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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第7回   第一章 第二話 【光】1
 深い溜め息を吐いて、まるでこの世が終わったかのように歩くのは綾部笙馬で、それはこの暖かな陽気には全く不似合いな様子である。猫背の状態で、憔悴しきっているような姿は、一体何があったのか、余程衝撃的なことがあったのかと思いそうだが、実際のところは中間試験の結果が悪かったことに加えて、模擬試験の出来が悪かったためだった。
 試験ごときで悩まない、と豪語する友人もいたが、何分生真面目な性格の笙馬にとっては、『これごとき』のことであっても一大事なのだから、そうはいかず、こうして鬱々と悩んでいるのだ。

 そういえば光塾の面々の親は、多かれ少なかれ教育熱心であるらしい。塾内一の秀才の葵生の親のことを聞いて、秀才とはこうまでして作らなければならないものなのか、と思ってぞっとしたものだが、その葵生と同じ学校に通う柊一の親も、小学四年生の頃から学校と塾の送り迎えは当然あったというし、妥子や椿希も中学受験前は、とても遊んでいる暇なんてなかったと言っていたため、きっとそれが秀才となるうえでは当然のことなのだろう。
 秀才と天才は違う、というのを思い知ったのは本当に最近のことで、秀才とは努力なしにはなることが出来ないもので、天才とは天賦の才つまり予め兼ね備えた才能のことで、言ってみればこればかりはどうしようもない。だが、秀才には誰だってなり得る機会はあるということも言えると思うと、どう贔屓目に見ても自分がその部類に入らないことだけは確実だから、笙馬の悩みはとても尽きそうにない。
 笙馬は天才ではなくとも、秀才になれればどれだけ良いだろうと繰り返し思い続けている。ああ、この小学校の時にしっかり基礎を勉強しなかったつけだろうか、と今更になって笙馬は深く後悔した。小学生の頃は毎日が天国で、真っ黒に日焼けしながら太陽の光がさんさんと降り注ぐ中、朝から汗だく砂まみれになりながらサッカーや野球に励み、あちこちの皮膚を日焼けで真っ赤に腫らしながら虫を取ったりメダカを取ったり、さらさらと流れる透き通った綺麗な小川でサワガニやザリガニを取ったりしたものだった。お陰で常に腕や足には擦り傷が絶えず、保健室の常連となって教師を呆れさせていたものだ。今の小学生は到底そんな遊びはしていないだろう、と思うと貴重な経験をしたと自慢出来るとはいえ、あの頃あまりにも無邪気に遊びすぎたからか、読書する習慣を怠り、いつかはいつかはと思っているうちにその決意も延ばし延ばしになり、結果現在になって苦しむ羽目になった。
 「国語を馬鹿にしちゃいけないよな」
 そんな悩みを桔梗に言ったら、そういう回答をされてしまった。数学にしろ生物にしろ、何故か高校生になって急に小難しい言葉で問題を出すようになったのだから、まるで国語の試験のように真剣に問題を読まなくてはならないし、ましてや古文漢文なんてとても日本語とは思えないし、そもそも古文漢文を勉強する必要があるのだろうかとさえ思う。英語も直訳なら出来るのだが、意訳をするとなると語彙が少ないから小気味良い訳が引き出せない。
 「ああ、本当に国語って大事だと思うよ」
 笙馬は、またも盛大な溜め息を吐いた。別に中学受験をしたからといって国語が出来るようになるとは言わないが、あまりにも秀才たちとの差を感じてしまって、過去の自分を叱ってやりたい気分になるのだ。好きこそ物の上手なれと言うが、せめて現代文を好きになれたら古文漢文もそれなりにすらすらと頭に入ってくるものかもしれないが、こういうのも才能なのかも知れないと思うと、あまりに平凡すぎる自分が嫌になってくる。

