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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第70回   第二章 第十三話 【茉莉花】5
 「葵生がそんな風に死んだ目をして虚ろな顔をしているなんて、誰が想像出来たと思う。お前は買いかぶりすぎだと反論するかもしれないが、お前はいつも淡々と冷静に先のことを考えて、何気ない振りをしながら実は陰で努力しているんだと、皆口々に言って噂して、尊敬していたんだぞ」
 勝手な想像だと反論も出来ない。
 「あの晩、お前が椿希と一緒にいたときにも嫌な予感がしていたんだ。だけど、あのときは連れがいたから引き止めて問い詰めることも出来なくて、椿希もそこにいることだから、あのまま言い争いになるのもどうかと思ってやめてしまったけれど、あのとき俺がもうちょっと厳しく言っておけば、お前は今の今までこうして引き摺ることもなかったんじゃないかと、俺もさっき考えていたんだ」
 桔梗がとっさの判断でそこまで考えていたことが意外で、葵生は物も言えない。あのときは何かに憑かれたかのように、考えがあって椿希の手を取っていたとは思えない夢うつつの中、甘美な気だるさを感じていた。それを思い出して、葵生はぞっとして体を震わせた。
 「あのとき、一緒にいた奴は誰。見たことがなかったけれど」
 桔梗は、少し唇を噛んだ。
 「あいつは葵生と入れ替わりに入って来た奴で、俺と同じ一高。笙馬が文系同士だからお互いよく知っていて仲いいみたいで、よく喋っているみたいだけど、俺はあまりよく知らない」
とだけ言って、それ以上は口を噤んだ。さてはその続きになにかあるのだろうかと思ったが、葵生は素知らぬ振りをして、
 「皆については悪いけれど、それはともかくとして、俺が自分のことを省みることなく、こんな風になってしまったのだから、桔梗にこうして隠れなく醜いところを見られてしまったのも、そういう運命だったのだろう。むしろ、桔梗に見つかったことで、これから良くなっていくものだと信じたい。恥ずかしい思いもしたけど、桔梗なら分かってくれるだろうと、怒られるかもしれないけど今は少し安心もしているんだ」
と言い出した。
 それから桔梗に語ったことは残念ながら詳しくは伝わっておらず、あまり書き出すことが出来そうもないので、省くことになってしまった。だが、桔梗は葵生の話を聞いて、いつになくしんみりと心も感じ入ってしまって、
 「まるでうちの親とは正反対だ」
と呟いたのだとか。
桔梗は余程衝撃を受けたのだろう、心底から何もかも優秀でなくて良かったと思わずにはいられなかった。時に生意気な妹と喧嘩することも、あまりにも所帯じみた母親も、話を聞いてからはこれこそがありふれているけれど自分の身の丈に合った幸せなのかもしれないとして、これからは少しは優しくしようかとも思うのだった。
 それからさらに細々と秘めた思いを語り合ったけれど、葵生も全く桔梗のことを信用していないわけではないにせよ、少しは隠したところもあったようである。
 眠る前に窓から外を眺めると雨は止んでいて月が雲に隠れているが、月のある辺りを覆う雲を仄かに明るくしているのが、全く清かな天候ではないのに風情ありげで、心に深く感じ入った話の後にはちょうど良く思われる。
 布団に潜ってしばらくすると桔梗の寝息が聞こえてきて、葵生は安心して目を閉じた。一人寝は慣れているのに、何故か明日から一人でまた眠るのが寂しくて堪らなくなるだろうと、俄かに切なさで体が震えた。

 やはり他人の家である緊張感からか、葵生は朝早く目が覚めた。時計を見ると、おそらく三時間ほどしか眠っていないけれど、考えてみれば受験前には睡眠時間はこれくらいになる学生だっているのに、今までは眠たくなれば早く寝てしまうこともあったので、随分短いように思える。
 また窓の外を見れば朝陽がほのぼのと明るく、夜で影になっていた隣の家がよく見え、軒先から雨の雫が落ちている。快晴とまではいかないが晴れていて、西の方角にまだ少し夜の名残が見られる。久しぶりに迎えた爽やかな朝で、近くの木や屋根に止まっているらしい小鳥のさえずりが聞こえ、珍しい趣を感じさせる。
 葵生は階下で物音がしたので、髪を手櫛で簡単に梳かしながら部屋を出た。まだ早朝だから物音を立てないよう、慎重に階段を降りる。自分の家に比べると小さく狭いのだが、それでも十分に満ち足りているように感じる。
 「おはよう」
 物音のした台所に行くと、寝間着姿の杏子が牛乳を飲んでいた。杏子は驚いて体を小さく震わせたが、恥ずかしそうに体を縮こませて振り向こうとしない。
 「おはようございます」
 微かに声が聞こえるのが初々しい。杏子は寝ぼけ眼を葵生に見られるのが気恥ずかしく、向こうへ行って欲しいような声を掛けられて嬉しいような、顔を真っ赤にさせるばかりでいる。
 「早いね。何か用事でもあるの」
 そう訊ねる声も兄のそれと違って妖しく、まだ夢でも見ているのではないかと思って、返す言葉も思い浮かばない。香水も何も付けていないであろうに、芳しい香りを嗅いだようにくらくらと足元も覚束なくなりそうである。
 「いえ、目が覚めてしまって」
 本当は夢に葵生が出て来て、甘い言葉を囁いて杏子を抱き締めたのだと、どうして言えよう。目が覚めて安堵した気持ちはすぐに切なさを伴って苦しくなった。これが現実ではないこと、現実にはとてもなりそうにないから。池に浮かぶ蓮は頼りないように見えて、何か物が落ちてきても受け止められるというのに、自分は突然の来訪者にこれほど心の中が、まるで嵐が吹きすさぶように掻き乱され、ひどいことになっている。本当は、杏子は葵生に構って欲しいし覚えて欲しいけれど、今のこの、ありのままを見られるのだけは耐えられそうもない。
 葵生は杏子が物怖じした様子を見て、この場にずっといるのは可哀想だと思って、
 「じゃあ、俺はもう一眠りさせてもらうよ。昨日は美味しいココアをどうもありがとう」
と言って階上に上がっていく。
 ああ、と引き留めようにも、まだ幼さが羞恥する心を一層掻き立て、声にすることが出来ない。杏子は胸を押さえて眼をきゅっと閉じ、葵生の優美でこのうえもなく艶やかなのにざわめく心の音に耳を傾けて、その場に座り込んでしまったのだった。

 それから葵生は昼前には帰って行ったのだが、杏子は玄関先まで見送ることも出来ず、ただ自分の部屋から家を去っていく葵生の後姿を見るばかりであった。染井の制服は学生服でなくても見栄えがして、葵生にはよく似合っていて惚れ惚れとする。みすみす葵生と向き合って接することが出来なかったのが残念で口惜しくてならない。
 「夏苅さんは彼女いるの」
 階上に上がってきた兄に聞くと、
 「彼女はいないけど、好きな人はいるよ。とても綺麗な人で、葵生と並んだら俺から見ても美男美女だと、溜め息も出てしまいそうなほどだもんなあ」
と、聞いてもいない余計なことまで教えてくれた。
 杏子はそれを聞いて、初めから見込みなどないと分かってはいたけれど、やはり寂しく遣る瀬無い思いだけはどうにも出来なくて、当分の間は心がすっかり沈み込んでしまったのだとか。
 こんな風に、葵生は知らずほかの女性を哀しませてしまっていたのだけれど、さてもっとも葵生によって哀しい思いをさせられていたのは誰だったのであろうか。


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