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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第8回   第一章 第二話 【光】2
 さて進学校においては、受験準備をするのに学年は関係ないとよく言うが、一年生であっても早々に模擬試験を何度も受けてきた葵生は、少しずつだが着実に成績が伸びているのが分かったし、手ごたえもあったのだった。進学校の中で上位に食い込むのはなかなか至難の業なのだが、この調子で行けばそれも遠からぬ未来のことであろうと予想された。
 葵生がまだほんの小学生のとき、夜遅くまで受験勉強していたのが祟ってなのか、風邪をこじらせてそのまま肺炎になってしまい、緊急入院してしまったことがあった。体は言うことを効かなくて不快感と倦怠感で堪らなかったが、考える力だけはしっかりあったのか、この大事なときにどうしようという焦りの気持ちで、ゆっくり休んでなどいられなかった。だが、あの口喧しい母親がいかにも根治の難しい大病を患ったかのように大騒ぎするのを見ていると、次第に冷静になって来て、いい加減恥ずかしいから止めて欲しいと口には出さないが、そう思っていた。
 そんな葵生の複雑な思いに気付いたのか、若い医師――今にして思えば研修医だったかもしれない――がいわゆる『お目付け役』となって葵生の部屋をたびたび訪れては、あまり深く沈みこまないよう励ましてくれたのだった。
 「そういえば俺も、葵生と同じくらいの時に中学受験したんだけどな、うっかり風邪をこじらせて気管支炎になったことがあるんだ。まあ肺炎じゃなかったから入院はしなかったけど、あのときにゆっくり休んで体力つけたお陰で、受験前のラストスパートを乗り越えられたもんだ。直前じゃなかったのは運が良かったじゃないか。今のうちに出来ることだけでもやっておけばいい」
 それからもたびたびこの若い医師は葵生の部屋を訪れては、何かと話しかけてくれたお陰で思ったほど寂しくも退屈でもなく、むしろ退院するときの方が心残りでならなかったほどだった。葵生もあまりはっきりとは覚えていないのだけれど、思えばこの出来事がきっかけで医師になりたいと思うようになったのかもしれないのだとか。それまではただ漠然と、母親に言われたから受験勉強をしていたので目的意識などなかったのだが、こうしてはっきりと目標が出来ると、退院後はその小さな体のどこにそんなに力があるのかと思うほど、ことさら熱心に勉強するようになった。こういうとき教育熱心な母親がいて助かったと思ったのは、勉強すればするほど母親は喜び、集中出来る環境を整えようとしてくれることだった。
 こうして見事、染井吉野の花で有名な第一志望の中学に合格したのだが、葵生は合格したことに満足してしまい、病院での決意は一体どこへ行ったのやら、夢も少しずつ色褪せて来て、本当に何がしたかったのかと思っているうちに、なんとなく勉強をしているだけになっていた。親もほどほどの成績を取っていれば何も言わなくなったのは、将来は結果的に難関国立大にさえ入れば、文句はないからだった。
 そんな衰えかけていた情熱を呼び覚ましたのは、光塾に入ったことがきっかけであった。その光塾の塾生たちを見ていると、高校入学時の偏差値だけで判断するならば、進学校またはそれに準じる学校に通っているのは全体で見て六割を超える程度かと思われた。
 その中でも葵生と柊一の通う学校と言えば、進学校中の進学校と呼び声の高いところであり、学年のほとんどが国公立大学に進学し、男子校ということもあるせいか医学部または法学部進学率が他校に比べて顕著に高い、という実績をもう何年も残している。
 それなのにどういうことなのか、偏差値というものはまるで存在しないかのように、少なくとも一年生の間、光塾では成績の上も下も関係なく机を並べて授業を行っているのだ。授業の程度はというと、ちょうどいい進度、ちょうどいい難易度であり、特に不満はない。
 時折、茉莉が「授業が分からない」と大騒ぎするが、それを周囲が休み時間になると教えて、どうにか間に合わせている。分からない側にとっては助かるし、教える側にとっては教えることにより、自分が果たして正確に理解出来ていたかを再確認することが出来るのだから、双方に効果がある、というところだろうか。

 さて先日行われた統一模擬試験の結果が返ってきたのだけれど、まだ高校一年生の春ということもあって受験した高校にはばらつきがあり、正確とは言いがたいのかもしれないが、受験した学校には進学校も多く含まれていたこともあって、大方自分の実力を知るに信頼出来る試験であったようだった。
