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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第77回   第二章 第十五話 【桜花】1
 『朝露の見える頃』まで勉強した日々を思い出しながら、ほのぼの明るくなっていく東の空の様子が幻想的で、窓から光が薄く差し込んで来て少し眩しい。枕から少し頭をもたせ上げていると、山の端の濃い橙色の朝焼けが木々を愛でるように朝を告げて行くのが、山深い里の日常の始まりの合図であるらしい。滅多に聞こえることのない鳥のさえずりがあちらこちらで聞こえ始め、霧がかった朝ぼらけの風景は、画家が見ればさぞかし感激しそうな趣があって、しかしそれでも筆に描き尽くすことは出来ないであろう言いようのない春の曙であった。
光に照らされて涙を流した跡を頬に残しながら眠る愛しい人の露わになった滑らかな肩を撫で、毛布をそっと上から掛けてやると、男は女の前髪をそっと掻き上げた。気配に気付いて女はゆっくりと瞼を上げると、男が微笑みながらこちらを見詰めているので恥ずかしく、怯えるように背中を向けて体を強張らせた。
 「怖がらないで。そんなつもりじゃなかったんだから、どうか機嫌を直してよ。そんなのだと、みんなに気付かれてしまう」
 優しく言うけれどひどく艶めかしく聞こえて、布団を深く被ってこちらを見ようともしない。覗き込まれるのが厭わしくて起き上がろうと身をよじるけれど脱力し、男に半身を預けるようになってしまって動くことも出来ない。
 「本当に悪かったよ、そんなにまで辛そうにされると俺まで辛くなってくる」
 体を震わせながら声を押し殺して泣くのが、雪解けと共に消え入りそうな儚さで男は一層離れがたく、このままずっと一緒にいたいと愛しさを募らせる。
 いつまで経っても塞ぎ込んで目も合わせてくれず、こんなにまで無反応だとひどく心に堪えるし、こんな女の様子を見るのは初めてなので、仕方なく抱き上げた体を横たえさせてやると、名残惜しいけれど自分は着替えを済ませ、男は部屋を出て行こうとする。
 「みんなが怪しむといけないから、俺だけは階下に行って朝食を摂ってくるよ」
 それでも返事などあるはずもなく、やはり背を向けたまま横になって少しも動く気配がない。男は嘆息を吐きながら、「行ってきます」と言ってゆっくり階段を下りて行った。
 居間ではそろそろと起きて来た塾生たちがいたけれど、外湯に行くと言って出ていったり二度寝したりと、朝食を摂る気配はない。
 妥子はほとんど眠れなかったのか、目の下に隈を作りながら折り畳みの机を出してきて机を拭いて、桔梗が手配していた朝食を並べていく。遅くから起きてきた者もこういう風になっていると、時間を気にせず食べることが出来るので、桔梗の準備の良さには感心するばかりである。
 「葵生くん、椿希はどこに行ったか知らない。私、気付かないうちに寝ちゃったみたいで」
 葵生は割り箸を並べながら、
 「朝早く起きたら外湯に行きたいと言っていたから、行ったのかもしれないな」
と、素知らぬ顔で言った。
 「そうなんだ。だったら、起こして誘ってくれたらいいのに。まあ、いいわ。今日は私、とことん滑りたいから早く食べ終わらせて出て行くことにする。葵生くん、椿希が帰ってきたらそう伝えてちょうだい」
 何か振り切ろうとしているのか、妥子は努めて普段通りにしようと振舞っているように見える。人よりも先に起きたのは、笙馬と顔を合わせるのを避けるためだったのかもしれないが、妥子らしくない。こんなときに椿希がいないのはいたわしいことと胸が痛むけれど、とやかく言うのは気が引けて、葵生も黙々と朝食を摂った。
先に妥子が食べ終えて部屋に戻り準備を整えて出て行ったので、それを見計らって葵生は弁当箱と箸を一つずつ持って、誰にも見つからぬよう足音を立てずに三階まで上がったが、物置部屋の入り口からまだ塞ぎ込んでいるのを見て、葵生は軽く溜め息を吐いた。
 「朝御飯持ってきたよ。朝ぐらい食べないと元気が出ないし、せっかく旅行に来たんだから楽しもうよ」
 恨みごとでも罵る言葉でも言ってくれれば、少しは安心するのにと、葵生は自分のしたこととはいえ、こうも強情になっているのが情けないように見受けられるものの、それでもそんな彼女が堪らなく愛おしいと思って、いつまでも見詰めていたいと深く腰掛けた。
 「何か喋って欲しい。俺のことが嫌いになったのなら、そうだとでも言ってくれれば」
