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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第79回   第二章 第十五話 【桜花】3
席は窓際の、外の春の景色がよく見えるところを選んだ。染井も中等部と高等部を擁するため合わせると決して小さくはないのだが、当然大学とは比べるまでもなく規模が全然違う。広々とした敷地にゆったりと植えられた木や藤棚が窓からすぐ傍に見え、丘の上にある大学からは街が彼方に青く浮かんで見える。少しずつ建て替えの始まった学部棟のうち、もう完成したものは真新しく瀟洒な作りになっているけれど、古く築何十年にもなるようなものは壁の色もくすみ、内部までが薄暗いような気がして近寄りがたいけれど、それがかえっていかにも歴史あるように見え、私立だった染井とはまた違った趣があるように感じられる。
この大学の学生でもなく、まだ浪人生である身分であるだけに奇妙に感じられた。誰にも分からないとはいえ居心地は良いとは言えない。また、周りは自分と年頃の変わらない学生がほとんどで、中には部外者らしき者もいないことはない。だが、医学部の近くであるということが、将来自分がここに座って寛いでいるかもしれないことを思えば、妥子の気の利いた計らいに感謝していた。
 話はどちらが切り出したかも知れないような曖昧なままに始まった。初めのうちは葵生もところどころ話をしていたのだが、椿希のことをなんとしても訊ねたかったので、やがて妥子がほとんど話をするようになった。その内容についてはもう、随分とここで語ったことと重なるし、いちいち改めて書き出すのも煩わしいので省くことにするが、その話を全く初めて聞いた葵生としては身につまされる思いで聞き入って、改めてあの零落の日々を悔み、それさえなければ塾を辞めていたとしても、後ろめたいことのない気持ちで旅行にも参加出来たのにと、そのほかにも様々に心に浮かんでくることは多かったようである。それにしても、ただただ椿希がそのような只事ならぬ状況にあるというのに少しでも気付いていたにも関わらず、何故思い遣りもなく彼女がいないことを理由に思い出したくもないことばかり仕出かしたのか、あまりにも一方的過ぎる思いではなかったか、などと省みて随分と気を塞がせるばかりであった。
 話が一通り終わって落ち着いた時になって、葵生は妥子に、
 「それにしても、悪いな。いつも俺ばかりになってしまって、姐御には迷惑を掛けていると承知しているよ。いや、姐御もきっと心の中では俺に遠慮して言えないようなことも、たくさんあるんだろうけど」
と、心から済まなく詫びるのだった。
 こんな風に葵生が椿希以外の人間を口に出して気遣うのが初めてだったので、空耳のような気がして妥子は戸惑ったけれど、それも恋をして冷たそうに見えた人柄も穏やかになったためだろうかと、本当の姉のような気持ちになって微笑んだ。
 「あれからやっぱり笙馬とは連絡も取り辛くて何もしていないの。一応、連絡先の交換はしたけれど一度も遣り取りをしていないから、結局近況は分からないまま。まあ、真面目な笙馬のことだから不本意な結果でもちゃんと大学には行っていると思うし安心もしているけど、確かに高三の受験前あたりはやつれて元気もなかったのに、あの民宿での萎れきって話すのを聞いていたら、私も理解が足りなかったと辛くて辛くて」
と、今でもまだ笙馬とのことを悔んでいるようである。葵生には自分と思い合わさる部分も多くて、また、年齢よりもずっと大人びていて物事の弁えもしっかりとした妥子でさえも、このような人と人との間で悩むことがあるのだと、とても親しみを感じていたのだった。同性の間柄であってもままならぬのに、ましてや異性との間となると、物の考え方も捉え方も大きく異なるであろうし、この二人の場合は男の方が優等生気質なのだが気弱で劣等感を人一倍多く持っていて、女の方が同い年でありながら遥かに立ち居振る舞いも優れて落ち着いていて、学業面でも相当の秀才だったのだから、より一層難しかったに違いない。妥子がただ、笙馬よりも大人びていただけで、笙馬は年齢相応だった。ちぐはぐしていた関係は、決して大きい問題ではなかったはずなのだがこうなってしまったのだ。
 「それからもうひとつ聞きたいことが。俺と入れ違いで塾に入って来たという人がいると聞いたけど、その人が今、ここの法学部にいるとか。その人が俺のことをやたらと調べようとしていたとかいうのは本当なんだろうか。なんで俺が、と気がかりだから、この際ついでに聞いておきたい」
 こちらは本当にほんのついでに過ぎなかったのだが、引っ掛かっていたのだろう、この機会にすっきりとさせて受験勉強に戻りたいからか、普段ならば黙って胸の内に収めておくようなことも訊ねることにしたのだった。
 妥子は、葵生には加賀茂孝のことは関係がないとして耳に入れないよう、以前会ったときにその話はしなかったのだが、葵生が自信を取り戻しつつあるような力強い言葉や表情に、最早葵生の心が揺らぐことはないだろうと信じ、話をすることにした。
 「彼、加賀くんのことだと思うけれど、そのつもりで話をすることにするね。葵生くんがいなくなってから味気なくて、皆気力もどこか失ったようで、たった一人の同級生にこれほどまでに憧れて目標にしていたんだということが分かったものだから、加賀くんが来ていきなり圧倒的な成績を取ったことに、葵生くんがいるようだと噂し合ったものだった。そのときに、『染井の君がいたならばどうだっただろう』っていうのが、どうやら加賀くんが聞いていて、それで気になっていたようよ。葵生くんは自分のことをそれほど大した人間じゃないと思っているようだけど、周りからすれば、学力ももちろんだけど容姿も、そして少し冷たいようだけれど神秘的とでも言えるような雰囲気や艶やかなのが、とても同じ年とは思えなくて、皆それぞれ遠くから見詰めていたから、忘れることも出来なくて、まるで葵生くんがまだ塾にいるかのようにずっと話題に上っていたんだよ。だから、当然加賀くんは会ったことがないとはいえ、それほどまで持て囃されるのはどんな奴だろうって気になるでしょう」
