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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第67回   第二章 第十三話 【茉莉花】 2
 女は葵生の言うとおりかもしれない、それならそれはそれで好都合だ、などと思って静かに葵生の体に身を寄せた。そこから少しずつ空気が変わっていって、普段言葉数の少ない葵生が女の肩に腕を回して自分の身を倒し、女が覆いかぶさっていく、というのがいつもの調子なのだが、今回は葵生からは自ら女の体に触れようとしなかった。訝しく思いながらも、女は葵生を押し倒して真上から葵生の顔を覗き込むが、葵生は天井の一点を見詰めたまま微動だにしない。尖った喉仏が艶かしく、年齢以上の色気を醸し出しているけれど、葵生は何かほかのことを考えているのか、視線は焦点を定めずにいるのだ。
 女は、泣き出したい気持ちをぐっと堪えながら、体をそのまま倒して葵生の胸に顔をつけた。
 「みっともないって分かってる。馬鹿なことをしてるっていうのも分かってる。でも、私は葵生のことが好き。旦那なんて、もうどうだっていい。年齢差は、葵生さえ良ければ年増の中年女と陰で囁かれようとも構わない。それくらい、私が本気だってことだけなんだ、葵生に知ってほしいのは」
 葵生は事態をややこしくしてしまったのには自分にも責任があるとはいえ、理性を自制できなくて、若い燕になおも縋り付こうという女に、もはや情をかける必要もないだろう、と冷たく考えていた。熱く触れてくる指先も、思いの籠もった吐息も、これが彼女のものだったらと思ってしまう。愚かなことを考えている自分にうんざりするどころか、もはやこんなことで楽しみを見出すしかないことに、つくづく自分の不運を嘆くばかりだった。

 茉莉は何度葵生に会っても、葵生との間に進展が全く見られないことに心底がっかりしていた。どうにか葵生の気を引こうと、化粧も雑誌を見て研究したり、胸元に敢えて装飾品を付けてみたりするのだが、第一自分を見てくれている様子もないのだから、無駄なのかもしれない。それでも諦めないのは椿希がいないからで、彼女が葵生に接することのない今こそが、葵生を奪う最大の好機なのだと強い気持ちを持っていたからに他ならなかった。
 待ち合わせ場所に早く到着するのは、いつも茉莉だった。携帯を触る癖があったが、葵生が来たときに携帯を見ているようでは、気の多い女と思われはしないかと思って、待ち合わせ場所に着くと何もせずに人が通るのを見ているだけだった。退屈だとは思わない。足を開いて座るのも止めた。椿希のような人が好みなのだろうが、椿希には到底なれそうにないので、せめて態度だけでも変えていこうと思っていくうちに少しずつ心構えも穏やかで冷静になっていくようだった。
 葵生はやはり時間どおりにやって来た。そして地下街を歩き回るのだ。決して手を繋ぐこともなく、葵生は前方を見据えたままほとんど茉莉の顔を見ることはない。それでも、今このとき、彼を独占しているという事実だけが茉莉の支えで、少し前までの願望は葵生が現れた瞬間綺麗に消え去るのだった。
 入った喫茶店には窓がなく、それゆえ橙色の照明が店内を照らすばかりだった。葵生はいつものように、店の勧めるコーヒーを注文してしまった。茉莉はというと、注文するものが毎回異なることもあって、メニューを見たまま考え込んでしまうので、葵生がさっさと飲み物を受け取って席に向かってしまうのが、本当は切なく思っていた。椿希だったらどうするだろうか、そんなことを考えて心の内で溜め息を漏らす。
 注文したジャスミンティーを受け取って席に着こうとするが、葵生は何も言わない。いつものことだけれど、せめて、遅かったなだとか、何を頼んだのだとか、そういうことを聞いてくれれば少しは心も救われるものをと、葵生の冷淡さに傷つけられることも少なくはなかった。
 ほとんど会話は、茉莉が話してばかりで時間が過ぎていく。葵生は相槌を打ちながら、さりげなく光塾の様子を訊ねようとしていた。茉莉はほとんど塾に行かなくなったのだが、葵生にとっては、籍を置いているだけでも羨ましく、
