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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第76回   第二章 第十四話 【朝露】6
 まだ陽の長い季節ではなく、山間にあっては暗くなるのも早いのが街とは異なった趣である。まばらに芽生える若葉が、月の淡い光に照らされて影を伴ってほのかに見える。外の光も雪山の電灯のほかは民家の家のものばかりで寂しく思えるものの、忙しない日々を忘れさせてくれる長閑さも感じられる。山なのでこの小さな町は坂を上ったり下りたりして行き来するのだが、それもまた平面ばかりに慣れていると不便なようであるけれど、それがかえって非日常に触れて高揚した気持ちに拍車を掛け、一層旅の思い出になりそうである。温泉街ならではの外湯があちらこちらに点在していて、滞在中にいくつ巡ることが出来るだろうかと楽しみである。
 宿といっても小さな家を貸し切った状態で、主人は隣に自宅があることもあって付ききりで世話をしてくれるというわけではない。桔梗曰く、「学生なのだから安上がりにしようと思ったら、そういう風にするのが一番だと思った」とのことだが、確かにこんな気の置けない仲間たちで来ているのだから、あまり水を差すようなことをされるのは、たとえ客のために尽くすのが主人の役割とはいえ、このように放任にしてくれる方がありがたかった。
 「あまり騒ぎ過ぎたり汚したりしないよう、丁寧に器具は扱うこと、ということを、念を押されたからくれぐれも気を付けて欲しい。まあ、俺たち全員がそんなに馬鹿騒ぎをするように見えなかったからか、旦那さんもそれほど心配はしていないみたいだけど、一度晩に様子を見て外から鍵を掛けて出られないようになってしまうから、それまでに外湯巡りをするなり買い物をするなりしてくれ」
 晩御飯を食べ終わって一段落ついた塾生たちは、めいめい外湯に出掛けたり、あるいは早々に滑るのを切り上げて既に外湯に行っていた者は畳の上で寝転がりながらテレビを見たりして寛ぎ、誰も彼もが心は解き放たれのんびりとしている。
 葵生は桔梗や桂佑、笙馬らと共に外湯に行って、温泉に浸かりながら昼間の疲れを癒していたのだが、冷え切った体を熱い湯が芯までぬくめて、ああなんと心地良いことかと逆上せそうになるまで入っていた。驚いたのは、男女で分けられた入口から中に入るとすぐに脱衣場があり、その脱衣場の目の前に温泉があってお湯に浸かっている人たちがいたことであった。四人は初め恥ずかしくてやや躊躇していたけれど、そこは桔梗が先陣を切ったようであるが、それ以上詳しいことは伝わるはずもないし、下世話なことを書き連ねるのも見苦しいので控えたい。
 別の温泉に行っていた女子三人が店でお菓子やらジュースなどを買おうとしているのを見かけた。昔ながらの和風の木造の家の軒先に縁側がある駄菓子屋で、家の近くでは売っていない珍しいものがたくさん色とりどりに並んでいる。それらを、目を輝かせながら選び、決めあぐねている。キャンプ以来とも言えるありのままの姿で、いつもは万事控えめなゆり子でさえも、色々と抱え込んで欲しいものを主張しているのが微笑ましい。
 男子四人が合流したのに驚きながらも笑顔で椿希は迎え、
 「一緒に選んでくれる。私たちだけだと好みが偏ってしまうから」
と言いながら笙馬を手招きして呼び、何か耳打ちした。あまり見たことのない組み合わせに、葵生も桂佑も、おや、と思ったけれど桔梗が何も気に留めずに妥子と並んで選び始めたので、たまにはそういうこともあるのだろうかと、それぞれ豊富な菓子を目の前にして選び出していった。
 宿に戻ってみると、何人かが晩御飯の片付けを済ませて待っていた。全員が揃ったところで菓子や飲み物を出して、寛ぎながら談話会が始まった。夕食後それほど時間が経っているわけでもないのに、また食べ始めるなんていうことは大変珍しくて、たまにはこういう調子を外したことをするのも愉快である。大きな声を出して笑うことだってあまりないことだったし、家にいればだらしのないと叱られそうな行儀の悪いこともして、笑顔は尽きないようである。大学受験の結果はそれぞれ、笑った者泣いた者、もう一年賭ける者といるけれど、それでもこの塾生たちと、このようにゆっくり宿泊を伴って交わるのは最後かもしれないという名残は尽きず、滞在している数日の間だけは楽しい思い出ばかりを作っておきたいと、その話題は結果報告程度に留めて終えてしまった。