 椿希は、兼ねてからこの人の魅入られたときの身の毛のよだつような恐ろしいまでの妖麗さは感じ取っていたというのに、どうしてか信じてしまったのが我ながら浅ましい考えであった、さては今までこういうつもり機を狙っていたのかと口惜しくてならない。しかし、このままじっと動かずにいるわけにもいかないので、もう一度身を起こそうと手を突いた。今にも泣き出しそうな顔ではあったけれど、そんな態すらも葵生には可愛らしく映って、弁当箱を椿希の膝に乗せてやる。いつもは綺麗に梳かしてあるつややかな髪がしどけなく乱れているのでさえ、いつもと違っているけれど濃艶さが増すように見える。
 毛布を引き寄せ、箸を進めながら、しかしやはり食欲も湧かず、か細い有様で少しずつ口に運ぶ。結局大分残してしまったのだけれど、葵生は食べることさえ拒まれるのではという気がしていたので、嬉しくてならない。
 「もう俺の思いには、賢い人だから気付いてくれていると思うけれど、こんな右も左も分からないような様になってしまったのは、ひとえに一途に椿希のことを思っていたからだと、どうか分かって欲しいんだ。別れてからの間、椿希がいないことがどれだけ苦しかったことか、次に会えたなら是非ともこの思いを打ち明けねばと心の奥深くに秘めていたこと、よくぞ耐えたものだよ。ただ好きだと単純に伝えることがどれほど難しく、高い壁を越えなければならないか。でも、必ず叶えようと決めていた。それなのに、こんな不埒な真似を伝える前に仕出かしたことは、それほど思い詰めていたからなんだと、我がことながら驚くばかりで。」
 葵生の腕の中にあって、もはや抵抗する気も失せた椿希は呆然としながら、言われるままに聞いていた。
 「理解しろと言われて理解出来るものかしら。葵生くんの気持ちはよく分かったわ。そして今は私も、確かにあなたに惹かれている。それでも、私は泣かずにはいられなくて」
と言って、また涙が一筋、雨上がりの雫が幹を伝うように零れていく。葵生は、もう天にも昇るような喜びでいるのだけれど、まだ椿希が落ち着かない様子で萎れているので、ひたすら不器用ながらも言葉を尽くし慰めていた。
 階下ではそろそろ人の気配がし始め音も伝わって来るけれど、寝室にとあてがわれた部屋は一、二階だったので三階になど上がってくることもない。ましてや妥子をはじめ、早起きした者らは既に宿から出ていなくなっていたので、誰一人二人が階上にいることなど気付くこともなかったので、昼頃までずっとそのまま過ごしていたのだとか。

 夕食の時間になると、また一同は集まって共に食事をしたのだけれど、やはり昨晩のことがあったからか今ひとつ盛り上がることがない。笙馬は食べるだけ食べると外湯に行くと言って出て行ってしまうし、それを察した桔梗もついて行く。
 妥子は一応いつもどおりに振舞っていて、誰かと話をしているときだけは元気にしているけれど、話が終わってしまうと表情が曇って辛そうである。椿希もまた、顔は曇りがちでいる。葵生とは目も合わせようとしないし、座る場所も少し遠いところにするのだから、「あんなに話もしたのに」と悲しく切なくなる。夜更けのことはともかくとしても、やはり赦してはくれないのかと、自分が全面的に悪かったのだから、言えることなど何もない。だが、食後に隙を見て彼女と会う機会もあろうかと窺っていたけれど、
 「私、昼間はずっと温泉に行っていたんだ。だから、夜滑りに行きたいんだけど、一緒にどう」
と言って、ゆり子も誘って出て行ってしまった。
 「椿希、体調は大丈夫なの。顔色が悪いようだし、何よりまだ病院にだって行ってるんでしょう」
 訝しむように妥子が言う。ゆり子も心配そうにしているのを見て、葵生は顔を染めながら椿希がどう言うだろうとはらはらしながら聴き耳を立てている。
 「大丈夫。温泉入ってすごくすっきりしたから。病院は、ちゃんと旅行前に行ったんだけど、経過は良好、長い寛解状態のお陰で薬は鎮痛剤と胃薬だけになりました。というわけで、調子がいいの」
 そうして、三人は準備のために部屋に一度戻ってすぐに出て行った。
