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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第71回   第二章 第十四話 【朝露】1
 夏の終わりになって、葵生はようやくそれまでのように勉強の勘を取り戻したようで、やっと数学や生物、化学などの問題も昔のようにすらすら解くことが出来るようになってきたものの、世界史や英単語など、暗記しなければならないようなものは綺麗さっぱり忘れてしまっていて、これらはまだまだ元通りになるまでには時間がかかるようである。そう簡単に何もかも本調子に戻るわけがなく、簡単に成績が上がるなんて甘い考えであると分かっていたけれど、焦る気持ちは抑えきれそうになく、無理をして夜更けまでずっと勉強を続ける日々が続いていた。
 それはまるで人が変わったかのようであったけれど、それこそがかつて塾にいたときのような、淡々としていながらも陰での努力は凄まじいのではないかと噂された、『染井の君』としての姿そのものであり、遅ればせながらようやく本腰を入れて取り組むことが出来たのだった。
 そんなわけだから、あの月下美人の女のことも忘れがちになってしまっていて、決して疎かにしていたつもりはなかったけれど、いつか会わなければならないと思っていても後へ後へと引き延ばしになっていた。
 思い出したのは、茉莉から携帯電話に連絡があったことがきっかけだった。メールで、
 「もう一度会いたく思っています。長く時間は要らないので、会えませんか」
とあったのが、ただの文章だというのに茉莉にしては控えめで、何か物憂げな心持が伝わって来るので、
 「了解」
とだけ送ったものを返した。こんなに冷淡に扱われていても、なおも自分のことを慕ってくれているのは稀に見る一途さと思うけれど、茉莉に対しては恋の対象として見ることが一度も出来なかったのだから、そればかりはいかようにも出来ない。
 いつも会っていた喫茶店へ行くと、化粧気がなく、髪も本来の黒髪に戻した姿の茉莉が先に座って待っていた。葵生は、やはりこちらの方がさっぱりとしていて十代の少女らしく、ありのままの姿なので、「何故、人は飾り立てることに殊更熱心になるのか」と疑問が浮かぶ。
 「来てくれるとは思わなかったけど、来てくれてありがとう。すごく嬉しい」
 そう言う言葉も声も、やはり今までとは違っている。慎ましい雰囲気がどことなく椿希を思わせるけれど、やはり身に付いた人の性質は一朝一夕で変えられるものではなく、上辺には申し分ないようだけれど、表情や座った姿勢などがやはり彼女のそれとは随分かけ離れているように見受けられる。
 「用事は特にないけど、葵生くんが私に言いたいことがあるんじゃないかと思って」
 初めて茉莉が上手のことを言うので、葵生は心の用意が出来ておらず、内心では急にこのように大人びたようなことを言うようになったのに驚いていた。けれど、葵生ももう怖いものなど何一つないといった様子で泰然として咳払いをし、心を引き締めた。
 「もう、俺が思っていることは流石に察しているようだから、正直に話すことにする。俺はもう余計なことに迷わないで、これからしっかり受験勉強をして志望校を目指そうと思っている。だから、もう前みたいに夜中にふらふらと外を出歩くわけにはいかない。何より、将来がかかっているから」
と言った。こんなことを言われて平然でいられるわけがないだろうと思ったけれど、茉莉は表情ひとつ変えず、落ち着きを払った様子で、
 「でも本当はそれだけじゃないでしょ。正直に言ってくれていいのに」
と言うのが、いかにも覚悟しているようであるが、果たしてずばり思いのまま言うべきかと迷うのは、葵生がまだ十分に女を分かっていないからであろうか。塾を辞してから様々な女と出会い触れ合ったこともあったけれど、心と心を通わせるということだけは思い返せばほとんど未経験に近いので、まだ不得手なのも道理なのである。
 とはいえ、現実茉莉を目の前にして、「これ以上のことは関係のないことだ」と撥ね退けるのも、男として器量のないことと思われるし、未練をこれ以上残して欲しくなかったので、
 「俺が塾を辞めた理由は、皆に知らせてなかったから知らないのも当然なんだけど、俺は志望校に合格するために専門の予備校に通うことにしたんだから、さっき言ったことは何も嘘を吐いているわけじゃない。ふらふらと夜に高校生であるにも関わらずあちこちを歩き回っているだけでも、大人たちからすれば見咎められるようなことかもしれないのに、ましてや受験生という身分ならば控えるべきところを控えなかったのは、本当に自分自身馬鹿だったと思う。自分のことばかりで悪いが、俺は心底そう思っているから、これからは心を入れ替えてひたすら受験勉強に打ち込もうと思っている。周りの人たちのことを考えれば、付き合いのこともあるけれど、ここは自分本位になる方が得策だと考えた。これで離れて行く人間がいれば、それはそれまでの縁だったのだ、やむを得ないと考えることにする」
