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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第72回   第二章 第十四話 【朝露】2
 水葵はひっそりと女の部屋で咲いていたのを敢えて男に告げなかったのは、もうこれきりきっぱりと別れようと思い切るつもりでいたからかもしれない。別れを告げた後の方が一層、あの少年を夫以上に思っているだけに哀しく切ないのだ。だが葵生の気持ちが少しもこちらに向いていないというのに、長くいればいるほど傷付き、他の女の影を気にしながら日々を嘆きながら暮らすことよりは、ずっとこちらを選ぶ方が自分たちの未来にとっては良い結果になるのだと、強いて思い込もうとしている。ただ、葵生の十八回目の誕生日には来てくれると思って、祝うために御馳走やちょっとしたプレゼントなども用意していたのが、当てが外れて何の連絡もなかったのだけが別れ以上に、ずっと心残りになりそうなことであった。
 泣くよりもただ苦しくて、その日は一日中横になって過ごしていたのだから、夫が珍しく早く帰宅したときに驚いて、
 「そんなに具合が悪いのなら、医者に診てもらった方がいい。今からでも付き添うから行こう」
と、今までの夫婦生活でも新婚のとき以来の優しさで、うろたえながらも女を気遣うのが皮肉なように思えて、女はますます体調が優れなくなるような気がしている。
 「ありがとう。あなたも疲れているでしょう。私のことはいいから、早く休んで」
 やつれて青ざめた様子ではあるけれど、いつもよりもずっと色っぽく、何一つ病気などしそうにない健康だけが取り柄のようであった妻が、額に汗をびっしょり掻いて喘いでいるのがゆかしく思え、夫は妻を抱きかかえて背中を擦っている。
 「どうしてそんなになるまで放っておいたんだ。頼むから病院へ行こう」
 妻は夫が電話をしている間、夫に背を向けて伏せるようにして涙を流した。申し訳なさと、今にして知った夫の愛情によって、その涙を拭う服の袖がしとどに濡れて止まらず、何かを考えることも出来ずに夫の言うことに従うほかなかったのだった。

 何か月もの間のつけはそう簡単に払えるものではなく、勘を取り戻すことは出来ても、なかなか本調子にはならない。自分が頑張っても同じ受験生は、夏の天王山の間に集中して熱心に取り組んで成績を上げてきているのだから、差は一向に縮まらない。
 かつての光塾において首席を維持し続けた葵生とても、追い上げても追い上げても良い結果がなかなか得られない。表向きは平然と落ち着きを払ってはいるけれど、国立大学受験まで、残すところあと数か月しかないことを思えば、今までの失った半年以上もの月日が呪わしくてならない。自分のしたこととはいえ、何故あのような愚かなことをしてしまったのか、しかもよりによって椿希のせいにするような思い込み方をしたのだから。
 柊一はそんな葵生を見ながら、ようやく精神の面においても以前のような強さを取り戻したようなので安堵している。未だに茂孝から「『染井の君』の状況を教えてくれないか」と聞かれることがあるので、そのときには流石に答えるのだが、
 「加賀といい勝負をするんじゃないかな」
という程度に留めて、受け流している。
 その一方で、葵生に覇気が見られるようになったこともあって、柊一は塾で起こっていることを登下校の折に少しずつ話すようになった。まだ葵生の周りには柊一のことを良く思わない友人たちがたくさんいて、また柊一としても気の合わないような性格であるので、周りの目を見計らってではあったが、そういう風に僅かでも塾のことを知ることが出来たのは、葵生にとっては大きな刺激になったのは間違いないようである。
 相変わらず英語に関しては椿希が一位であり続けているらしい。このことには葵生も笑みを漏らさずにはいられず、かつて彼女に追いつけ追い越せとばかりに励んでいた日々を思い出し、離れてはいても同じ模擬試験を受けているのだから、彼女がいるものとしてこれから伸ばしていかなければと思っている。また、国語や日本史などの文系教科が安定して素晴らしい水準を保てるようになったのも、葵生にしてみれば我がことのように嬉しい知らせであった。
