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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第73回   第二章 第十四話 【朝露】3
 復調したつもりだったが、最初で躓いたからかその日は今ひとつの手ごたえであったように思われる。朝からの滅多にない出来事や、なんとしても全科目で九割以上の正答率を上げなければならないと思い込んで自らを追い込んでいたこともあって、一日目は失敗だったと反省した。
 椿希はどうだったのだろう、と葵生は不意に思った。彼女も自分と同じ国立大学志望である以上、必ず受けているはずなのだ。あの寒い雪の中を彼女も、と思うとたった一人で闘っているのではないと気強くなれそうである。それまでは邪念を振り払うかのように、邁進してきたわけだけれど、彼女との約束を忘れたわけではないので、二日目こそはそういうつもりで乗り切らねばと、気持ちの切り替えも出来て、今度こそ本当に実力を発揮出来そうな風采である。
 試験二日目は曇り空ではあったが雪は降らずに済んだ。風情ありげに雪を見て楽しみたい気持ちは山々だが、受験生にとっては、余計なことに心を分けていられない。とはいえ、ここにきてようやく、少し余裕が出てきた様子にも見える。
 電車も遅れずに走り、大学へ向かう同じ立場の学生たちが、参考書や単語帳などを広げて最後の詰めをしている。当然葵生もその一人である。女学院の学生をそういえば一日目も見なかったが、学校の場所が染井と離れているので別の会場だからであろう、と思うと少し寂しいけれど、「離れたところで彼女も闘おうとしている」と言い聞かせながら、今度こそは全力で取り組もう、と強気である。
 試験を終えて帰るときの葵生の表情は、ようやく一つ目の山を乗り越えた安堵感で穏やかなものであった。だがそれも、自宅に帰ってからはすぐに正答率が気になって落ち着かなくなったのだけれど。そしてすぐさま本試験の勉強に休む間もなく取り掛かったのだった。

 翌朝の新聞を見て正答率を割り出してみると、自分の手ごたえに反して悪い結果であったことに落ち込んでしまったのは、あの笙馬である。茂孝や桔梗と一緒に試験会場へ行き、受験番号も近かったこともあって帰りも共にしたのだが、三人揃ってまずまずの出来と判断していたのだ。
 「まさか、こんなに悪いだなんて」
 顔は真っ青になってしまっている。担任教師に何度となく進路変更を勧められていたのを、強硬して国立大学進学のままにしてしまったのを今更ながら後悔し、こんなことなら詰らぬ意地など張るのではなかったと頭を抱え込んでしまった。お陰で、私立大学への受験対策は疎かになっていた。
 妥子はどうだったのだろう、彼女のことだからさぞかし立派な正答率で、今頃はひとまず抑えの私立大の勉強に励んでいる頃だろうと想像すると、負けじと張り合って勉強してきたというのに情けなくて仕方がない。朝露の見えるまで夜を徹して勉強したというのに、この様かと自分を罵りたくなる。
 「笙馬、出来はどうだった」
と、茂孝が聞くのも煩わしく、
 「まあ、それなりにはね」
と適当に答えておいたのだが、茂孝もそういえば妥子と同じく優秀な成績を保っていたのだと、友人の顔も見たくないほど憎らしく思えてくる。
 「俺もそれなりには出来ていたみたいだよ。だけど、思ったより英語が取れていなくてね、これだけが心配といえば心配で」
と、聞かれてもいないのに喋りだすのも傷心の笙馬にとってみれば、逃げ出したいことであろう。どうしてこんな人が同じ塾に通っているのかと、笙馬は恨めしい。こんなに意気消沈しているのにも茂孝は気付いていない様子で、
 「桔梗はかなりいい出来だったらしいよ。あいつは調子のいいときと悪いときの波が激しいけど、今回はすごく良いときだったらしいね。運のいい奴だ」
と、さらに追い打ちをかけるように言う。
 「ごめん。ちょっと先生に相談したいことがあるから」
 そう言って足早にその場を立ち去ったときには、笙馬の顔は蒼白で泣き出しそうになっていた。泣けば男らしくなく、こんなところを万一にでも妥子の耳に入っては格好の悪いことだと思って、顔を下に向けながら職員室へ向かった。
 職員室では今からでも願書を受験出来る大学はないか教えて欲しいと頭を下げる笙馬の姿があった。既に抑えとして私立大学のいくつかを受験するつもりで準備していたが、それも心許なくなって慌ててやって来たのだが、笙馬らしくない行動である。慎重に物事をよく考える方だというのに、と教師は思ったけれど、こういう学生は今までにも何人も見て来ているので冷静に諭し、宥めたようであるが、笙馬は一旦引き下がったものの、納得はいかないようである。
 私立大学の入試はもうあと数日で始まるというのに、最後の追い込みが出来ない。本命はあくまで国公立と定めていて私立を疎かにしていたので、悩んでいる暇などないはずなのだが、どうしても気が乗らない。今頃周りは脇目も振らずに邁進しているだろうに、呆れるばかりの様相である。