と、いつもよりも遥かに気を配って答える。
 葵生がそのように細やかに言ってくれるとは思いもしなかったので、茉莉はただそれだけで涙が込み上げてくるようで、ぐっと喉に力を込めて耐えている。気丈な様子の茉莉を見ていると、こんな事務的に言うのではなく、もっと優しい言葉を掛けてやれば良かっただろうかと悔やむこともあるのだが、実際にそのようにしてみればまた付き纏い、心悩ませるようなことも起こりはしないかと思って、葵生はどうすることも出来ない。泣くのを堪えてくれているのが、幸いである。
 「分かった。分かったけど、最後に聞かせて。葵生くんの志望はどこなのか」
 目を真っ赤に腫らしながら、茉莉は声を震わせている。そのことならば言っても差し支えないだろう、むしろ知ってもらった方がさっぱりと諦めてくれるだろうと思って、茉莉に告げると、更に増して茉莉は辛そうに哀しそうにする。
 それからは何を語り合ったのかも覚束ない。ほとんど会話もなかったようである。先に席を立った葵生に対して、
 「絶対合格してね」
と、絞り出すように言ったのが哀れであった。
 葵生は「分かった」とだけ言って、以前のような誰もが憧れた風采で秋風が吹き抜けるように去って行った。それを見送りながら、まるで取り残された枯れ木のような茉莉は初めて涙を零し、溜め息を吐いていたのだった。

 今日は予備校がなかったので、茉莉に呼び出されたのをいい機会として、その足で久しぶりに月下美人の女の元へと向かっていた。
 母親のようであった一回り以上も年長の女性は、年齢差を感じさせないほど幼く頼りないけれど、それがむしろ自分がいなければ萎れてしまうのではないかと思わせられて、離れていても情だけはあって、今頃はどうしているだろうかと思うこともあった。あの胡蝶の椿希さえいつでも会えるような状態であったならば、目にも留まらず出会うことのなかった人ではあろうけれど、こうなった不思議な縁もやがてしっくりと行くようであるので、夫に露見するようなことさえないならば、たまに会うような仲として続けていければという気持ちが芽生えてきていたのである。
 久し振りの来訪ではあったが、事前に連絡もしなかった。女は驚いた様子で、乱れた髪を慌てて手櫛で梳かしながら、顔を見られまいと俯き加減で中へ通す。葵生は、「それはいつものことなのに」と思いながらも、女が少しは身繕いしたいのだろうかと察して待っている。
 少しして、薄く化粧をした女は台所に来た。見れば、以前から肉付きは良かった方だけれど、見ないしばらくの間にもう少しふっくらとしている。
 「いつものようにコーヒーよね」
と確認すると、葵生は微笑みながら頷く。いつもの葵生ならば無表情で「ああ」と言うばかりなのを、何かあったのだろうかと女は訝しく思った。
 葵生は部屋の中やベランダにある、日向に出しておいた植物をぼんやりと眺めているが、その姿を久し振りに見た女は、やはり愛しいのはこの人だと改めて思って、胸が熱くなる。どんなに無愛想で無表情でも、時々優しく髪を撫でてくれることや体調を気遣ってくれること、言葉を選びながら話してくれることなどが、どれほど嬉しいことだったかと浮かんでくると、せめて似合う年頃であったならばと思わずにはいられない。そして何より、葵生とは不釣り合いなこの容姿が気がかりで、恥ずかしくて一緒に外を歩くことなど出来るはずもない。買い物に出れば恋人同士が肩寄せ合って歩き、笑顔で話をするのを見れば妬かずにはいられなかった。そうは出来ない不倫の仲なのだから当然だけれど、やましいことがなかったとしても、きっと傍目を気にして落ち着かない心地であろうと、女は嘆くばかりである。
 「水葵はもう咲き終えてしまったよ。残念だったね、見れなくて」
 そう言いながら女はコーヒーを持って来た。香りが部屋一杯に立ち込め、俄かに彼女と花火大会に行ったときのことが思い出され、葵生は胸の内で溜め息を吐いた。
 「呼んでくれれば良かったのに。それに月下美人だって。一夜しか咲かない花を楽しみにしていたのにな。珍しいものを見ることが出来たなら、詰らなく張り合いのない受験勉強の息抜きにいいだろうに」
 そうは言っても流石に夜は会えるはずがないと分かっているのだけれど、こんなこともすらすらと能弁に語れるとは、なんという変わりようかと我がことながら驚いてしまう。茉莉に冷たくしているつもりはなかったにせよ、思いやりが足りないのを、情が少しは多いこの女に対しては、罪滅ぼしのように細々と言葉を尽くすのは呆れたことではある。
 女は受験勉強という言葉が出て、やはり自分とは違う世界の人なのだと、先程まで舞い上がるような心地だったのが急に沈み込んでいくようである。いい年齢をして、まだ十代という若さのこの少年にこうまで惚れこんでしまって、しかし、かと言って止めようのない思いが向かっていく先が自分でも想像が出来ないのが恐ろしく思えた。いや、それ以上に葵生には話さなければならないこともあるけれど、話してしまえばこの輝ける未来を拓けるであろう人の芽を潰してしまいかねないと思って、躊躇いながらやはり口から先に出ていかない。