 「悔しいけど、文系三科目では完全に僕は負けてしまったね。かろうじて五科目の成績では同じくらいのものだけど」
 葵生は椿希の話を聞くときは、いつも穏やかな顔をしている。
 「きっと、そのうち必ず五科目でも水を分けられる日が来るな」
と言うのは意地が悪いというものであろう。「そんなことを言うなんて、酷いことを言うものだな」と思いながらも、柊一も本当にそうなるような気がしているし、少し前までは考えられなかった冗談を言ってくれるのが嬉しくて、そんなことは綺麗に水に流すつもりでいる。
 「ただ少し気になることが」
 そう言って、言葉を詰まらせる。
 「彼女のことではなく、笙馬と相楽さんのことなんだけど」
 妥子のことは成績のことでたびたび話を聞いていたが、この二人が纏めて話題に上ることはなかったので、葵生は何のことを話すものかと思っている。この二人が交際中であることを知っているのは、おそらく椿希と葵生だけであろうから、「実はあの二人付き合っているらしいね」と言うような内容だろうかと思いながらも、さも興味ありげに柊一を見て言葉の続きを待っている。
 柊一はどう続けようかと言葉を探しながら、
 「どうやら笙馬が相楽さんに嫉妬しているらしくて」
と言った。これには流石に驚いて、
 「どういうこと。笙馬が嫉妬だなんて、何があったのか全く見当もつかないけど。あいつはそんな、他人を妬むような性格ではなかったと思うが」
 なかなか似合いの二人で、しっかり者の妥子と真面目で優等生な性質の笙馬とでは、釣り合いも取れているように思えたから、喧嘩でもしたのだろうか、そういうことなら長く付き合っていればたまには起きるだろうと、葵生は後学のためにも聞いておこうと興味深げに聞いている。
 「笙馬の成績が伸び悩んでいるらしくて。今に始まったことじゃなく、もう高校入ってからずっと低迷気味なのをなんとか努力してそれなりに保ってはきたものの、三年生になって浪人生たちと真っ向勝負になってからは、また少し落ちてしまったらしいんだ。にも拘らず、相楽さんは葵生も知っているように成績は優秀だろう。同じ文系同士ということもあって、余計に気にしてしまうみたいで。相楽さんよりも何倍も努力しているはずなのにって、常に優秀な相楽さんへの妬みが膨らんできているみたい」
 笙馬の悩みと自分の悩みとが重なるところもあって、葵生は考え込んでしまった。自分の場合、救いなのは、今は椿希とは違う予備校に通っていることと、文系理系とで異なることなどだろうか、と思うものの、やはり今だって椿希の様子は気になるし、あまり水を分けられていれば男の面子というものが立たないではないか。
 自分は自分と割り切れるほど鷹揚になれないのが、受験生という切羽詰まった身の上なのだから、笙馬のことを思って葵生も、どう答えればいいのか言葉が見つからない。
 受験とは合法な戦争である、というのを聞いたことがあるけれどまさしくその通りであるように思える。相手は全国各地にいて、その中には恋した人も含まれていて、お互い均衡を保てていればいいけれど優劣がはっきりとしてしまっていれば、その関係も危ぶまれてしまうことは確かにあるかもしれない。少し前に月下美人の女が話していたことを思い出して、葵生は険しい顔になった。
 ここのところ、やけに考えさせられるようなことばかり起きていて、そのうち女絡みのことは自分に非があって、自ら巻き込まれに行ったようなものだから当然なのだけれど、笙馬と妥子のことだけは自分に対しても、「何かを悟れ、気付け」と言われているような気がしてならない。今は、本当のところは電車の中の時間も、ほんのちょっとした空き時間でさえも勉強に費やしたい頃だというのに、考えなければならないような気がして、駅から家までの少しの短い間だけは思いを巡らせて、あれやこれやと自分が二の舞にならぬように慎重になっているのも、ひとえにあと数か月もすれば椿希にまた出会い、今度こそはもう逃げも隠れもせず彼女への思いを打ち明けようと定めているからにほかならなかった。

