夜も遅くに家に帰るとすぐ、茉莉は自室に籠って制服を着替えることもせず、膝を抱えてすすり泣いた。投げ出した革鞄の中で震えている携帯電話の音が騒音のようで、とても確認する気にはなれない。葵生からの連絡だったとしたら、なおさら今は取りたくなかった。 どうやって帰って来たのかも判然とせず、電車に乗ったのも朧げに記憶にあるのみである。ただやけに街灯が目に眩しく、通り過ぎる人たちに滲んだ目元を人に見られやしないかと、恥ずかしい思いも抱えていたのだった。 もし、光塾に椿希がいなければ葵生は自分に振り向いてくれていただろうか、もう少し自分が賢く美人だったならどうだろう、などと考える。考えるまでもないことだと分かっていても、自分を選んでくれているだろうと思い込みたかった。現実を直視するのが怖くて、夢をもう少しの間でいいから見ていたかったと、体を震わせながら、僅かの期間葵生と過ごし語り合ったことを思い返した。 こんなことをどれほど思い募らせても、葵生は今頃ただ別の一人の女のことを思っているのだろう。どう足掻いても自分は彼女には勝てないのだろうかと、悔しいけれど彼女のことを憎く妬む気持ちも起きないのが不思議だった。勝てないところが一つもない、ということはないはずなのに、少しも見当たらないのだ。いや、見つからなくてもいいとさえどこかで思っている。 いくらか時が過ぎて心が落ち着いたので時計を見ると、針はもう十二時を指している。とりあえず化粧を落として鏡を見ると、泣き腫らした目と艶のない乾いた肌が映っていて、なんて醜いのだろうと目を逸らした。いや、こうして見ると何より肌が荒れているのだ。かさついていたり脂ぎっていたり、化粧をしていなければ実年齢よりも老けて見えるこの顔が憎くて堪らない。顔に指を這わせ、にきびの数を数えたり、化粧で隠れていたそばかすをなぞったりしながら、椿希はこうではないと思い浮かべた。 そういえば彼女は化粧などしていなかったと思う。元々色白で欧米の血が混じっているのではと言われるほど、目がぱっちりとしていて鼻筋の通った異国的な顔立ちのだが、一つ一つの作りは決して欧米人のように華やかではなく、むしろ東洋的とでも言うような繊細なものだった。肌は陶器のように肌理細やかで、女として見ても惚れ惚れするほどだった。 顔立ちのことを考えれば、茉莉だって少し細長い目ではあるものの全体として調和がとれていて、どこといって卑下する必要などないように思われるのだが、何事につけても自嘲せずにはいられない性質だからこそ、ほんのちょっとした椿希の優れた点を見つけては自分をいじめ抜くのであった。 明日からのことを思うと、些細な視線や言葉でさえも大層なことのように捉えてしまう性質だから、とても気が重い。友人たちの何気なく悪気のない言葉でさえも、まるであったことを見透かしたかのように言われるのではと気が気でなく、またあのときのように息が詰まって苦しくなり始めた。 適当な大きさの紙袋が見当たらず、探している余裕もなかったので、枕に顔を突っ伏して息を整えた。あのとき助けてくれたのが椿希だったと、纏まらない思考の渦の中でぼんやりと浮かんできた。 あれが葵生だったらどんなにか幸せな思い出となっただろう。だけど少女にすぎない椿希が介抱してくれたことは、確かに心からありがたく感謝し嬉しかったけれど、あの一件からどうしても自分の至らなさばかりが目に付くようになってしまい、自分の首を絞めるかのように苦しく追い詰めていったのだから、あれが椿希ではなく葵生だったらと、つい想像してしまうのはあまり感心しない茉莉の癖なのであった。
茉莉が先に帰った後、地下街にいつまでも残っているわけにもいかず、場所を変えて話すことにした。喫茶店といきたいところだが、地上に上がってしまっては良いところも見つからなかったので、 「俺の家でじっくり話を聞かせてもらおうか。確か、家はお互いそんなに遠くなかったはずだから構わないだろう」 と言って、早速近くにあった公衆電話から自宅に電話を入れていた。そうなると葵生も家に電話しようかという気になって、軽く溜め息を吐くと、携帯電話を取り出した。するとメールが二通来ていたのが気になったが、ひとまず自宅を優先するべく、通話ボタンを押した。電話の呼び出し音が聞こえると、どう言い繕おうかと思考を巡らせた。 