 今に始まった状態ではなく、もう三年生になってからずっとこの調子だから、妥子とは自然と疎遠になっていた。進級した当初こそ一緒に図書館や自習室などで勉強することはあったけれど、差はどんどん開くばかりであったので、共にしていることが苦痛と思うようになると徐々にその頻度も減っていった。それを妥子は当然のことと思って、何のことはない一時的に会話が減ったり、神経質になっているから弾まないことだってあるだろうとして、泰然とした様子で受験勉強に励んでいた。それがまた、笙馬としては妥子が物事に動じないのが面白くなく、また妬ましくて、次第に誰かのせいにしてはいるものの自分の気持ちに翻弄される日々がずっと続いていたのだった。
 私立大の中でも最も重要視していて、本命が不合格ならばこの大学へと思っていたところは、妥子も椿希も受験することになっていた。塾で久し振りに妥子に話しかけることにした。
 「今度の受験はどうする。どこで待ち合わせしようか。もし良ければ、椿希ちゃんも一緒に」
と言ったのは、妥子と二人きりだと気詰まりしてしまいそうだからである。もし上手く行っている仲であるならば、椿希のことは好感を持っているにせよ、自ら進んでは申し出ないことであろう。
 妥子は別段驚いた様子もなければ迷惑そうでもなく、にっこりとしながら、
 「そうね、じゃあ椿希とも相談してみるから少し待ってて」
と言って椿希のところへ向かう。妥子の以前と変わらぬ態度も、このような気の立っている時だからか、心の敏感なところに触れて苛々としてしまうが、本音を隠して穏やかに接することに慣れてしまっているからか、誰も笙馬の思いなど気付くはずもない。
 しばらくして、椿希と一緒に来た妥子が二人で決めた時間と場所を笙馬に告げた。
 「いよいよ受験だもんね、その前に私は一つ受けるところがあるんだけど、欲を言えば国立受験まで全勝しておきたいところね」
 そんな強気なことを言っても、全く根拠のない自信だと笑えないのがすごいと、素直に感心してしまう。妥子なら本当に全て合格しかねないと思って、それはそれでますます惨めな思いをするのではと、笙馬は忌々しくて唇を噛んだ。
 いくつか受ける私立大のうち、その中でも別格として見ている大学の受験の朝、気だるい感覚がして起きるのが面倒くさい。笙馬はそれでも真面目な性分から、怠け心が台頭しない。晩は受験前日だからと早めに寝たのだが、朝は気が張っていたのか随分早くに目が覚めてしまい、貴重な睡眠時間を侵されたとして気分はよろしくない。
 朝は霧がかっていて遠くに見えるはずの高層の建物や山などが全く見えず、屋根や葉などに霜が降りていてとても寒そうで、それだけで気も滅入りそうである。気力を振り絞って、最後の詰めにと、単語や暗記の確認などをしてみるけれど、頭は今ひとつすっきりせず、なんとも幸先の悪そうな一日の始まりだった。やはり妥子に声を掛けるのではなかった、きっと会ってしまえばまた僻む心が膨らんで、首尾良く行くはずのことが出来なくなってしまいかねないと、嘆いてばかりである。
 待ち合わせ場所へは時間よりも先に到着し、待っている間にまた本を開いて頭の整理をする。会社員が通り過ぎる中に混じって、受験生らしい忙しない様子でいる学生がいると、あれももしや自分の競争相手の一人なのだろうか、あれもこれも、と気が滅入りそうである。やるだけのことはやったはずなのに自信がなく、また同じ失敗を繰り返すのではと、そればかり考えてしまう。
 少しして椿希が来た。朝から少しも曇りない爽やかな風采で現れたのは、流石だと思う。
 「いよいよ私立の中では一番大事な試験だから、なんだか緊張しちゃうね。気が張って、昨日なんか横になっても頭の中を今まで解いた問題が次々に浮かんできて、なかなか寝付けないの。みんなそうだといいけれど」
 椿希がそう言うのが自分と同じで親しみを持てて、堅くなっていた表情や心が少しは解れたようである。
 「椿希ちゃんですらそうなら、少し安心したよ」
 思えば椿希とは、入学当初こそ成績はそう大して変わりはなかったものの、椿希が苦手科目を少しずつ克服して行ったのに対して、その対処が出来なかった笙馬とでは、今となっては明らかな差がついてしまっている。
 椿希がこのように不安を素直に言ってくれるのに対し、妥子はそういったことを一切話してくれなくて、それがためにこのように心に隔てが出来てしまったのだと、あれほど妥子への思いを募らせ尊敬もしていたというのに、その裏返しのように憎らしく思うのも、受験のために障りとなる欲を抑えねばならなかったからこそと思われる。
 妥子は遅れはしなかったが時間通りにやって来た。遅刻して迷惑を掛けたわけではないのだから、何のことはなく試験会場へも余裕を持って到着出来るのだが、一番遅れて来たということが、どうも笙馬には、今回の試験に自信があって不安などなく、慌てる必要がないからこそ時間に対して大らかなのだと、いつもの笙馬ならば考えもしないような意地の悪いことばかり考えついてしまう。それでも一切表情には出すことなく、ぎこちないけれど笑みを絶やさなかったのは、流石教師たちから気に入られる優等生なだけある。