 「大学に行ってから講義についていけなくなるかもしれないし、何かのときのためになるかもしれないから、塾には行っておいた方がいいんじゃないか。それに塾のみんなも、たとえ内部進学するからって特別な目では見ることはないだろう」
などと言っている。自分のことは棚に上げて、なんともおかしなことではないか。我ながら浅ましいことだと分かってはいるのだけれど。
 茉莉は、葵生が言うことなので、なるほど確かにその通りだと納得して、
 「じゃあ、今度顔を出してみようかな」
という気になっている。顔もどことなく上気して、葵生の言うことならばなんでも信じ込んでしまいそうな、くらくらと眩暈がするようである。離れていては葵生の身も心も全てを欲しいと思って切なく、時に少し涙ぐむことさえあるというのに、近くにいては傍にいるだけで話をしているだけで、もはや心は満たされてしまい、あれだけ気にしていた椿希のこともどこか他所へ遣ってしまっている。どきどきと胸を打つ音が葵生に聞かれてしまわないかと気が気でならない。火照った頬を気付かれやしないか、もし指摘でもされようものなら照明のせいにしなければ、と言い訳も色々と頭の中で思いつく。
 そう思う反面、気付いて欲しいとも思う。自分が思いを寄せていることを知ってくれているならば、自分の心をちらとでも覗いてくれたならば、どれほどの喜びを得られるだろう。他の男たちでは決して感じることの出来ない熱いものを、肌に触れずとも感じ得られると信じていた。
 だからこそ、つれない葵生の返答に対しても、短気な性質の茉莉だが、大きく構えていられるのかもしれない。

 店を出て、そろそろ帰宅しようかと地下街を通って駅へ向かおうとしたところ、ばったりと桔梗に出くわしてしまったのには、葵生よりも茉莉の方が決まり悪い思いをしたようだった。
 「なんでお前こんなところに」
 葵生に向けた声色は、久し振りだなという懐かしさと親しみを込めたものではなく、明らかに軽蔑したようなものだった。隣にいる茉莉を一瞥した桔梗は、あからさまに呆れ果てたような溜め息を大きく吐き、葵生に向けて睨みつけた。
 「お前は塾を辞めて予備校に、それも医学部進学のためのに変わったんじゃなかったのか」
 威圧感のある桔梗の体躯と冷たい視線に耐えられず、茉莉は葵生の陰に隠れるように身を寄せ、視線を落とした。
 葵生は何も言わない。ただじっと桔梗を見た後は、ふいと別の方に視線を逸らした。
 「なあ、何か言えよ、葵生」
 大きな声を上げれば響き渡って、通行する何人かがこちらに注目した。それでも葵生は動じないので、桔梗は唇を噛んだ。余程胸倉を掴んでやろうかと思ったが、人目に付くので拳を作ったまま僅かに手を震わせ、ぐっと堪えている。
 「情けない、本当に情けない。俺はこんな奴のことを認めていたなんて。こんな奴のことを少しでも尊敬して目標にしていた自分が情けない。そしてお前も情けない奴だ。こんな根性なしだとは思わなかった。お前は見せかけだけの奴だったのか」
 吐き捨てるように言ったので、堪らず茉莉が前に出た。
 「ひどいよ。葵生くんは私に付き合ってくれていただけなのに。いいじゃないの、あんたにそんなこと言われる筋合いなんてない。あんたは自分のことだけ考えていればいいじゃないの」
 桔梗は冷たい目を茉莉に向け、見下すように顎を上げた。
 「ああ、そうだな。確かにそうかもしれない」
 そう言って、再び視線を葵生に戻す。葵生は相変わらずこちらを見ようともしない。
 「葵生、あのときの椿希の言ったことを忘れたか。同じ大学の学生として会えるのを楽しみにしている、と。それを聞いたときの俺の気持ちが分かるか。どれほど辛かったか、やっぱりお前には敵わなかったと悔しかったことか。だけど、お前の今までのことを思えば仕方ないと思って、諦めることも出来そうだったのに、そんなお前を見てたら俺が買いかぶり過ぎたかと、自分の見る目のなさが情けなくて仕方ない」
 葵生はやっと桔梗を向き、感情の籠らない声でか細く、
 「椿希のことは関係ない」
とだけ言った。往生際の悪い葵生に、桔梗は険しい顔を見せた。