 聞いているうちに、あまりにも自分が高く評価されすぎていることが心から面映ゆく感じる。これこそが客観的に見た自分なのだろうけれど、あまり自分と掛け離れてしまっているのだけは、なんとか勘弁して欲しいところである。
 それにしても見も知らぬ人間に対してそれほどまでに対抗心を燃やし、色々と嗅ぎ回るようにして訊ねられるというのはどうも気持ち悪く、一体どういう因縁なのだろうか。どこかで出会ったとしても、きっと気の合わない性格だろうと思っているが、既に一度会っているとは葵生は知らぬことであった。

 さて、その茂孝であったが、大学へは自宅から通えるのでそのようにしているが、椿希が下宿を始めたというのを聞いて羨ましく思い、無理を承知で一度両親に頼んでみたが、
 「うちはそんな余裕がないんだから、あなたには公立高校に行ってもらったのを忘れたの。通えるんだし、そんなことをする必要はないでしょう」
と、当然の如く却下された。椿希の場合はやむを得ない事情があるのだし、家庭の経済状況もうちとは異なるんだからと、茂孝は納得するしかなかったが、未だに彼女のことを芯から諦めきれていないから、
 「いつか機会があったら下宿を見せてくれない」
と言って、困らせている。
 学部が違うのだから、会おうとしなければ会うこともないのだが、一般教養ではどういうわけか、わざわざ文学部の講義をたくさん選択しているので、顔を合わせる機会が多かった。
しかし、茂孝もあれから『染井の君』に執着を見せることはなかったので、椿希も友人の一人として接していた。元々明朗なのだから、すぐに友人たちも出来て和気藹々と学生生活を満喫していて、その中の一人と思えば茂孝は受験の頃から知る戦友として頼もしい存在であった。ただ、過去を知るだけに大学病院に通っていることが知られるのは気まずく、病を知って心に隔てが出来て余所余所しくされるのは辛いので、そのことだけは椿希も用心していた。このように隠すこと自体が後ろめたく、それこそが信じていないようで気が引ける。しかし、時折倦怠感に襲われて休みの日は一日中横になっていることがあるけれど、今は退院後長く寛解の状態が続いていて、もう副作用の強い薬も飲んでいないのだから、もう少し経って本当に親しく心を通い合わせられるようになったら、明かしてみても良いかと考えている。
 ただこんな風に考えれば思い遣られるのは、葵生にそのことをまだ言わないままでいることで、あの旅行先で二人きりで滑ったときのほんのちょっとした会話の合間にでも話せば良かった、と思っている。このように葵生に対してだけ、他の友人たちとは別に考えるということは、やはりあの雪山の宿での涙ながらに呟いたことは、真心からであったのであろう。椿希は誰に対しても親しげなのだが、心許して何もかも話しているのは妥子だけであり、兄のように慕っていたのは藤悟だけであり、戸惑いながらも情熱の中に絆を感じたのは葵生だけであった。あの卒業旅行に桔梗が茂孝を誘わなかったのも、二人が揃えば煩わしいことも自然と起こるであろうということだったので、茂孝と親しく付き合っていた笙馬でさえも納得していたようだった。
もし茂孝がいれば葵生も警戒して、あのようなことも起きなかったであろうという気もする一方で、人見知りをするうえに親しくない人間には愛想の足りない葵生と、何かと徹底的に調べ尽くす茂孝とでは、一応二人は通り一遍の付き合いをするものの、胸の内では共に塾内では際立って優秀な成績でいたのだから、双方の矜持高さから周りが気の滅入るような厄介なことにもなり兼ねないとも考えられた。これも定められた運命かと、椿希は思うに任せられぬ今の有様がもどかしい。
 茂孝がなおもしきりに椿希と友人より先に進んだ間柄になろうと、あれこれ練っているようだが、彼女の心がもう固まりつつある今となっては、それも残念ながら骨折り損になってしまうのだった。茂孝本人は、そのことにまだ気付いていないうえに、光塾の人間関係において悩ましい種と周りからみなされていたのは、知らぬは本人ばかりなりとはいえ、なんとも奇妙なことであった。決して底意地の悪い人間ではないので、誰も彼も憎んで爪弾きにすることはないのだが、本人には気を遣って何も知らされず、さりげなく距離を置かれている状態なのが見る者によっては嘲笑ってしまいそうなものである。
さりとて、あまり芸術を好むようではなく、聖歌隊のことや美術館の絵画展のことなどを聞いても興味を示さず、それどころか芸事をはじめサブカルチャー全般を下に見るような傾向がある人なので、旅行に参加した者のうちの一人は、
 「そうなるのも当然の結果だ。あれは勉強ばかりにかまけて、心を学ぶのを疎かにしてしまったのだから」
と言ったのだとか。親しき仲にも礼儀あり、という言葉があるが、この茂孝は親しくなればざっくばらんに、馴れ馴れしく話すのが美点である反面、失礼なことを言って気を悪くさせることもたびたびあったので、おそらくそのことを言っているのであろう。なんにしても、その人は一人相撲を取っているのであった、とか。


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