 家に帰れば食事と風呂を除けば、ひたすら自分の部屋に籠って机に向っている。よくもそれで途中で眠気が襲わないものだと思われるけれど、集中している間は無心になっているためか、たとえ椿希のことであっても考えられない。なんとしても医学部に合格することが最大の目的になっているのだから、迷いを生じさせるようなことは僅かであろうと耳にいれたくない。
 家では母親が葵生に気を遣って、物音ひとつ立てず、じっと息を潜めているのが息子の成功を一途に信じている健気さで哀れに思えるけれど、「何もそこまで」と帰省した姉が苦笑しながら窘めていた。
 「あなたも少しは考えてちょうだい。葵生が今大事な時期だと分かっているのに、必要もないのに実家に帰って来ないでちょうだい。大体、茜はもう夏苅ではなく常陸の家の嫁なのだから」
と、迷惑そうにしている。こういうことには何年も慣れているとはいえ、姉は、実家の若君の御為ならばなんだってするという母の愛が重苦しいように思える。姉が帰って来ても階下に降りて来ようともしない若君の御機嫌窺いにでもと、そっと部屋に入り込むと、ぴんと張り詰めた空気はまるでどこぞの研究室のように気軽に入ってはいけないようで、気軽に部屋の物に触れては雷が落ちそうな気がする。
 そのまま姉は弟に何も声を掛けずに部屋を出た。自分がそのように熱心に勉強をした覚えがなく、気軽な気持ちで短大に進学してしまったから理解出来ない部分はたくさんあるけれど、そうまで根を詰めなくても、自分自身がそうだったように、「何事もなるようになる、そういう風に世の中は出来ているのだから」と思うにつけても、この姉弟は正反対の性質であるようである。
 「葵生の良いところと私の良いところを足して二で割ったなら、学力は私が足を引っ張って劣るにしても、人柄は今の葵生よりは大らかで社交的になるだろうし、適度に息抜きが出来て打たれ強くなるんじゃないだろうか」
と、考えても詮無いことと知りながらも、中学受験のときにも思っていたことを再び蘇らせていた。
 「自分の子供が出来たら、葵生のように育てないようにしよう」
 そんなことを、新婚ながら考えている。
 葵生はこのところは二時間ほどしか睡眠は取れていない。肌に吹き出物が出て荒れたり、髪も碌に乾かさぬうちに勉強を再開させてしまうから癖毛も出て来たりしている。少しやつれたようではあるけれど、頬のあたりがすっきりとして、以前とはまた違った魅力を感じられるようである。ただ綺麗だの美人だのと言われていた頃よりもずっと精悍さを増し、繕っていたのを捨ててありのままでいる葵生は、かえって近寄りやすいようになっていた。
 学校では友人たちと変わらず楽しげに話をしている。それが息抜きとなっているから悲壮感で打ちのめされることもないのだろう。教室では、家と同じような調子なのだろう、熱心に暗記に励んだり問題集を解いたりしている者もいたけれど、葵生は学校では努めて明るく振舞い、よく笑っていた。そんな風にしていると、成績もまだまだ伸び代があるとはいえ少しは伸びてきたのだった。

 早朝目覚めてみると、寒さのあまり上着を羽織って窓を見ると結露が出来ていた。あんなに青々とした葉も色づいていたはずなのに、いつの間にか枯れ木になっているのが物悲しく見える。寒々しい風が吹いているのか、ざわざわと音が聞こえてくる。まだ暗い内なので辺りの景色ははっきりとは分からないものの、家の庭に露が灯りに照らされて仄かに輝いているのが、しみじみと寂しさを覚えて、ひとかたならず独りきりでいるのが自ずと彼女のことを思い出してしまう。
 朝露を見て、あれこそ表に出せない心の涙にほかならない、などと久方ぶりにしみじみと思って嘆息する。季節の移ろいゆくのにも目も呉れず過ごしてきていたのが、それは勿体ないことをしたと、残念そうである。
 受験が終わるまでは一切の誘惑を断ち切ろうとしていたのに、ほんのちょっとしたことで心が揺り動かされ、感傷に耽ってしまう。だが、この時期も時期なのですぐにはたと思い直して、また静かに机に向かっていくのだった。情趣だとかゆかしさだとかそういうことは、今は必要のないことなのだと割り切らねばならないのが心苦しいものだけれど、あとほんの少しの辛抱だからと言い聞かせ、励ましながら独りきりの世界に戻っていく。