 「すごい」
 教室中に驚き呆れる溜め息が漏れ聞こえたのは、葵生の成績について、受験した国語、英語、数学の三科目全てにおいて好成績を残しており、これといった死角が見当たらないためだった。
 実のところ、葵生自身の成績も過去最高のものであり、それは苦手だった英語が今回は妙に出来が良かったことが大きな原因だろうと、葵生は分析していた。学校内での順位が成績表に載っていたが、足を引っ張っていた英語が上がったことによって、初めて上位と呼べる順位にまでつけることが出来、医学部進学のことを思えばまだまだ満足してはいけないのだけれど、ひとまず安心といったところだろうか。
 「そんなにすごい成績なのか」
 やや呆れたように山城桂佑が言ったのだが、桂佑は今回受験をしなかった面子の一人であり、想像し難いのか話題からは蚊帳の外にいて、冷めた目で成績のことで盛り上がる塾生たちを見ていた。
 「そりゃあ、大抵はあっちが立てばこっちが立たずになるだろうに、三科目が揃ってしまっているなんて、すごいと思うな」
 笙馬がそう言って、手元にあった試験結果と見比べて溜め息を吐いた。
 「やっぱり、染井には適わないのかな」
 笙馬は内心はとても辛いのだけれど、お手上げだという風に両手を軽く挙げて見せた。今回の結果は大方分かっていたけれど、それでも心の内では「もしかして」と僅かばかり期待していたので、本当に残念そうである。
 「まだ俺たち一年生だろう。俺はこれから追いつくぞ」
 いつも自信に溢れていて強気の桔梗が、笙馬を軽く見ながら言った。ちらと自分の成績表の数字と比べると葵生のそれより見劣りしてしまっているのだが、断固として負けを認めたがらない桔梗は、感想を述べるのもそこそこに、成績表をさっさと鞄にしまい込んでしまった。
 それから授業中になって、講師が先日の模擬試験を受けた者の成績表を回収して回り、それから一週間ほど経って塾内の掲示板に総合成績と各教科別にそれぞれ上位五名までが貼り出されていた。
 葵生が塾に来るなり、廊下に見慣れた塾生たちが集まっているのに気付いて見に行ったところ、総合成績と数学では葵生が一位を獲得していたのだが、英語の上位者表を見たときに、葵生は驚いた。見間違えではなく、一位のところに冬麻椿希の名前が記されており、その得点と偏差値を見ても、二位以下を大きく離していたのだった。
 思いがけなく椿希の名前を見たことで、葵生は緊張と共に何故だか急に胸に突き上げられるものがあり、呆然とした様子で成績表を見上げていた。葵生がいることに気付いた塾生たちが、やんやと囃し立てて持ち上げたり感想を聞こうとしたりするけれど、葵生はそれに対して適当に答えるだけで、真剣には応対するつもりはなかった。それよりも、是非とも椿希に会って、この結果を見てどういう反応をするか、この結果のついでに椿希と話が出来ないかなどと考えていたためである。
 しばらくして椿希が妥子と共に制服のままやって来て、二人共掲示板の成績表を見てそれぞれ反応を示した。
 「やっぱり椿希、英語一位だったね」
と、妥子が言った。
 「妥子は国語が一位だね」
と、椿希が言って、それぞれの健闘を称え合っているのが微笑ましい。そんな中を割って入るのは申し訳ないと思っていがた、葵生がいることに気付いた妥子が、
 「あら、総合成績と数学一位の夏苅くんじゃありませんか」
と、おどけた様子で言ったので、葵生は思わず頬を赤くさせそうになった。
 「私は数学が良くなかったから羨ましい」
 椿希は心底そう思っているらしく、溜め息を漏らしながら言った。いつも穏やかで柔らかい表情をしていることの多い椿希が、少し残念そうにしているのは成績のことで納得のいく結果が得られなかったからであろうか。
 「俺にとっては英語が苦手だから、どうすれば成績が上がるのか、ご教授いただきたいほどだね」
と、少し声色を変えて言ってみたところ、椿希がふっと吹き出すように笑った。どんな人でも笑顔が一番美しい表情であるのだが、特に椿希の場合その端麗な容姿もあいまってことさら優美で愛らしいので、それを見た葵生は満足げに微笑んだ。
 それぞれ模擬試験の結果で思うことは多様にあったようだが、葵生については、ひとつ目標が定まってこれからその達成を目指そうと決められたので、得るものが大きかったようだった。
 