 笙馬は過去を悔やみすぎる傾向があるが、決して昔から成績が悪かったわけではない。中学時代、定期試験は常に上位を維持し、周囲からの人望も厚く、生徒会の副会長まで務めたのだから、その活動振りたるや立派なものだった。
 生徒会副会長だった頃の笙馬が特に力を入れたことといえば、生徒からの要望が圧倒的に多かった通学鞄の自由化だった。教科書やノート、体操服などで重た過ぎるのは毎日の通学に不便だからと、通学鞄の自由化を申し入れ、教師として鞄の自由化はある程度認めるが何でも良いというものではなく、あくまでも学校に来ているのだということを忘れないようにといくつか条件を提示され、その両者の間に立って遣り取りを続け、折衷案をいくつも出したことだった。
 特に女子に多かったのだが、単にお洒落で可愛らしいデザインの鞄を持ちたいという理由だけで鞄の自由化を強く求める者もいたため、それでは自由化は受け入れてもらえないことを説得するのに随分と時間も力も費やしたものだった。教師も初めは黒または紺の、教科書やノートが十分に入るくらいの大きさのものに限ると言い張っていたのだが、それはなかなか難しいと、こちらへの説得も毎日放課後続けられた。
 板ばさみは辛い、と何度も生徒会役員たちは泣き言を言っていたが、それをどうにか両者の歩み寄りによって自由化に漕ぎつけられたときには感無量で、何人かは感動のあまり涙を流していたものだった。
 その生徒会での活躍ぶりは大いに評価され、実際の笙馬の成績もそれなりに良かったため内申点も申し分なく、そのお陰で県内トップクラスの公立高校に進学出来たのだ。
 笙馬は決して日向にいて目立つ性質ではなく、日陰でそっと支えてやる参謀的な役割が得意だったため、学生たちの間では地味な存在のように見られており、自分自身もそのように思っていたのだが、教師や学級委員、そして見る目のある学生たちは心の中では笙馬のような人物を、好ましく先々頼りになる人物だという評価を下していたのだった。
 このことからも分かるとおり、笙馬は自分について過小評価をするきらいがあるのだ。

 さて、成績のことについて話を元に戻すと、中学時代成績が良くても高校生になって突然落ちる者は珍しくない、とはかねてから聞いていたが、まさか自分がそうなるとは思っていなかった。
 公立高校ならば、その学校の学生といえば内申点の良い者は本番の試験においてやや有利となる。笙馬もその部類に入るのだが、中学時代の基礎的な部分に関してはそれなりに自信があったため、高校進学の時にはそれほど戦々恐々とすることなく臨むことが出来た。だが、いざ入学してみると、自分と同レベルかそれ以上の学生が多いのだから、それまで上位にいた者ですら下位転落という悲劇に遭うのも、考えれば理に適う話なのだ。そんなこと、理に適ってたまるか、と笙馬は思っていたのだが、自分がそういう立場になった今ではすっかり気弱になってしまい、揚々と掲げた旗も降ろさざるを得ないような、そんな心地悪さを感じていた。
 「どうすれば、国語が上がるんだよ」
 全体的に手ごたえの悪かった中間試験、特に国語はもう二度と解答用紙を見たくないほどの点数、平均点との差だった。何より論文が読めないのが災いして、試験範囲が分かっているのに、さっぱり筆者の意図が掴めず、ついでに出題者の意図も分からないため、もはやどうしようもない。中には学校の程度が高いのだから仕方ないじゃないかと慰める友人もいたが、自信を打ち砕かれた笙馬にとっては、そんなものも焼け石に水に等しかった。
 「出題の意図は慣れかな。あと、読書力がある人は論文であろうと、趣旨が掴めているんだと思う」
 独り言が漏れていたのか、妥子がそっと返事をしてくれた。その意見が今まで聞いていた気を遣ったような慰めではなかったこともあり、笙馬はそれを素直に聞き入れた。
 「やっぱり読書量か。今からでも間に合うかな」
 至極当たり前の答えだったが、他人に言われるとなんだか耳が痛くて堪らない。
 「そりゃ、一朝一夕には上がらないけど、続ければボディブローのように上がっていくと思うよ。勘を養うっていう意味で、やってみる価値はあるんじゃないかな。意識としては勉強のためというより、教養のためにやるのもいいんじゃない」
 そういえば妥子は国語と地理歴史が得意だと言っているだけあって光塾生の中でも文系科目に関しては妥子は常に上位にいるため、どことなく言葉に重みが感じられ、それは教師にとやかく言われるよりもずっと効果があるように思われた。
 「分かった。ちょっとずつ頑張ろうかな」
 「うん、そうだね」
 妥子が笑ってちらりと視線を外すと、桔梗、茉莉らと話す椿希を見やった。
 「椿希もね、実は国語が苦手で同じことで悩んでたんだ。あの子は元々本を読む子なんだよ。でも、不器用でなかなか成績に反映されなかったんだ。中学生の頃に国語の先生にアドバイスをもらって続けてみたら、ちょっとずつ良くなってきたみたいよ」
 目を細めながら妥子が椿希のことを話した様子は、まるで可愛い妹を見るようで、本当に心から椿希のことが好きなんだなと、笙馬は思った。その凛然とした容姿や明快な滑舌から、椿希が学校で『プリンス』と呼ばれる所以が分かると納得していただけに、妥子の椿希に対する見方や捉え方が他人と違うのに不思議な感覚がした。椿希もまた、口調や態度は他の塾生たちとは変わらないにしても、妥子に対しては心を許しているように見えた。
 「いいコンビだね、二人は」
 まるで姉妹のように見える二人を見ながら、笙馬は微笑ましく思いながら言った。
 「ありがとう。笙馬くんも、良かったら椿希のこと、もっと違う目でみてあげて欲しいな」
 優しい顔で笑う妥子を見て、キャンプの夜以来ずっとくすぶっていた、心の奥に目覚めた物の正体を、笙馬はこの日はっきりと自覚した。

