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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第69回   第二章 第十三話 【茉莉花】4
 葵生は、自分は約束もなく成り行きで来たのだから先に使うように、と何度も桔梗に風呂場を使うのを先に譲ろうとしたけれど、桔梗や母親が揃って、
 「来客なんだから、先に入るように」
と責め立てるので、あまり遠慮しすぎるとかえって失礼になると思い、甘えることにした。
 風呂場へ行き、桔梗の母が焚き直してくれた湯船に浸かりながら、心を落ち着けて色々と考えた。桔梗に偶然あのようにして出会ったときには不味いことになったと思ったものだが、こうしてゆっくりと思い巡らせてみれば、再会出来たことで苦しみの螺旋からようよう抜け出せるような気がする。怒涛のように全身を浴びせかけた雨が、まるで葵生の心を見透かしたかのように、あらゆる迷いや浅ましく否定的な考えを削ぎ落とさんばかりであったことなどを思うと、何かに護られ導かれているような気がして、ぞっとすることもあったのだった。
 桔梗ではなく、椿希に出会っていたのならば、とも電車の中で思っていたが、纏まった考えからすると、椿希にあのような見苦しい有様を見せ、嫌われずに済んだこともまた運が良かったのだと、そっと嘆息した。
 それにしても不思議なこともあるものだ。もう淵に追いやられ、あとひと押しがあれば転落したであろうに、寸でのところで救われたことが奇妙でならない。だが、今は素直に自分が目を醒ますことが出来そうなのを喜ぼうと、努めて葵生は思っていた。
 髪も洗って風呂場から出たところで、偶然出会った少女が顔を赤らめて俯いた。そこへ支度を終えて風呂場に入れ違いに行こうとしていた桔梗がやって来て、
 「葵生、これが俺の妹」
と言って紹介した。なるほど、桔梗の妹らしく兄に似て、背丈は高く、体格も線がしっかりとしていて見るからに健康的な明るさを感じられた。椿希と並べたら、もしかすると妹の方が長身なのではないかと見える。見た目は男に負けない長身と思えたが、実際隣に並ぶと思ってほどでなく、訊ねると男性の平均には届いていなかったことに驚いたものだった。対して、こちらは間違いなく成人男性の平均を超えていることだろう。
 「はじめまして、夏苅葵生といいます。今晩、急に来てしまってごめんなさい」
 さては風呂上がりの姿に緊張しているのだな、と察したので、声遣いも柔らかく言った。
 「杏子です、兄がお世話になっています」
と、恥ずかしそうに言うのが初々しい。俯いていた顔を上げたので、ようやく顔を見ることが出来た。なるほど、目元や口元が確かに桔梗に似ているけれど、さすがに女の子らしく頬のあたりが少しふっくらとしており、愛嬌があって可愛らしい。
 「葵生、母さんが呼んでいたから相手してやってくれないか」
 桔梗が言った。
 「お前みたいな男前と話すのが楽しみで仕方ないんだって。悪いな、宿泊代だと思ってなんとかしてやってくれよ。さっきから喧しいんだ、物凄く興奮していてさ。杏子、葵生を連れて行ってやってくれ」
 毎日女性陣に悩ましく振り回されているらしく、申し訳なさそうに言う。桔梗の家でもそうなのか、と葵生も苦笑いして「了解」と言った。桔梗も、先程の剣幕からは随分と穏やかになり、薄く微笑んでいる。
 桔梗に頼まれたのもあるが、突然夜になって家に来て風呂場を借り泊めてもらうのだから、当然のことだと、杏子の後をついて行った。
 促されるまま椅子に座る。食卓は四人分の席があり、そこから見える台所と冷蔵庫のあたりが狭くて、来客のために菓子や軽食を用意しようと動きまわっているのを見ると、不便ではないかと見える。冷蔵庫の壁面に紙を貼り付けて、家族全員の予定が分かるようにしてあるのだとか、出窓のところに立てかけてある家族写真が飾られているのだとか、とても珍しく思えて葵生は失礼にならないよう気を配りながら見回していた。
