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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第74回   第二章 第十四話 【朝露】4
 全ての大学の受験が終わって一段落し、長い春休みに入った椿希は、聖歌隊率いる教師からの誘いもあって、時々学校へ行っては練習に参加させてもらっていた。また、次のコンサートでは卒業生として参加するように頼みこまれて引き受けたのだから、練習も怠ることは出来ない。
 あとは国立大学の受験結果を待つのみであったのだが、このように穏やかな日々を過ごしているのは、本命が不合格だった場合に行きたいと思っている私立大学の試験に合格していて、浪人しないことが決まっていたからであろうか。椿希が浪人するようであれば、母親は家に残って世話をするつもりでいたのだが、現役で大学進学することになったので、四月からは転勤することになった父親と共に赴任先へ行くのだという。家は他人に借家として貸し、椿希は進学先の大学の近くに下宿することになった。そのため、椿希は昼間学校へ、夕方からは母親から料理を習っていて、休む暇もないけれど楽しそうである。
 冬麻の家がそういうことになっていると、長い年月家族ぐるみで懇意の間柄であった母親から聞いた藤悟は、母に急かされるようにして冬麻家に挨拶に訪れた。受験前は当然のこと、受験後も遠慮して長らく椿希にも会っていなかったし、良い機会だと思って椿希好みの菓子を、わざわざ遠回りして買って行ったのだった。椿希の受験結果も既に聞いて知っていたし、その祝いと誕生日の祝いも兼ねている。
 この瀟洒な家を、これからしばらくの間はもう訪れられないのかと思うと残念である。植えてあるこの沙羅の木も、幼い頃はまだ背丈も低く風に吹かれれば倒れてしまいそうな華奢なものだったのに、幹も太くなってゆらゆら揺れても丈夫になった。惜しい気持ちは尽きないけれど、それよりも早く会いたいと気も急くので、呼び鈴を鳴らした。
 出てきたのは幼馴染みの椿希であった。
 「いらっしゃい」
 藤悟はにっこり笑って、手に持っていた菓子を椿希に見せた。
 「ありがとう。長い間、そういう好きなものも断っていたから、久し振りですごく嬉しい」
 馴れ親しんだ間柄だからこそ、互いに気の置けない兄妹のように思って、語り合うことも様々にあるのだった。母親は藤悟のためと外出していなかったけれど、やがて戻って来たので藤悟の持ってきた洋菓子を三人で食べる。
 「随分遠くへ行ってしまわれるんですね。榊希も連れて行くんですか」
と訊ねるのも無遠慮なことではなく、藤悟はもはや家族のようなものだから、と母親は笑っている。
 「もちろん、榊希も連れていくわ。椿希に預けると心配だから」
と冗談めかして言う。
 紅茶の香りが部屋いっぱいに漂うので、コーヒーの香ばしいのは隠されてしまっている。光がいっぱいに差し込む居間から見える、よく手入れの施された庭には春を待つ花が並んでいて、これを他人の手に渡すのが惜しくてならない。家具は持っていくにせよ、庭の植木などは置いていくので、これを心ない者が枯らしてしまわないかと懸念されて、我が家ではないというのに寂しくてならない。
 「じゃあ、このグランドピアノは」
 部屋に存在感を示すこの漆黒の優美な楽器は、上品な家具や内装に相応しく居間の中央に置かれてあり、これこそ他人の手に渡るとなると残念で、どうなるのだろうと心配である。
 「これは私が弾きたいから持っていくことにしたわ。椿希には電子ピアノで我慢ということでね」
 藤悟は安心したように、顔を綻ばせた。
 「母さんったら、そのことで散々父さんを悩ませたんだからね。本当、私がこの家に残るつもりでいたのに、どうして下宿なんて」
と、不満げである。
 「だって椿希がこの家を全部見られるっていうの。庭の手入れだって大変で、いつもお父さんと私がやってきたんじゃない。時々はあなたも手伝ってくれたけど、一人じゃ出来ないでしょう」
 そう言われるともっともなことなので、椿希は苦笑した。分かっていたことなので、強情にここに残りたいというつもりもなかったし、何より一度下宿というものも経験してみたいと思っていたので、こんなやり取りも本気で言っているのではなかったのだった。
 「じゃあ、ピアノも当分見納めか」
と残念そうに呟くと、
 「椿希、最後にあの曲弾いてちょうだいよ」
と、母親が堰き立てる。椿希は困惑したように、
 「でも母さん、いつも私が練習しているの、聴いてるじゃない」
と言うけれど、背中を押して向かわせるので仕方なく腰を上げる。受験期間中は、気分転換程度に弾いていただけで、教室へも通わなくなってしまっていたので腕が落ちたのは明らかで、久し振りに練習のつもりで鍵盤に手を置いたとき、あれだけ軽やかに動いていたはずの指が重くなっていて、それからまだ日が経っていないので十分に動くはずもない。