 初めのうちこそ冗談も飛んでいたのだが、やがて親しい者同士固まって話すようになると、今まで秘めていたことも徐々に語り合うようになってきて、笑い声も少しずつ控え目になっていった。
 笙馬は、二人の問題なので他人に知られるのは恥ずかしいけれど、どうしても兼ねてから相談していた桔梗や、事情を知っているらしい椿希にだけは立ち会ってもらって聞いて欲しかったので、妥子が別のところへ用にかこつけて行こうとするのを知りながらも、桔梗と椿希を呼び寄せて口を開いた。
 「僕と妥子のことについて、二人は、桔梗は僕からで椿希ちゃんは妥子から聞いて知っていたと思うけど、ここ一年の間は僕が妥子に負い目を感じることがあって、以前のような風に話せなくなっていたよね。それがどうしてなのか、ということを話したくて二人に来てもらったんだ」
 二人が神妙な顔をして互いに見合わせたのを見ると、笙馬はちらと葵生を見た。桂佑やゆり子のところで話しているけれど、まだ話し込むというところまで至っていないようなので、葵生も呼んでこちらに来てもらう。
 葵生も大方察していたことなのだが、あまり心得顔でいるのも不興を買うようなので、いつもの無表情で淡々と笙馬の話を聞いていた。
 妥子は笙馬が皆を集めて、真剣な顔で何か語りかけているので「もしや」と気になっていたが、入り込めそうもなく往生しているところへ、椿希が気付いて手招きした。それで妥子も加わったのだが、笙馬は変わらず話を続ける。
 話が進むうちに当事者である妥子の顔が曇り始めたのは、全くの初めてのことで、それほど動揺しているようには見えないけれど、心の中ではどれほどの思いが渦巻いていることだろう。じっと笙馬の言うことに耳を傾けながら、ひとつも口を挟むことがない。話は、笙馬の卒業後の進路のことになった。椿希は妥子の手を両手で挟んで擦っている。
 「知っての通り僕は妥子や椿希ちゃんと同じ国立大学が本命で、そこをもちろん受験したわけだけど、センター試験の地点で既に結果は悪くてもう見込みがなかった。それでも駄目で元々なのだからと、受けることにしたんだけど、私立の結果も芳しくなかったからやる気も失くしてしまった。でも、諦めるのも悔しいから、どうにか気力で受験日を迎えたんだ。それで、いざ当日受験してみると確かに手応えがあって、これはもしかしたらという気がしたんだ」
 皆、経験のあることなので想像するのも容易い。
 「今まで妥子との差ばかり考えていたこと、どうしても追いつけないもどかしさに苦しんだこと、不甲斐なくて自分を追い詰めていたこと、それが終わってみてようやく解き放たれた。私立も二つ合格していたから現役で進学出来るのは間違いなかったし、やるだけのことはやったからと、結果を待っていた。みんなも分かると思うけど、そうは思っていても発表の日が近づくにつれて緊張してくるわけで」
 桔梗はしきりに頷いている。
 「だんだんと不安が募ってきて、最悪の結果ばかり想像してしまって、そうしたら妥子はさぞかし上手く行ったんだろうと、妬ましくてならなかった。男の嫉妬はみっともないって、いつも思ってたのにな。それで結果のほどはというと、やっぱり不合格だった。覚悟してはいたものの、それでも少し希望があっただけにがっかりしたよ。結果を聞くのが怖くてなかなか連絡も出来なくて、妥子から報告があったならそのときに伝えようとしていたのに、なかなか電話もかかって来ない。分かっていた、妥子はきっと合格したから遠慮して掛けることが出来ないんだろうと。だけど、そんな気遣いこそが『どうせ合格しているわけがないんだから、そうってしておこう』と言われているような気がして、ますます腹が立ってきたんだ。妥子のせいじゃない。でも、きっと合格したであろう妥子のことを考えるのも、妥子が僕に優しいのも嫌になってきた」
 うっすらと涙を浮かべ、目を腫らしている笙馬は妥子を見詰めているが、本当に憎く思っているわけがなく、好きで堪らないのにこんな風に思ってしまったことを心からすまなく詫びようとしているのが見て取れて、桔梗もつられて切なそうに瞳を揺らしている。
