦色の肌、といういかにも洗練された女性のようなのが、男女問わず惹き付けて止まない。実際年齢も予備校内では上の方で、浪人は二年目であったから、憧れも一層いや勝るのであった。
 美人だからといって、葵生は態度を変えず自ら進んで話し掛けることもなければ、話し掛けられれば舞い上がるということもなく、同じ教室の仲間として接していた。
 葵生は光塾にいたときほど、周りから持て囃されるようなことはなくなり、一人の浪人生として静かに、しかし机に向かっているときには別人のように受験生活を送りたかったのだが、そうはさせてもらえない宿命に生れついたせいなのだろうか、やはり女たちは放っておいてはくれなかったのである。
 同じ浪人生同士ということで、誰かがいつの間にやら「結束会」なるものを企画していたらしく、近くのファミリーレストランで行うと、突然誘われたことがあった。春の連休前になると帰省のため、この辺りは急に人少なになって気の済むまま息抜きが出来る、と言って是非とも参加するよう熱心に声を掛けてくる。一日たりとも無駄にしたくないのだが、これから最低でも一年弱は共に過ごさねばならぬ面々なのだから、不参加で目立ってしまうよりも、参加して上手く付き合って少しでも心に引っ掛かることを取り除いてしまう方が賢明だと、葵生は結局承知した。誰が来るのかは、当日までのお楽しみだという。
 
 これから陽の沈むのが遅くなる季節になるから、予備校が終わってもまだ外は明るく、高層の建物の隙間を縫うように西へと沈んでいく太陽の様子がまたとなくあわれで、このようにしみじみと思い遣るのも久方ぶりのことだったので、葵生はこういう折に決まって思い出すあの胡蝶の椿希のことで、今頃どうしているだろうか、新たに恋人でも出来てしまったのだろうかと切なく慕っていた。場所へ向かうのに勢揃いして歩いていたのだが、葵生がぼんやりと憂いを含んだような様子で夕陽に顔を染めながら、物を思っているのがとても並一通りの風采ではなく、同年ほどの男子にはない哀愁と匂い立つような艶やかさであるので、それだけで女子たちは心が潤うように満たされるようであった。
 店に着いた。確かに人も閑散とまではいかないにせよ空席が目立ち、十人ほどで連れ添って来たことに店側は迷惑ではないかと懸念していたことも杞憂に過ぎなかったほどにのんびりとしていて、これほどの団体であるのがむしろ賑やかさを加えるようである。見るからに大騒ぎしそうにないからか、店員たちも周りの客も、取り立てて気を遣う様子もなくそれぞれ食事を楽しんでいる。
 注文を終えて食事が運ばれてくるのを待つ間、席の近い者同士で話が始まった。大方、去年どこの大学を受験して次はどうするつもりなのか、というようなことだったり、高校生の間の思い出話などであった。
 葵生の前には葦香が座っていたので、否応なく顔かたちなどを正面からはっきりと見ることになったのだが、本当に綺麗な人だと顔には出さず感心していた。ここに集まっている女子の中には可愛らしい子も、童顔ではあるけれど愛嬌のある子もいるけれど、やはり美形という点で見れば葦香しか挙げられない。そうなると、やはりあの椿希のことが思い浮かばれるのだが、椿希が雪のような白い肌に黒目がちな目、磨かれた珠のようで、周りからも大切に愛される人なのに対して、この葦香は細身の体躯に対して顔立ちは全てがはっきりと大きく作られていて、磨き抜かれた洗練された人で、孤高の人といった風である。共に長身、都会的で颯爽とした風采ではあるが、中性的でプリンスと呼ばれていた椿希が実はとても思慮深く、匂い立つような艶めかしさを持つのがとても愛しいのだが、葦香はいかにも儚げに見えるのに、意志の強そうな大きな目で相手を見詰め、信念を明確に伝える大きな口で話す様子は、気の強さと利発さを感じさせる。明晰さでは妥子を思わせられるが、妥子は思ったことをすぐに口にするような性質ではない。話を聞いていれば、本当に自分の心に素直で少し言いすぎるところもあるけれど、何かと胸に秘め、本音と建前を使い分けるような人の多い中で、とても見ていてさっぱりと、爽快な感じのする人柄であった。
 葦香は流し目で時々葵生に視線を送っていたが、葦香はこの中でもとても目立ち、見ずにはいられないので、流石に葵生も気付いていたけれど、椿希のことばかりが今日この日はやけに頻繁に思い出されて、彼女に申し訳なくて居心地がやけに悪い。