 茉莉も女も、今日はやけにいつになくしんみりとした様子でいて、恥ずかしそうに俯いているので、葵生は昔から実は二人共こういう女だったのではないかと、勘違いもしそうである。こういう時期もあるのだろうか、と思っていると、女が座りながらにじり寄って来て、葵生の肩に頭を付けて甘えてくる。
 「いつかはいつかはと思っていたことがあってね、それを聞いてほしくて」
 こういうときに突っ張る茉莉と比べて、やはり経験の差なのか、この女の方がしっとりとした色気を含ませながら話す。
 「年甲斐もなく葵生のことを本気で愛してしまって、葵生の気持ちも知らずに縛り付けてしまって、ずっと申し訳ないと思っていたんだ。葵生にはもっとお似合いの若くて可愛らしい子がたくさんいるのに、きっと葵生は私を、情けをかけるつもりでずっと会いに来てくれていたんだろうけど、それが私にはすごく嬉しくて幸せで、私はまだまだ若いんだと勘違いして誇りすら持つようになってしまったんだ。夢を見ているみたいだと思って、早く目を覚ませと別の自分が叫んでるのに耳も貸さず、もう何か月になっただろうね。だから、そろそろ葵生を解放してあげなくちゃ」
 目の前の色という色が消え失せるようであった。自分からいずれは切り出さねばならないと思っていた別れの言葉を言われてみると、こうも堪えるとはと、葵生は少なからず心に突風が吹き荒んだように落ち着かない。
 自分でも兼ねてから心積もりしていたこととはいえ、相手に言われてしまうと引き留めるような言葉しか思い浮かばないのは、身勝手なことかもしれない。
 「どうして突然そんなことを。旦那さんに気付かれてしまったとか。今までそんな素振りも会話もしなかったのに」
 そう言って、さも心にもないことのように振舞うのが、なんとも年の割に小憎たらしいと女は思うものの、それでも恨みきれないのはやはり惚れた弱みというものだろうか。
 「そうではないけれど、このままの関係を続けていれば、いつかきっと葵生は『こんな女と長く付き合ってきた』と後悔するだろうし、そういう風に思われて別れるのは、私にとってすごく辛いの。それに、私が気付かないとでも思っていたのかしら、葵生はいつだって私を見てはくれていなかった。私に唇を許すことは一度だってなかった。本当は誰か、心から恋しい人がいるんじゃないかと、ずっと気になっていた」
と、流石に包み隠さず言うので、ようやく鈍い葵生にも状況が掴めてきたのだった。茉莉も恐らくこういうことを言いたかったのだろうけれど、言ってしまえば取り乱すことは間違いなかっただろう。それを、努めて感情的にならないようにしているのは、まだ幼い同世代の異性では出来ないことであろうと、格別であるように思える。
 「そうまで分かっていて、どうして今まで俺を拒まなかった」
 本当は分かっていたけれど、葵生はそれでも訊ねずにはいられなかった。それを、女は惚れられた者の余裕であるように思えて、なんとも辛く遣り切れないような思いもするけれど、
 「葵生のことを、本当に好きになってしまったからよ。いいえ、愛してしまった。旦那よりも」
と、素直に打ち明ける。
 たとえ好意を持たない相手からであっても告白されるのは、まんざら悪い気もしない。ましてや情のある女からだとすれば、なおさらである。葵生は、「どうせならその言葉を椿希から」とこの期においても思ってしまうのだから、呆れた一方的な恋心というものである。
 それから女は「気分が悪いから」と言って、葵生に帰るよう促した。本当にそのようであると、隣の部屋に布団が敷いたまま、葵生が突然来たから起きたような名残が見えるので、もう少し居て、胸の収まらないのを話し尽くしたかったけれど、仕方なく退出する。
 「もう私に頼らないことね。いや、もしかしたら初めから私なんかなんとも思っちゃいなかったかもしれないけど、葵生の将来を潰すようなことだけはしたくないという私の気持ち、どうか分かってちょうだい」
と言って見送る女は、面やつれしてはいるものの、今まで付き合いのあった何人かの女たちと比べても、格別な情を注いだ人だけあって、名残惜しく思われる。
 駅へ向かいながら、軽んじていたわけではなかったけれど、椿希に比べては遥かに疎略にしていた女から受けた仕打ちが恨めしく辛く思えて、椿希と別れたあの胸の張り裂けるような痛みとはまた違って、葵生の心に夕焼けの頃のような暗い影を落とすようである。だが、そう思う反面少しは心に安らかなものが訪れつつあるのも感じているのだから、女の気持ちを思えば呆れるほど情の薄い間柄であったようにも見える。


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