 「一緒にいるのが、辛くなった。ずっと見上げているのが辛くなった。妥子は悪くない。僕の弱さが全て悪いんだけど、これ以上一緒にはいられない。一緒にいたら、どんどん卑屈になっていく。そんな自分を感じなくてはいけないのが耐えられなかった」
 人前で、別れた恋人を目の前に別れの理由を話すなんて聞いたことのない話だが、妥子はこんな風に笙馬が崖に追いやられるようなぎりぎりの精神状態でいただなんて思いもせず、今更になって気付かされて、自分こそ思いやりが足りなかったのではないかと心の中で悔い責めていた。あまり自分のことをひけらかすように話すのは笙馬の気を悪くするのではないか、励ましては自尊心に傷を付けまいか、という態度こそが腫れ物に触れるようで失礼なことをしていたと、こちらこそ詫びなければならないと、胸も潰れる思いでいる。
 「妥子、本当にごめん。こんなことをみんなの前で話すのは悪いと思ったけど、面と向って二人きりだと感情が先走ってとても冷静ではないだろうから、こんなことをしてしまったんだ。恨むのも当然だけど、僕は妥子が嫌いで仕方がなかったんじゃないから」
と、心を込めて言う声が震えていて、多くを語らずとも十分に伝わるものがあって、桔梗が大袈裟にもらい泣きして泣きじゃくっている。普段は表情を滅多に変えない葵生も、自分のことのように思えて胸が苦しくて俯き加減でいる。
 当人は辛くて悲しい話をして、こんな風に皆の心を盛り下げるつもりはなかったのだが、高校生活の最後に終わった一つの恋物語に、それぞれ胸を震わせていたのだった。

 どうやって解散になったのかは、呆然としていたからか定かではないけれど、いつの間にか買ってきた大量の菓子もほとんど食べ尽くし、あちらこちらにごみが散乱したまま居間で眠る者がいたり、部屋に戻って布団を敷いて眠っていたりして、昼間の疲れからか夜更けまで起きていた者はほとんどいなかった。
しんと静まり返った部屋に残って椿希が片付けをしているのを、宿の内風呂に入って物苦しい思いを流していた葵生が見つけた。
 「ありがとう。手伝うよ」
 葵生は首に巻き付けたタオルで一度頭をごしごしと拭き、ごみを拾い集めて袋に入れ纏めていく。
 「朝御飯を食べるのに、こんなに散らばっていたら、朝から片付けをしなくちゃいけないものね」
 こんなところもまた、ほかの女子とは違っているようで、自分の惚れた女性の心映えの素晴らしさを改めて嬉しく思う。あのような話の後だからこそ、一層そう思うのかもしれない。
 暖房の調子が悪いからと貸してもらったストーブがあったが、誰かが触ってみると動いたので使うことがなかった。それを元々あった三階にある物置部屋に持って行こうということになり、二人は一緒にそれを運んで上がった。重さよりも大きさから、とても一人では運べそうになかったので、
 「葵生くんがいてくれて助かったわ。ありがとう」
と、ストーブを部屋の奥に押し遣ってコードを紐で巻きつけてしまった。
 物置部屋は四帖ほどの広さの和室で、折り畳んだ机や予備の布団、毛布などが積んであり、物置に使っているだけのようである。入口が襖ではなく扉になっていて内側から鍵が掛けられるようになっている。もしかすると外側からも鍵が掛けられるのかもしれない。
 「好き合っていても別れは来る、か。なんだか切ないな」
 葵生が呟くと、ずっと妥子を支えていた椿希は、薄く微笑んで頷いた。
 「本当に、聞いているこちらまでが哀しくなったわ。笙馬くんの言うように、気持ち一つで続けることも出来たのかもしれない。それを言うのは容易いけど、少しずつ時間を掛けて気持ちが変わっていったものを急に元に戻すだなんて難しいことだもの」
 親友の恋の行方を誰にも増して幸せであるようにと祈り、楽しみにしていたのだから、椿希としても残念でひとかたならず辛く思っているのだった。そのときのことを思い出したのか、先程は耐えていた涙もはらりと頬を伝って零れ落ちるのが、たとえようもなく美しかった。葵生に涙を見せまいと背を向けて、指で目頭を押さえて拭うようにしている椿希の儚げな姿を見て、このような時でさえ膨らむ抑えがたい思いを募らせるのを、どうして咎めることが出来ようか。


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