 朝の光が差し込む頃には雪がちらちらと、まず初めに庭の土を目標に降下してきて、葉や家の屋根などを下から順に着地し、冬の世界に変えていく。枯れ枝に雪が積もったのが絵に描いたように端麗である。遠くで犬の鳴き声がしたかと思ったが、しばらくして飼い主が家に入れたのかそれも聞こえなくなった。
 そんな短時間の世界の変化にも、当然葵生は気付くはずもない。眺めていればきりのないほど深く心に感じる性質だからこそ、敢えて心を閉ざしているのだから。

 師走の頃になると、街は急に慌ただしくなる。人々は浮かれていたり仕事が山積みで疲れた顔をしていたりするけれど、年末から年始にかけては様々な行事が控えていることもあって、どことなく落ち着かない。
 それでも受験生にとってはそういった行事は無縁である。中にはお構いなしに街へ繰り出して遊びに興じる者もいるけれど、それはそれで良いのだが、おそらく大多数の受験生にとってはそれどころではないはずだから、心惹かれるものに惑わされぬようにせねばならない。とはいえ、街を彩る電飾が夜になると美しく光り輝くのだけは見惚れてしまう。一日くらいは息抜きをしても良いようだけれど、せっかくの良い調子を崩したくないと思えば、我慢するしかない。
 冬休みになると、ますます予備校に詰めてばかりになった。かつてのように直前に病気をするのが一番怖いので、感染症対策として予防接種を受けておいたけれど、不安は尽きない。どうしよう、このままで良いのだろうかと思ってばかりいてはいられないので、それも振り切るようにただひたすら勉強に励む。
 年末になると、その年は大掃除を行わず一日中部屋に籠り切りでいた。休憩はいつ取っているのかも分からない。部屋に入るのも申し訳なく、邪魔立てしては悪いと呼び掛けることもしない。父親が赴任先から帰って来たときには顔を出して少し会話したものの、また部屋に戻って集中力が途切れぬうちにまた勉強を再開させた。葵生の部屋はともかく、家の大掃除は十二月に入ってから母親が葵生のいないうちに少しずつ行っていたこともあって、新年は無事に迎えられそうであった。

 年が明ければ、いよいよ受験はもう目の前である。新年の挨拶に親戚の家への挨拶回りは、今年は葵生だけは遠慮し、両親だけが行った。家にはお節料理が用意されてあったので、時間になれば食事を摂って、後はひたすら勉強に時間を費やした。もうじきセンター試験もあるので、そちらの対策も行わねばならず、何かと忙しい時期だったようである。
 それから数週間後にはセンター試験があった。会場は自宅から約一時間半かかる大学であったのだが、その日は雪が降って電車が徐行運転していたこともあって肝を冷やしながらの到着であった。早めに家を出たのが幸いして試験時間には間に合ったものの、駅から大学に至るまでの間、あまりの猛威を揮った雪のせいで前が見えにくくなっていて、また地面が凍ってしまって、ある受験生が転倒してしまったのを見かけた。校門前だったこともあって、その受験生は係の者が見つけて介抱してもらっていたけれど、それにしても始まる前からあまりにも縁起の悪いことが重なるので、迷信など信じない性質であってもこういう気が張っている時には、ずっと後に尾を引くものである。
 異様なまでに心臓がどきどきと強く鼓動していて、とても落ち着くことが出来ない。鉛筆を持つ手が震え始め、問題用紙と解答用紙が配られて目の前にすると、時計の音すら聞こえない静寂の時が堪らなく緊張を煽り立てる。
問題を解くよう指示があって問題用紙を開けて読もうとしても、文字として認識が出来ても文章として読むことが出来ない。見えているのに読めないとはどういうことなのか、全く初めての経験である。何度も同じところを繰り返し読むが、やはりさっぱり頭に入って来ないので、先に解けそうなところはないかと何枚か先を捲ってみたが、どこを見ても同じであった。
鉛筆を置き、深呼吸して周りを見渡した。少々時間がかかってもいいから、逸る気持ちをなんとしても落ち着かせねばならない。何度も深く息を吸い吐きして、開始時間から十分ほど経って、ようやく再び問題を読み始めるとどうにか解けそうである。こうして、遅ればせながらやっと試験を始めたのだった。


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