「もしもし。ああ、父さん帰って来ていたんだ、元気にしてるの。そう、それは良かった。へえ、今回は結構長くこっちにいられるんだ、うん、俺もなんとか、ね。まあ、詳しい話はまたゆっくりしようよ。それで本題なんだけど、父さん、実はこれから友達の家で勉強というか、模擬試験の復習を一緒にすることになったから、帰るのが遅くなるんだ。どれくらい時間かかるかは分からないけど、結構この前の試験は手こずったから、解決まで長くなるかもしれないから、もし遅くなるようならまた連絡する。徹夜になるかもしれない。大丈夫だって、明日は仕事も学校も休みだろう」 早く要件だけを伝えて電話を切っていた桔梗は、怪訝そうな顔をしながら葵生を見ていた。葵生が終話して鞄に携帯電話を入れると、 「お前、携帯持っていたのか」 と、驚いた様子も押さえながら言った。 「母親に持たされた。光塾辞めてからだけどな、うちの母親は心配症だから」 桔梗は何か言おうとしたが、うまく言葉にすることが出来ず、そうして二人は街を歩きだした。 街の灯が煌々としていて、休日前の人々は陽気な表情で通り過ぎていく。近頃すっかり暖かくなり、時々感じた春の夜の冷えもあまり感じられず、そのせいか人通りも多くなったような気がする。まだ初々しい社会人になりたてのような若者が、上司らしき人を気遣っているらしい様子や、恋人たちが肩寄せ合って笑う様子、大学生らしい集団が大騒ぎしながら二次会の場所を探しているらしい様子など、ここにいるのが場違いだと痛感せざるを得ない。 電車に乗りながら、遠くで色とりどりの光が点滅しているのを、目を細めながら見詰める葵生を横目で見ながら、これだからこの男のことを憎みきれないのだと、桔梗は自分のことを人が良すぎるのではないかと思う。確かに以前も、葵生は役者がわざと演じているのではと思うほど、冷徹で無口なのだが、声色といい所作といい、そこはかとなく感じられる色気に対し、一様に皆は心を奪われてしまっていた。最初は『プリンス』と呼ばれるように、凛々しい椿希と対をなすように見なされていたのだが、その椿希までもが一瞬とはいえ花の甘い蜜に誘われるように惑わされ、あの夜のように正気を失ったかのように葵生について行こうとしていた。それを思えば恋敵として、堕落した葵生を見捨ててしまっても良かったものを、放っておけなかったのだから、つくづく自分の甘さを呪うしかない。 葵生は通学では、桔梗とは別の線を利用することもあって、そういえば一度も通学で顔を合わせたことがなかった。家が近いとは知っていたが、そのことを考えたこともなく過ごしてきた。 「椿希も同じ線だから、朝はよく会うんだ」 桔梗は試しにそう言ってみると、案の定葵生の顔が僅かに動いた。 「お互いの家は、駅を挟んで正反対の方向だからな、全く自宅近辺で会うことはないんだけど」 葵生の反応を試すようにちらちらと見ながら言ったのだが、先程のことがあってから動揺が収まりきれていないらしく、街灯が照らす不十分な明るさでさえも、顔色が良くないのが分かる。ぼんやりと虚ろな目は開いているにも関わらず、今にも電柱にぶつかり、車に轢かれそうなほど頼りなく、とても一人で無事に帰宅出来たかどうかも疑わしい。 久し振りに思わぬ再会したばかりのときもそうだったが、今の、この儚げで胸が塞がって言葉も届かないような情けない有様は、とても光塾にいたときからは想像がつかない。塾生たちが見たらどういう反応をするだろうか。 雲行きが怪しかったのにも気づかないほど、互いに物思いに耽りながら歩いていたせいか、小雨がぱらぱらと降って来たときには大層驚いたものだった。初めのうちはさして大したことないと見ていたけれど、雨はやがて視界を遮るほどの強さで、畳みかけるようになった。 「葵生、あと少しで家だ。走るぞ」 そう言って、返事を待たずに鞄を頭に乗せて傘代わりにし、走り出した。少し走ったところで、葵生がちゃんとついて来ているか振り返って確かめようと思ったが、雨粒が左目に入りこんで辛い。雨水を蹴る音が自分以外に聞こえるかと思っても、それ以上に雨が屋根や塀、木々や電柱などにぶつかるのや唸るような風の音で分からない。 「葵生、ちゃんと来てるか」 叫んだ途端に口の中に雨が入り込んでくる。もう、きっと鞄の中身も濡れてしまって、洪水状態になっているだろうと、桔梗は思った。 