 葵生は、すっかり忘れていたことを思い出して、椿希の体のことは桔梗からある程度聞いていたのに少しも気遣わず、夜も朝もなんという無茶をさせたものかと、口元を手で覆いながら顔から血の気がさっと引いて行くような感覚を覚えた。彼女本人の口から、今は体調のほどはどうなのか聞くいい機会なのを逃してしまったが、もはやあのような様子では答えてくれないだろう、いやそもそも訊ねることすら出来るかどうか。薬が減ったらしいことだけは、まず安心出来ることであるけれど、それも気遣っての嘘かもしれないので信じていいものやらと、自らが作った悩ましい種であるのにやはり椿希を責めるような心を抱いてしまうとは、それも恋心であると鷹揚に見るべきか、それともただの傲慢と思うべきか。

 卒業式は三月二十二日に行われた。桜はまだ完全に開花してはいないけれど十分に見ごたえがあって、はらはらと舞う雪のような花びらが風に吹かれて上へ下へと向かっていくのが、蝶が飛ぶように気まぐれであるようだ。隣接してある教会の屋根に止まった小鳥が囀るのが珍しく聞こえ、卒業を祝う参列者に混じって可愛らしくある。
 女学院ならば桜はこれほど見事ではなくとも、さぞかし華やかで清閑な感じがまたとなく素晴らしい光景であろうことを思い浮かべた。今頃、彼女も卒業式の時を迎えているに違いない。
 これが最後となる、六年間通った染井の学校を隅々まで見渡すと、あそこでもここでも思い出があったと思い浮かべると、苦いものですら今となっては懐かしい。春になると愛でていた桜とも別れねばならない。桜の名所は数あれど、やはりそれとは異なった趣を感じられるのは母校だからというせいもあるだろうから、やはり名残は尽きないのだった。校庭の隅にある棒に目盛がついていて、時々そこで背丈をよく測ったものだったということも、幼い頃の自分が思い出られて笑みを漏らしてしまう。
 友人たち数人と、そこへ行って最後にと、昔のように互いに測り合った。初めてここで測ったとき、この友人たちの誰よりも小柄で悔しかったのに、今では追い抜いたり目線が同じだったりと、なんと成長したものかと感慨も深くなる。椿希はこのくらいか、と自分の背丈と比べながら微笑み、やはり同じ学校でなかったことが残念でならず、そうであったらこの第二ボタンは真っ先に彼女にもらって欲しいのに、と思うのだった。
 あの柊一ともこれでお別れである。柊一は地方の国立大学に合格していたので、これからは下宿生活を送ることになるので、式後はすぐに家に帰って引っ越しの準備をしなければならないと言っていた。柊一の良かれと思ってしてくれていることが葵生には重く辛く、それがために距離を置こうとしていたけれど、少しずつ歩み寄って友人と呼べるような間柄になって卒業の時を迎えられたのは嬉しく、
 「向こう行ったら連絡を時々寄越すようにするよ。こんな僕で良かったら」
と言うのでさえ、葵生には感慨深く思えて、
 「俺としても、同じ学校出身としてこれからも宜しくな」
と、別れが惜しくなった。
 帰路に着くまでの間、葵生は光塾に行ってみようかと思い立って、途中下車した。どこがどうといって違わぬ街並みなのに、駅前の本屋だとか店だとかが懐かしくて歩みもゆっくりになる。少し歩いて塾のあるビルの前に来ると、ここによく通っていた日のことが思い出されて、卒業式以上に切なく涙ぐんでしまう。
 迷ったけれど思い切って階段を上っていき、扉を押すと、受付も教室も何もかもが記憶と寸分違わぬ様子であるので嬉しく、自然と笑みが作られる。
受付の女性が葵生を見て、
 「ああ、もしかして夏苅くんじゃないですか」
と言うのは、やはり塾内では名の知られた存在だったからかもしれない。女性は奥で休んでいる講師を呼んできて、久し振りの恩師との対面となった。
その恩師が来るのを待っている間に、壁に貼ってある合格者の名前などを見て行くと、例の国立大学のところに真っ先に注目する。文学部のところで椿希と妥子の名前が並んであり、そのほか法学部と理学部にも一人ずつ合格者があったが、法学部の名前は誰か覚えがない。柊一の名前も別の大学の経済学部の欄にあり、見知った名前がそのあたりにちらほらとあるのを、ずっとここにいられなかったのが残念でならず、三年もの間仲間同士でいられた彼らを羨ましい思いで眺めていた。今年は受験者が元々少なかったのか、それとも合格者が少なかったのか、あまり国公立大学進学者は多くないようである。