 蓋を開けて布を取り去り、鍵盤に指を置く。黒鍵に左右の中指を置き、息を整えて奏でると、厳かな音が鳴り響く。曲は始まった。もはや止めるわけにはいかないが、少しゆっくりとした調子に変えて弾くと、それがかえって一つ一つの音に重みがあるようでゆかしく聴こえてくる。もちろん以前聴いたときの方が遥かに上手ではあったけれど、次にいつ、この曲をこの場所でこのグランドピアノで聴くことが出来るだろうと思うと、折も折だったので余計に切なく美しく感じられる。幼い頃より時々聴いていたピアノの音色。これからは、椿希は電子ピアノで弾くことになるということだけれど、それでも切ない思いは尽きず、思わず涙ぐみそうになる。
 演奏が終わってもなお心が震えて止まらず、言葉にならない。榊希は妹がこれほどピアノの腕が上達すると知っていただろうか、歌の才能があったことを知らなかったのだと思うと、抑えていた後悔や苦しさがまた胸に込み上げて来る。
 仏壇のあるところに写真が飾られていた。榊希と椿希、そして藤悟が映っている。家の前で染井の学生服を二人が着ていてあどけない顔をしている。椿希はまだ小学生で受験前だったはずだが、この頃はまだ頑是なくてとかくお転婆だったから、彼女のすることなすことに年長の二人が振り回されていたのが、いい思い出である。ただ藤悟に対しては少し恥ずかしそうにしていて我が儘も抑え、大人しくしているのを見て、榊希が自由奔放だった椿希に、
 「ほら、藤悟が見ているぞ」
と、笑いながら窘めていた。
 「ああ、忘れていたけれど、小母さん、椿希、成人式の写真です」
 成人式の写真を是非見せて欲しいと母親が言っていたのは、息子の姿を藤悟のそれに重ね合わせたかったからだろうと察し、出来るだけたくさんの写真を友人たちと写っているものも含めて持ってきたのを、二人は嬉しそうに眺めていたが、やがて微笑みながら涙ぐむ。
 藤悟ですら、出来あがったものを見て、ここに本来ならば榊希がいるはずなのだと思って切なくなったものだ。幼い頃の榊希と椿希は本当によく似ていて、椿希の今の容貌を見るにつけても、もし存命であればどれほどになっていただろうと想像するが、それすらも空しい。こういうときに思い出すのは葵生のことであるが、葵生と榊希を並べて見てみたいと出来もしないことを思い巡らすのは、両者を知る者だけの叶わぬ願いであった。
 それから少し語り合いながら、藤悟は家を出た。椿希はついでに料理の本を買うと言って、藤悟と一緒に家を出た。
 外はもう夕暮になり、西に見える山の端に陽が沈もうとしているのが、濃い橙色をしていてとても美しい。このような情趣ある風景をしみじみと眺めるのも、感傷に浸った時が長ければこそ一層哀れに心に訴えられるものがある。
 「椿希、本命の結果はまだだけど、大学合格おめでとう」
 母親がいるときにでも言えれば良かったのだが、それをなかなか言い出せなくて今更だけれどもようやく言えた。
 「ありがとう。もし合格したら、今度こそ藤悟くんの後輩になるのね。でもどうかな、自信なんて全然ないもの。もしかしたらと思うし、やっぱり駄目かもしれないとも思うし」
 太陽の陽を受けて陰影のはっきりした椿希の瓜実顔は、ますます大人びて見えて、高校卒業したら化粧をしたいと言っていたから、それが楽しみに思えて藤悟は微笑んだ。
 「後輩になってくれたら嬉しいけど、ならなくてもいつでも頼っていいからな。一人になったら何かと物入りなこともあるだろうし」
と言いながら、少し迷いもあったが、
 「葵生の奴はどうだろうな。あいつに連絡先を教えたのに少しも連絡を寄越さないんだから、薄情だよな。卒業式の頃にでもこちらから電話してやろうかと思うけどな、椿希、何か事情知らないか」
と言う。
 「生憎だけど、私も葵生くんのことは全く知らないの。だって、塾を辞めて予備校に通うようになったんだもの。だからどの大学を受験したかも知らないし、今どうしているのかも全く」
 藤悟は呆れたように溜め息を吐いた。椿希には何か伝えたのではと思ったけれど、塾を辞めた途端、どうやら好意を抱いていたらしい椿希にも何も連絡をしていないとは、さては自分の予想が違っていたかと思って、安堵したような憎らしいような気持ちもする。
 「まあ、それはそうとして、今度映画でも観に行かないか。久しぶりだろう、映画も。それともどこか遊園地でも」
と言って誘うのも、葵生の時と違ってやはり幼馴染みの気安さからだろうか、色めいた風には取れない。けれど、やはり男性と二人きりでどこかへ行くというのは、たとえ気の置けない間柄であろうとも慎重になるのは当然のことで、ましてや薄れかけていた葵生のことが先程の会話によって、目の前にいるのが単なる幼馴染みではなく、一人の男として認識してしまったので、返答に窮してしまう。