 そんな模擬試験のちょっとした騒ぎがあって、初めて塾生たちの中で成績優秀者が誰かがおおよそ掴めたわけだが、その成績優秀者の一人に選ばれたにも関わらず、葵生は少し落胆していたのは誰も気が付かなかっただろう。
 あの春の連休中のキャンプより椿希に対してときめく気持ちを抑えきれず、常に視線が彼女の姿を追っていたのだから、彼女自身ですらおそらく気付いていないような小さな癖も、疲れた表情も見逃さないでいた。椿希は大抵うっすらと笑みを浮かべていることが多いので、見ているだけでも心にあるわだかまりも黒く渦巻く野心も消えてしまいそうである。だから葵生は塾の席については、黒板を見るときに視界の端に彼女の横顔が見えるような位置に常に座っており、その場所を固定位置にするため、早く塾に来ては席を確保していたほどだった。
 授業中、左手で頬杖をつくのに顎に指の第二関節をそっと当てている姿が上品で、板書されたものを写し取るときの姿勢も背筋が通っていて、その肩にさらりとかかる艶やかな黒髪が蛍光灯の光を受けて光沢を出しているのが、なんとも美しい様である。油断すると、そちらにばかり目がいってしまいそうなので、葵生は十分に気をつけていたが、ついついそれを見るのが楽しみになってしまっていた。
 高校生になってから葵生と知り合った者にとっては、別段気にするほどのことでもないのだけれど、中学時代から知っていて葵生をよく見ていた柊一は、そんな葵生の行動には少し驚いていたようだった。
 以前にも述べたように、同性から思いを打ち明けられたことがあるのではとの噂が流れたのも、異性に興味を示す様子がなかったためだった。もしあの校門前でどきどきと胸を高ぶらせながら葵生が通り過ぎるのを見守る女子の誰か一人にでも、会釈のひとつでもしていたなら、柊一も敏感に葵生の態度の違いに気付くこともなかっただろう。
 高校生になって、そんな葵生の意外な面を見てしまった柊一は、表立ってそのことに触れなかったけれど、内心はとても口惜しく、元々の血色の良いとはいえない顔をさらに青白くさせて見ていたのだった。

 さて、そんな葵生が椿希のことをいかに気に掛けているかというのが分かる話がちょうどこの頃にあったので、お話しすることにしよう。
 キャンプが終わってからおよそ二、三週間ほど経ったはずなのだが、椿希がどうやら未だにあの連休中の疲れが取れておらず、少し気だるそうにしていて、時々机に伏せるようにしていることがあった。眠たいからと、突っ伏して眠る者もいるので一見しただけでは判別がつき難いのだが、椿希の場合はどことなく眠いからというよりは体全体が重たそうで、明朗な性分には合わないぎこちなさが、葵生の勘ではあるが体調が悪いのだろうかと思わせた。
 「寝不足かもしれないわ。そろそろ中間試験だから」
と、椿希が自分自身の体調管理の甘さを指摘してみせた。椿希は努力家で、少々のことをなら無理をしてでも貫徹させるようなところがあり、そういえばキャンプの時でも人一倍動き回っていたことを思い出すと、葵生は心配で堪らなかった。だがそれを言える勇気のない葵生は、せいぜい、
 「くれぐれも度を越さないことだな」
と、さりげなく言うことぐらいしか出来なかった。葵生の心の奥深くで椿希への慕情が募っていることなど知らぬ桔梗が、
 「椿希が休んでいる隙に英語を勉強するつもりだっていうなら、俺も便乗するよ」
と、言った。桔梗もそういえば椿希のずば抜けた英語の成績に衝撃を受けていた一人で、しばらくの間方々でそんなことを言っていた。にやり、と口の端を持ち上げるようにして笑うのは桔梗の癖で、彼なりの不敵な笑みの表現なのだろう。もちろん本気で打ちのめそうとは思っていないけれど、素直になれない性分からか、そんな風に絡むことで意思を伝えようとしていた。
 そんな二人を椿希が微笑むように見ていたので、葵生は照れてうまく言葉を口に出せなかったが、休み時間の終了の間際にようようのことで言えたのだった。
 「体には、気をつけて」
 それを聞いて椿希が「ありがとう」と、柔和な笑みを浮かべたので、葵生はますます愛しさを募らせていく。本当に彼女にどんどん惹かれて行っていると自覚しているだけに、椿希の前で無様な格好は出来ないなと、葵生は家に戻るとそれは熱心に集中して勉強をしていたのだった。
 ただ、身長があまり高いとは言えず、椿希ともほとんど差がないのを気にしてか、あまり夜更けまで勉強することはなく、きちんと一定の睡眠時間は確保していたのだとか言うことも、余談としてではあるが付け加えておくことにしよう。


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