 雑然としているけれど、それがかえって葵生には安らげるような気がして、杏子が顔を赤らめながら持って来てくれたココアを飲んだ。『白河の清きに魚も棲みかねて』の狂歌を思い出したが、『元の濁り』とするところがないことが、なんとも息苦しいものだと葵生は思った。こうまで高みを目指すこともなく、自分も含めて光塾で出会った友人たちと笑い合い、砕けた話をしながら、楽しい高校生活を過ごしたかったと、知らず追い詰められていたことに今更になって気付いた。
 「夏苅くんの制服は、桔梗のと一緒に乾かしているところだからね」
 桔梗の母は煎餅を皿に乗せて持ってきた。
 「母さん、ココアに煎餅は合わないよ。クッキーはないの」
と、杏子が言う。
 「あいにくクッキーはなくてねえ、煎餅しかなくて。大体、あんたが勝手にココアを作って持っていったんでしょう。夏苅くん、ごめんなさいね。今、お茶を用意するから」
 杏子はぶう、と顔を膨らませながら、ココアを飲んだ。ちらちらと葵生を横目で見て、葵生とふと目が合うと慌てて目を逸らす。
 「ありがとう、俺もココアは大好きだから」
 まだ十分に髪の乾かぬ葵生は何も身につけていないのに良い香りが漂うようで、あっという間に靡いていきそうである。桔梗の部屋着を着ているのに言いようもなく艶っぽく、同じ年頃の異性にこのような男を感じるような者はいないからこそ、杏子は夢心地で恥ずかしく、しかしもっと一緒にいたくてもじもじとさせながら、いつもよりもしっとりとした様子で座っている。
 「夏苅くんは桔梗と同じ塾なのよね。話は前から色々と聞かせてもらっていたけど、なんでも首席を逃したことがなかったんだとか。まるで英雄のようだ、とか言っていたものよ。認めたくないかもしれないけど、桔梗は夏苅くんのファンなんじゃないかしら」
 葵生はそれを言われ、少し顔を赤らめた。桔梗はどうやら葵生が塾を辞めたことを伝えていないらしく、興味深げにこちらを見ているので、ここは桔梗の話に合わせようかと思って微笑みを湛えながら言った。
 「桔梗君にはお世話になっています。彼は僕にとって良いライバルなので、いい刺激をもらっています」
 そう言うのが、まだ十七とは思えないほどしっかりした声色で落ち着きを払っていて、目線も母親の顔を見詰めるので、母親は息子と同い年の目の前の男を見て、心が惹かれそうになるのを感じていた。また、葵生の隣に座っている杏子も兄にはない精悍さと色っぽさに、この人が兄だったらと思ったけれど、本当に家にいたらさぞかし落ち着かないだろうと、もぞもぞとしている。
 葵生はこの妹がしおらしく恥ずかしそうにしているのが、どことなく光塾の甲斐ゆり子を思わせるようで、そう思えば親しみも湧くようであった。
 「妹さんがいるとは知りませんでした」
と、下心などないように言うと、とても答えられそうにない杏子に代わって母親が、
 「まあ、お喋りな桔梗が言わないなんて意外だわ。あの子は女の子のように昔からぺらぺらと、あちこちで話しまくるものだから、私も気が気でなかったのに」
と呆れたように言う。
 「きっと恥ずかしいんですよ、家族のことを話すのは。僕も年の離れた姉がいますけど、そのことをほかの誰かに聞かれなければ話しませんから」
 勧められた煎餅を小さく割り、口に入れた。ぱりぱりと良い音がして、香ばしい香りが漂う。醤油の味が口いっぱいに広がり、もう何年ぶりかに食べた煎餅がこんなに美味しいものだったかと、葵生は内心驚いていた。
 そうこうしているうちに桔梗が出てきて、食卓で三人が談話しているのを見て、
 「母さん、随分庶民的なものを出したんだな」
と、溜め息を吐きながら呆れたように言った。母親が息子の言葉に何か言っている間に、葵生は椅子から立ち上がった。すると杏子がはっと顔を上げて去ろうとする葵生を、何か言いたげに見つめている。葵生は見下ろして、ふっと微笑みながら、
 「ココア、御馳走様。とても美味しかった」
と小さく言った。杏子はもう顔から熱を引かせることが出来ず、真っ赤のまま自分の部屋へ戻って行った。桔梗は何があったのかと訝しがりながらも、葵生に部屋へ行こうと誘った。葵生は母親にも、
 「御馳走様でした」
と言って軽く頭を下げた。そうして桔梗と共に階上の桔梗の部屋へ行った。