それに、葵生のことも蘇ってしまった。とはいえ、仮に葵生と同じ大学に通うことになったとしても学部が違えば、偶然出会うことは稀であろうし、連絡先など互いに知らぬまま別れてしまったのだから、今は悔いが残ってしまって気になっているけれど、年月が過ぎれば良い高校時代の思い出として残るに違いない。もし友人として巡り会うことがあれば、そういう付き合いをしようと決め、「それならば」と藤悟の誘いにも応じることにしたのだった。
 葵生のことは気にかかるし、今でもあの眼差しは忘れられないけれど、それも葵生といつでも連絡が出来て会えるような状況であればこそ、いつまでも心に留めて繰り返し思い出したいことである。葵生に出会ったことで学業面においては飛躍的に伸びたし、心情面においては初めて狂おしいまでの情熱を知ったことで、得たものは多かった。しかし葵生と別れねばならなかったのは、互いの成長のために必要だからではないか、これからは葵生の幸せを祈っていくことにしよう、と決めたのだった。

 妥子から葵生の携帯にメールが届いた。
 「葵生くん、久し振り。お元気ですか。こちらは相楽妥子です。大学入試の結果ももうすぐ出揃うけど、実は光塾の一部のメンバーで卒業旅行を計画しています。と言っても、高校生なのであんまり遠出は出来ないんだけど、近くのスキー場でまだ滑走出来るところがあるようなので、そちらへ行こうと考えています。幹事はもちろん桔梗くんで、私はただの連絡係。桔梗くんが『絶対に葵生も誘うように』と言っていたので、業務命令に従っています。本当は椿希にその役を譲りたかったんだけど、メールアドレスを知らないからと言って断られてしまいました。そういうわけなので、不服かもしれませんが私に返信ください。みんな、葵生くんのことを懐かしがって会いたいと言っています。是非」
 妥子らしい内容に笑みが零れる。妥子も携帯電話をとうとう買ったのか、知らないアドレスだったので登録をして、返信をする。
 「御無沙汰しています、姐御。こちらは暇を持て余して読書したりゲームしたりと、インドアな生活を過ごしています。みっともないところをお見せしたことは今でも恥ずかしく思う汚点だけれど、あれから夏頃に桔梗に喝を入れられ、心を入れ替えました。それで、旅行についてだけど、黙って辞めて行った人間を誘うなんてと思ったけど、桔梗が幹事なら参加します。宜しく」
 妥子から連絡があったということは椿希も参加するのだろうと、快く返事をする。今となってはただ彼女に会いたいのを耐えて来た日々が重すぎて堪らない。誰が来るのかということも気にせず、すぐにそんな風に返したのだから、送った後になってはたと気付いて、妥子に連絡を取ってみようとしたけれど、桔梗が幹事ということだし、妥子が来るなら笙馬もいるだろうと安心するのは、やはり椿希のこととなると後先も考えられなくなっているからなのであろう。
 その日の晩のうちに妥子から再度連絡があって、持ち物、費用等が伝えられた。旅行の日は受験結果が出た直後なので、不本意な結果が出て気落ちしていても行かねばならないということなのだが、桔梗の計画の荒が見えるようで、仕方ない奴だと、葵生は微笑みながら準備を進めた。
 母にも事情は説明したけれど、女子が混じっているということは伏せておいた。すると案の定最初は渋い顔をしていたけれど、
 「まあ、頑張ったことだし大目に見ることにしましょう。結果がどうあれ、本当に『朝露の見えるまで』よく起きて精進していたようだから」
と、いつもならば容赦なく反対するものを、思ったよりも簡単に認めてくれたので、葵生は不審がりながらも嬉しくて、「ありがとう」と言った。費用も貯金から捻出するつもりでいたのだが、母親が出してくれたので、ますます何事かあったのかと怪しく疑るのだけれど、ただ母親はここ半年の間は殊更熱心で口喧しく急き立てなくとも勉強に励んでいたのを知っていたので褒美のつもりだったのだ。
 なにはともあれ、旅行自体が久し振りであるし、ましてやスキーとなると中等部在学中に合宿で滑ったのが最後だから、あの頃の懐かしい思い出やはしゃぎ回ったことなどが思い出される。現地へ行って困ったことがあってはと、準備も一層念入りになるのだった。
何と言っても椿希と何か月ぶりかに再会出来るとなると、当日までは一日千秋の思いでいて、暇を持て余している。もうじき国立大学の前期日程の入試結果が出るというのに、それすらも葵生にとっては忘れかけていたことのようで、少しもその日を前にしても動じることはなかったのだった。


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