 何かにつけて、葦香と椿希を比べているので椿希のことを思い出さないわけがなく、比較しているうちに葦香のことも気になって目で追うようになり、それが自分の首を絞めようとしているというのにままならぬ自分の感情がとてももどかしい。堪らなく椿希のことが恋しくて、またあの日のようにただ一緒にコーヒーを飲んでいるだけでも構わないので、彼女に会いたかった。
 「夏苅くんは彼女いるの」
 雑誌に載っていそうな、磨き抜かれた輝かんばかりの容姿、低く少し掠れた声が言いようもなく大人びている。実年齢よりもさらに三つ、四つほど年長に見えるようなのに、冷静すぎて味気ないといつも桔梗にからかわれていた葵生ですら、まともに取り合ってよいのか分からず気が張ってしまう。
 「いるというか、いないというか」
 曖昧に答えると、急に周りの目の色が変わって数名がこちらに注目した。
 「ああ、もしかして例の彼女のこと。彼女は現役で合格してしまったという、『女学院の君』」
 隣に座っていた上野桐之が言った。女学院の君、というのを聞いて、自分が染井の君と呼ばれていたのを思い出し、このような綽名されるとは何かの因果のように感じられて笑みが零れた。こういう話は好まない方であったが、気持ちが高ぶっているせいだろうか、彼女のことを話してもいいような気がしてきたのだった。
 「その女学院の君は、結局彼女なの、そうじゃないの、どっちよ。夏苅くんはそういう中途半端なのを好まないように見えるんだけどな」
 頬杖を突き、爪を紅のマニキュアで塗ったその人は、大きな眼差しで真っ直ぐに葵生を捉えて離さず、答えから逃げることを許さない。彼女のことを話してもいいと思ったけれど、関係がどうかと言われればなんとも表現のしようがない。
 「友達以上恋人未満かな。一応、俺は告白をしたけど彼女から返事をもらったわけじゃないし、彼女もなんとなく仄めかすようではっきりと言ったんじゃないから」
 桐之が驚いたように唸った声を出した。
 あの時どうして彼女へ思いの丈をはっきりと言い伝えなかったのだろう、ということばかりが悔やまれる。何年もの間ずっと耐えてきたことを果たすことばかりになって、あらゆる計画も破綻し、彼女への配慮も怠ってしまったことで、彼女に「来年必ず合格するから、それまで誰とも付き合わないで待っていて欲しい」という本当の気持ちを伝えられなかった、苦い思い出が蘇って来て、笑みもぎこちないものになった。
 桐之はじめ、聞いていた人間は皆、恋愛とはそういうものだとして納得しようとしていたのだが、葦香だけは呆れたように、
 「夏苅くんって、意外と意気地がないのねえ」
と溜め息交じりで言った。
 塾にいた頃は誰も彼も葵生のことを称賛するばかりで、嫉妬の物言いはほとんど聞こえなかったので、このようにずばり言われたのには葵生も驚いて、胸を突き刺さるような言葉に返す台詞が見つからない。あの中では比較的はっきりと物言いをする方だった桔梗や妥子でさえ、そのようにあからさまには言わなかった。
 「本当にもったいないことをしたじゃないの。女学院の君もきっとまんざらでもなかったんだろうし、だから仄めかすように言ったんじゃないの。まあ、その子も意気地がないといえばないんだけど、夏苅くんは男の子なんだから、もっと強気で押さなきゃいけなかったんじゃないの」
 あまりにもずばずば言うのに、周りがうろたえるほどであったが、葵生はいちいちがもっともなこと、客観的に見て他人がそう言うのだから、と頷くしかない。強気で押すどころか度を超えたことをしてしまったのだから、同時に顔も赤くさせる。
 話はそれからも色々と尽きることなく続けられたのだが、葵生の話は一旦そこで終了したようである。解散する前に円を作って最後に話し込んでいたとき、葦香が葵生の近くに寄って来て、悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。
 「私も実は、女学院出身なんだよね。私、その子のこと知ってるかもしれない」
 葵生は驚き呆れて、言葉も出ない。妥子以上の手強さと、椿希と相反するような美貌のこの年上の女性を前にすると、緊張して言葉を探してしまうのだけれど妙な心地良さを得られて、もっとこの人のことを知りたいと興味深く思うのだった。


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