 初夏の爽やかな日差しを浴びながら、きらきらと水面の輝く川を横に自転車を飛ばし、笙馬はフードを背中で揺らしながら図書館へ向かった。穏やかに吹く向かい風がとても心地良く、髪を靡かせ頬を撫でて行く。緑の芝生の中に建つ茶色の建物が見えると、笙馬は一刻も早く着きたいと、自転車の速度を上げた。
 築何年にもなるその図書館は、流石に休日ということもあり親子連れが多くて、児童書のコーナーには何人もの子供たちが何冊も本を取って重たそうに運んでいたり、母親のところへ持っていっては「これを読んで」と駄々をこねる子供もいたり、それはとても微笑ましく可愛らしい光景で、見る者の心を和ませる。
 小学生たちが児童向けに書かれた推理小説や伝記物語などを手に取り、真剣な顔つきであれこれ本を探しているのを見ると、ああ、こういうことを過去にやらなかったのが今の自分をつくってしまったのだと、つくづく悔やまれてならない。そのなかの一人の少女に妥子の面影に似た子がいて、あまりにもじっと見つめてしまったものだから、少女は不審がってさっと本棚を移動して笙馬の視界に入らないところへ隠れてしまった。ばつの悪い思いをした笙馬は、少し苦笑いを浮かべながらコーナーを移動したが、一体何の本を読もうとしていたのだろうと思うと、怪しませてしまったのがなんとも残念でならない。
 そもそも図書館に来ることが滅多になかった笙馬は、ほとんど初めてと言っても差し支えのないほどのこの場所を、味わうようにゆっくりと歩いて見回っていた。人の話す声が時折聞こえるとはいえ、図書館という場所柄人がたくさんいるというのにほとんど音がない、というのがとても不思議で、ここがまるで神聖な場所であるように感じられた。
 こういうところに妥子は普段よく通っているのだと思うと、妥子が今この館内のどこかにいるのではないかとどきどきして、周囲を見渡してしまう。しかしそういう偶然に巡り会うこともなく、笙馬はややがっかりしながらも、このことをねたに妥子とまた会話が出来るのではないかと思い直すと、本を探しにまた歩き出した。
 全く動機がこういうことで情けないと思うが、妥子と出会えたお陰で自分の運命が好転するのであれば良いではないかと、余計な自尊心などかなぐり捨ててやろうという気になる。育った環境が将来を左右するというのなら、出会った人間によって良い方向へ向かうというのもまた、あっても良いのではないかと思いながら、本を次から次へと手にとってあらすじを読み始めたのだった。


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