私立大学となると、名前を探すのも大変なほどたくさん並んでいる。旅行で言っていたとおり、笙馬の名前を見つけたけれど、本人にとっては不本意な結果であったろうと思われ、受験会場にはやはり魔が潜んでいるのではという気がした。健闘したゆり子が、複数の大学から合格通知を受け取ったらしいことや、当然といった感じで妥子がいくつもの大学に合格していること、桔梗は私立大においては一つしか合格していなかったことなどが分かって、旅行のときには進学先しか話をすることがなかったので、それぞれの事情がようやく呑んで新たに思い巡らせることもあったようである。椿希は妥子とほとんど同じところを受験したようだったが、ひとつだけ芸術大学を受験していたらしく、そちらにも名前があったのが、彼女の歌を聴いたときのことが思い出されることだった。
もう塾生ではないのでと、教室ではなく奥の休憩室に通されてお茶を貰いながら、様々に塾のことや進学のことなどを話す。恩師とは授業だけの間の付き合いだったけれど、やはり世話になったという感謝の思いでは高校の恩師に勝るとも劣らず、やはりここで最後まで授業を受けたかったと、結果はどうあれそう思うのだった。
昔は冷めていて、何をするにも淡々とこなして深い感動も得ずに過ごしてきたのに、今ではちょっとした折に触れては感じ入ることが多く、切ない思いをすることも多くなった。それというのも、あの椿希に出会ってから少しずつ人柄が柔らかくなり、思い遣る気持ちやほかの人や物も自分と同じようなのだろうかと思うようになったからだろうかと、やはり出会ったのは何かの縁ではないかという気がしてならない。
「久しぶりに夏苅が来てくれたけど、惜しかったな、皆は昨日ここで祝賀会をしたんだよ。どうせなら誘えばよかったよな」
 講師も懐かしんで言う。本人にとってはまだまだ不満なところはたくさんあったけれど、五科目全て苦手科目と言えるものがなく、首席を維持し続けた稀な学生だっただけに、記憶にもいつまでも残りそうなだけに、一層そういう思いも募るのだろう。
 葵生もとりわけ恩師から目を掛けてもらっていたと分かっているので、その言葉をもらえただけでもありがたく感じる。
 「でも、僕は浪人することになりましたから。祝賀会なんて参加出来ませんよ」
 代わりに卒業旅行に呼んでもらえただけでも有難いものだと思った。
 「そうか。まあ、夏苅の行こうとしているところは現役じゃとても難しいからなあ、仕方ないな」
 未だ後悔の種となっている、あの月日の放蕩ぶりが結果として現役合格をさせてくれなかったのだと、やはり悔しくてならない。あの間をしっかり受験勉強に費やせていれば合格したであろうほどに、最後にはもう合格ラインまで成績が伸びて来ていただけに、あんな過ちは繰り返すまいと、改めて堅く誓った。
 「そういえばみんなのことですけど、相楽さんは流石ですね。法学部ではなく文学部というのも、彼女らしいし、余裕があったんじゃないですか」
 文系科目においては、妥子は確か非常に安定した成績を維持していたから、と葵生は思った。
 「そうだな、相楽なら法学部でもと思ったけど、国文学をやりたかったらしいからなあ。まあ、あの大学なら就職先にも困らないだろうから、こっちも反対はなかったんだけど勿体ないなと、講師同士で話をしていたな」
 いかにもその通り、と葵生は微笑む。
 「それにしても冬麻がよく頑張ったよ。英語が突出していたから外大を目指すのかと思いきや、夏苅や相楽と同じところだっていうしな。なんでだって聞いたら、『やっぱり将来のことを考えたら総合大学の方がいいと思うから』って言うんだよな。これには本当にこっちが恥ずかしい思いがしたよ。まだ高校生なのに就職のことまで考えてるとはね。それで本当にその通り、合格してしまうんだもんな。あの女学院コンビは凄かったよ、特に天王山を越えた頃からの集中力は見張るものがあった」
 学校では音大や芸大などを勧められていたといい、塾では外大と言われていた椿希が総合大学を選んだのが、そういう現実的なところからなのだと知って、やはりこの人の豊かでみやびやかな才は他の人とは違っていて、もしや自分に合わせて志望校を選んでくれたのではと、僅かではあっても思い驕っていたことを省みさせられて、またますます惚れてしまうのだった。
 他にも気になる塾生のことを訊ねては、懐かしく思いを馳せたのだとかいうが、取り立てて書いたところで無駄に長くなるだけなので省くことにする。しかし、一人一人の今後の進路のことが思い遣られて、自分一人で闘っていた一年を振り返りながら、孤独ばかりを強く感じていたけれど、やはりこういう仲間のいるのを感じていれば、眺める朝露への感じ方もまた異なっていたのかもしれない、などとしみじみと思った。


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