「来てる」 葵生は今にも桔梗を追い抜かさんばかりに、横に並んだ。桔梗は「あと少し」と言って、そこから少しばかり走ったところで門を開けた。玄関までの階段はわずか数段ほどしかないけれど、そこでさえも滝のように水がどくどくと流れているので、慎重にあがるしかない。僅かな距離でさえもゆっくりになるのだから、もしかすると走った距離は長く感じたけれど、知らず走るのにも神経を遣っていたのだとしたら、実際は案外短かったのかもしれない。 「ただいま」 桔梗はドアを開け、玄関に入った。すると、母親がスリッパの音を立てながら居間から出て来た。 「まあ、桔梗。雨でびっしょりじゃない。ずぶ濡れで、大変」 そう言って驚いていると、桔梗の背後にいるもう一人に気付いて、 「ああ、桔梗の言っていたお友達」 と、にっこり笑って挨拶をしようとするが、葵生は玄関先で水気を落としている。声に気付いた葵生が扉のところまで近づき、 「こんばんは。突然夜分遅くにお邪魔することになり、失礼します。夏苅、といいます」 と、微笑みながら言うので、思わず母親も顔を赤らめて、 「あ、こんばんは」 とだけしか言えない。桔梗は、この母親も大方葵生の容姿に圧倒されてしまったのだろうと思って振り返ると、髪は水を含んでべったりと頭に張り付いたようになっているけれど、鼻や顎、耳のあたりから雫が落ちる様までが、言いようもなく艶やかで色っぽく、かえって心がそそられるようである。 「母さん、ぼうっとしてないで」 桔梗が促すと、母親は慌てて風呂場へ向かった。 どことなく、頬のあたりや輪郭が、桔梗とそっくりなので、桔梗は母親に似たのだろうかと葵生は思った。決して若作りをしているわけでもないけれど、声色のせいか若々しく、柔らかで優しい雰囲気が、どことなく自分の母親と比べて正反対であるように思える。 少ししてから戻ってきた母親は、二枚分のタオルを手渡し、 「もう、桔梗。夏苅くんみたいに、ちゃんと外で水を落としてから玄関に入ってちょうだい。ぽたぽたと雫が落ちて、ほら、見なさいよ。もうべったりしているじゃない」 と、いつものように説教を始めた。桔梗はそれに苦笑しながらも、まあ葵生の登場で母親も気分が若返ったような、珍しいものを見た気がして、いつもは喧しいと煩わしく思っていたことも、今日は受け流すことが出来たのだった。 「このままだと風邪を引くから、風呂に入りなさい。夏苅くんも、親御さんから許可がもらえたら、良かったらもう今日はここに泊っていらっしゃい。夜も遅いからね」 と、桔梗の母親の言う口ぶりは、まさしく桔梗とそっくりで親しみを覚えた。葵生は少し迷ったが、桔梗も「そうしろ」と勧めるので、今日はちょうど父が帰っているということもあって、父の携帯電話に電話をして、今日はこのまま泊まる旨を伝えた。 「母さん、怒ってない」 怖いわけではないけれど、帰ったときのことを思って葵生は訊ねた。 「ああ、ご機嫌斜めだな」 父も電話の向こうで苦笑しているようだった。案の定、と葵生は思って、しばらく父と会話した後で電話を切った。父は、葵生が友人の家に泊まるというのを聞いたのは初めてだったし、友人とどこかへ遊びに行くというのを聞くのも久しぶりのことだったので、たとえ高校三年生であろうと、受験までまだ半年以上もあるのだから今回ぐらいは大目に見てやればいい、と大らかに思っていたのだった。 桔梗がこちらを見ているのに気付いて、葵生は「どうした」と聞いた。 「葵生がそういう喋り方をするのが珍しくて」 と言う。 「親父さんだろ、今話していたのは。葵生って、塾ではそっけないような返事ばかりで、愛想のない奴だって会ったばかりの頃はそういう印象があったものだ。それからしばらくして心を開いてくれるようになったような気がして、人見知りする性格なのかと思うようになったんだけど、やっぱり違ったな」 与えられたタオルで、簡単に顔や手などを拭きながら葵生は聞いていた。桔梗はそれ以上言おうとしていたのだが、「さっきの電話のときの話し方と椿希に対する話し方はそっくりだった」ということは敢えて葵生に告げないでおこう、悔しいから、と思って止めてしまった。
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