 「お前と椿希は似合いだと思ったからこそ、俺も引き下がろうと思ったんだが、本当にその判断は間違ってたようだな。椿希のことを惚れ直したばかりだから、改めて俺はお前がいないのをいいことに、遠慮なく好意を寄せられるというものだよな。彼女は本当に強い人だ、重い病気を得ても辛そうな顔ひとつ見せないのだから」
 すると、葵生の横顔がぴくりと僅かに動いた。視線が泳ぎ、閉じられていた口が開く。
 「茉莉も知っているだろう。椿希はお前がいなくなってからしばらくして、病気で入院した。みんなには胃腸を悪くしたんだと妥子が言って回っていたけど、あれは嘘だと思う。お前との関係を妬んだ連中が押し掛けてはいけないと、妥子が気を遣ったみたいだが、そんなこと俺にだって想像がついたものだ。椿希は入院中もずっと受験勉強を必死でやってた。少しでも怠けると遅れてしまうって、つくづく頑張り屋だなと思ったな。『そうだからなかなか治らなくて退院できないんだ』って冗談交じりに言ったら、『勉強でもしないと退屈だから』って健気に言うんだ。
病気で弱っているときがいい機会だと、卑怯にも思ってしまって、何度も遠まわしに好意を伝えたけど、いつもさりげなく俺に気を遣いながら断るから、それが余計にもう芽はないものだと思い知らされたような気がしたよ。それも納得したのは、あの夜久し振りにお前と椿希が二人でいるところを見た晩、椿希が『同じ大学で会いたい』というようなことを言ったのを聞いたからだ。お前と椿希の間には、俺やほかの人間が割って入ることの出来ない何かが出来ていたんだろうって感じたんだ。たとえそれが友情であったとしても、辛かった、苦しかった。だけど、諦めようと、ようやく割り切ることが出来そうだった。
椿希の本心は分からないし、知るのが怖くて考える気にもならない。だけど、彼女は病気を抱えていても諦めず、退院してからも平然としていた。昔以上に強さがみなぎっていて、順調に志望校合格に向けて成績も伸ばしている。自惚れられては困るから言っておくが、決してお前のためじゃない、椿希は自分自身のために必死になってる。
それだというのに、お前はなんなんだ。ああ、もういい加減なんで怒ってるのか分からなくなってきた。思ってることもまとめられないなんて」
葵生はわなわなと体が震え始め、目の前がぼやけていくようであった。椿希の消息は何にも増して知りたいと思っていたのに、現実を思い知らされた今となっては惑乱してしまって、糸が縺れ合うように考えも何も浮かばない。ただ愛しい人が苦しんでいたということと、兆候に少しでも気付いていたにも関わらず別れ際に何も気を回すことなく、味気ないまま彼女へ依存しきっていたということに、さめざめと心の内で泣き崩れるばかりだった。
 少し時が過ぎて落ち着いた頃、桔梗は言った。
 「葵生、お前のその姿を椿希が知ったらどう言うと思う。どう感じると思う。さぞかしがっかりするだろうな、俺もそうだったから。お前は塾の中で誰よりも尊敬されてたんだ、憧れられてたんだ」
 葵生には返す言葉もない。喉仏が揺れる。
 「私は、葵生くんがたとえどんな姿になっても構わないよ」
 茉莉は呟くように言って、気まずそうにその場から立ち去った。その機会を窺っていたのかもしれず、桔梗は追いかけもせず、葵生をじっと見つめたまま葵生の返答を待っている。
 「椿希に会いたい」
 ただそれだけ言って、葵生は額を手で押さえた。涙を見せることだけは耐えたものの、まだまともな考えも出来ないままなのだ。あれもこれも、そういえば椿希は自分に不調を気付かせまいと振舞っていたのではないか、あの夏は特にそうだった、などと思い返すにつけても、ひとつひとつに謝りたい気持ちである。
 たとえ椿希が、約束のとおり大学で自分と会いたいがために受験勉強に励んでいるわけではなくとも、自分はただひたすら彼女に会いたくて仕方がないのだから、何を迷う必要があるのだろう。会うことが出来たらと、やりたいことを数えていけばこんなにもあったのかと、我ながら驚くほどに見つかった。今までどうしてそれが分からなかったのだろう。


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