 葵生が去った後、母親は片付けをしながら、あのように礼儀正しく愛想のいい、爽やかな少年もいるものだ、桔梗もあのように育てれば良かったと思い、葵生のことをすっかり気に入ってしまっていた。そのことを「桔梗にも言い聞かせなければ」というけれど、おそらく他人から見れば桔梗の方が遥かに社交的で親しみやすく、明るい印象を持たれるであろうに、隣の芝生は青いというように、他人は身内よりも優れているように見えてしまうようであった。

 桔梗の部屋も、やはり雑然としていて、床にノートやルーズリーフなどが散乱し、どこに何があるか、これでよく分かるものだと呆れながらも感心してしまう。壁に今流行りの芸能人のポスターが貼ってあって、それが今風の桔梗らしい。
 紙や衣服などを掻き分けて寝床をひとまず作り、その上に二人が向き合って座った。こうなってようやく、今まで和んでいた心が俄かに冷静でぴりっとしたものに変わり、葵生は居住まいを正した。
 「それで、椿希が入院していたって」
 葵生は静かに言った。ずっと引っかかっていたことのうち、最も気になっていたことだったので、桔梗に言われるより先にと思っていた。
 「ああ、それについてだけど、椿希はどうやら随分前から調子が悪かったんだとか。それを妥子にだけは伝えていたらしいけど、妥子も気を遣ってか皆にはずっと伏せていたらしいから、入院期間中もさも大したことないように言って回っていたんだ。本当の椿希の容体を詳しく知っていたのは、俺と妥子、それから椿希の幼馴染だという人だけだとか」
と、思い出しながら言ったのか、妥子がなかなか教えてくれなかったことや椿希がずっと隠していたことを、口惜しそうにしている。
 葵生は椿希の事情を少しは知っていて、しかも彼女の初期症状をはっきりとその目で見たのだから、あのときの嫌な感じがしたのはやはりそういう結果に結びついてしまったのか、と地下街では慌てふためいて惑乱したものが、冷静になって考えれば胸も潰れるような思いがするものの、もっと詳しく知らなければと気も強くなる。幼馴染の人というのは、おそらく藤悟のことだろうかと考えた。
 「それで病名は聞いたの」
 桔梗は少し間を置き、考えながら、
 「名前はとても聞いたことのないもので、難しくて覚えきれていないんだ。なんだっただろう」
と、どうにか思い出そうとしている。それにしても思いを寄せる相手の病名すら覚えていないとは、なんという浅ましいことか。これでは桔梗が、いくら椿希が靡かないと嘆こうとも、無理からぬことではないか。そのことは妥子に後で聞いてみようと、葵生はひとまず思って、
 「何か月ぐらい、どれくらい入院していたんだろう」
と言うと、桔梗は、
 「ちょうど春休みの期間の、確か二ヵ月ほどだったと思う。良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、退院の時期を見計らっていたらしい。受験勉強が出来るほど良くなっていたから、きっともうじき退院なんだろうと思ってたけど、なかなか出してもらえなかったらしくて。妥子が言うには、本当はもっと入院が長引く人もいて、半年もかかる人だっているのに比べればすごく幸運だとか」
と言った。
葵生としては物足りない説明だったけれど、自分がみっともない態を曝け出してしまっている以上、しつこく聞くのもどうかと思い、やはり思い切って妥子から話を聞かせてもらうことにしようと決めた。それにしても、呆れるほど皆は揃いも揃って椿希のことを隠していたのだなと、今から思えば見事に騙されたものである。柊一も彼女は元気でやっていると言った。妥子にも今年会って、今よりももっと無様でだらしのない格好を見られていたのに、入院のことは一言も聞かなかった。おそらく、その頃はちょうど椿希が大変な時期だったのではないか。
 そう思ったが、そのことを恨めしく桔梗に言ったところであまり意味がないであろう。大方妥子が緘口令を敷いたのだろうから。
 「それじゃあ、ここからは俺が葵生に尋問させてもらう」
と、威儀を正して桔梗が言った。前にもこんな場面があった、と葵生は思った。つくづくここ半年の自分は誰から見ても愚かな人間だったからこそ、またもこうなってしまったのだと、我がことながら馬鹿な奴だと、忌々しく思うのだった。


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