 三人はそれから試験会場へ向かったのだが、同じ学部ではあっても学科が異なっていることもあって、教室はばらけてしまった。笙馬にはその方が好都合だったので、このときになってようやく解放されたような心地になった。あんなに好きだった妥子と一緒にいるのがこれほど苦痛だとは思いもせず、こんな醜い感情を引き摺るのもあと僅かだ、全てが終われば何もかも元通りになって、冷淡な振る舞いをしてしまったことを詫びなければと、律儀に考えるあたりはやはり優しく誠実な笙馬の性格なのである。

 それぞれの受験の話をすれば尽きないうえ、細かなところを逐一連ねて行くのは詰まらない内容が続いてしまうので簡単にせざるを得ないのは残念だけれど、やはり少なくともあの茉莉がどうなったのかは語らねばならないと思われるので、少しばかり書き留めておく。
 あの茉莉はつれない葵生の態度に、どんなに振り向かせようと努力しても少しも実らない冷淡さに、そういう人なのだから仕方ないと無理して諦めようとしたようである。葵生の好みにそぐわないとして薄くしていた化粧も、元通り眼の淵を黒々と塗って目を大きく見せるものに戻し、学校へ行く機会も少ないからと染髪して、色は小麦色に近くなっていた。そんな茉莉を、事情をよく呑めていないとはいえ自棄になっているようにしか見えないゆり子は、中学の頃から一緒にいたこともあって忠告したいこともあったけれど、聞く耳など持たないだろうし、何より今は友人に構っていられるほどの余裕などない受験生なのだから何も言わないでいる。
 内部進学をすると決めてからは、余所の大学を受験しようとしているゆり子とも疎遠になり、内容のない上辺だけの会話になってしまったのは、流石の茉莉も寂しく覚え、久し振りに、
 「最近どう、受験はもうじきだっけ」
と声を掛けたのだった。受験の話になると逃げるようであったり、いかにも不満そうな顔をしたりするので避けていたゆり子だったが、茉莉からそんな話があったので少し驚きながらも、
 「うん、もうじき」
と言葉少なに答えた。茉莉に遠慮してか、あまりつらつらと話しすぎるのも、と思ったのだろう。塾に長らく通っていない茉莉は、今どうなっているのか様子が分からないけれど、昔一緒に遊び呆けていて成績も真ん中より下あたりでいたゆり子が、こうして受験勉強に励んでいるあたり、互いに切磋琢磨し合ったのだろうと思うと、僅かではあるが塾に真面目に通っておけば良かったかもしれないという気もした。
 だが、贅沢をしすぎてもどうかと思うと友人たちに言って回っていたため、やはりその考えはあっさりと消えてしまった。
 「どこ受けるんだっけ。うちの四年制も外から受けようと思ったら十分に難しいのに、わざわざ他所を受けるんだから、余程自信がなきゃできないでしょ」
と言って、急かすようにする。
 「本命は女子大へ。でも私の成績じゃ少し難しくて」
と、抑え気味に言うのはやはり茉莉のことを慮ってのことである。それを聞いて茉莉は一気に心が掻き乱されるようで、やはり訊ねなければ良かったと口惜しくてならなくなった。今までならばそれを聞いて皮肉の一つでも返して自分の心を爽快にさせるのだけれど、
 「そう、頑張って。私にはよく分からないけど、あんたが選んだんだから最後まで頑張りな」
と、いつになく励ますような言葉が出たのは、今年になって物思いに耽ったり考え込むことが多くなって成長したためであろう。
 ゆり子が女子大学へ進学希望であるというのは、茉莉にしてみれば妬ましくも羨ましいことであった。受験するだけならば誰だって出来るけれども、記念受験ではなく本気で合格するつもりで勉強しているのが見て取れ、それほどまでにこの一年の間に努力してきたのかと、茉莉は悔しくて惨めな思いがする。
 考えてみればあの葵生も夏のあの日からは受験勉強に励みたいと言って、自分の元から去って行ったではないか。何故、独りになりたがるのか茉莉にはさっぱり理解が出来なかった。受験勉強ばかりにかまけることなく、適度に遊ぶことも必要ではないか、と思う。ゆり子も葵生も、どうしてそんなに必死なのか、遊ぶことが後ろ髪引かれる思いであるのならば、せめて電話程度すればいいのにと思う。いくら自分が内部進学希望だからといって、全く何もしなくていいというわけではなく条件は同じではないかと、やはり不服に思うことは多いのだった。
 ゆり子はそれから一週間ほど後に、第一志望の女子大学と、その他抑えにと思っていた学部学科、他大学などを順に受けて行った。その間は全く学校には登校しなかったので、今頃試験があるのだろうと茉莉は思っていたけれど、定期試験と同じ程度にしか考えていない茉莉にとっては、「まあ、駄目だったとしてもうちの四年制があるんだし」と、また大学でもゆり子と共に一緒になれることを期待しているのだった。


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