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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第66回   第二章 第十三話 【茉莉花】 1
 その年の夏もまた、うだるような暑さの日が続いていたので、冷房の効いた屋内へと、人々は汗を拭きながら道を急いでいた。眠っていても、その暑さで自然と目が覚めてしまうので、毎日が寝不足で昼間になると睡魔に襲われ、ついうたた寝をしてしまいそうなほどである。
 太陽がぎらぎらと輝いて眩しく、蝉の鳴く声がむさ苦しさを更に助長させるので、部屋に防音壁を施したいと思うほどだ。かつては『岩に染み入る蝉の声』と詠まれて、夏の風物詩として情緒を感じさせていたものも、こうも大合唱をされてしまっては耳障りで風情もあったものではない。部屋を一歩出れば、屋内であっても冷房の効いていない廊下を歩くと、とても同じ空気とは思えないほど、ぬうっとした不快な空気を吸い込んでしまい、何もする気を起こさせなくするのである。この生温い空気のせいで、夏場になるとつい食欲も落ちてしまって、御飯も簡単に済ませがちになるのを、葵生の母親はそれを咎めて、
 「受験生なんだから、しっかり栄養をつけて備えなくては。ほら、精のつく食材を取り揃えたから、これで天王山も乗り切れるわね」
と、張り切って献立を数週間先まで考えているのであった。中学受験のときを思い起こせば、栄養士でもないのに栄養学の勉強を独学で始めて、滋養に良いものを毎日せっせと作っていたのだった。葵生は、勉強するのに良い環境を整えようと協力をしてくれることにはありがたいと思っているが、本人以上に盛り上がって、ああしよう、こうしようと世話を焼きすぎるのには、すっかりうんざりしてしまっていた。中学受験の頃は、まだ頑是無かったこともあって、親の言うことを聞いておくのが最後は一番良い結果を得られるのだと、信じて疑わなかったけれど、もうすっかり自我が芽生えて大人ぶった考えをするようになったからには、受験するわけでもない母親が張り切ってしまっているのには、閉口しきりで、上手く持ち上げて適当にあしらっておこうと考えている。
 第一、今の葵生はとても受験勉強に専念出来るような状態ではないので、母親のやっていることがいかに空回りなことか、とも思っていた。我侭かもしれないが、こういう協力はさりげなくしてくれると、押し付けがましくなくていいのに、と思うけれど、母親が好意でしてくれていることを、さも迷惑であるかのように言うわけにもいかず、逃げるように顔を出来るだけ合わせないようにしていたのであった。
 ぽつぽつと勉強をしてはいたが、一向に身が入らずに、次々と苦手な分野の復習と克服をしていかなければならないというのに、予定の半分にも達しておらず、この分だと受験までに間に合うかどうかというところである。担任教師からも、「志望校学部を変更するか、国公立でも偏差値が少しでも低いところにするか、私立大の医学部にするかに変更することだな」と言われている。教師は気遣ってかそのように言っているが、実際のところ文系科目を捨てて理系に専念したところで私立大の医学部だって難しいと葵生は思っているので、もう医学部進学は諦めてしまおうかとぼんやりと思っていた。
 子供の頃の夢は叶えられないことの方が多いんだ、と言い訳をして、志望学部を工学部に変えてしまえば、やる気が戻って受験勉強に励めるだろうかと、甘い考えが頭を過ぎる。そういう時にいつも思い出すのが、椿希との約束だったが、椿希とてそんな約束を覚えていてくれているだろうか、男たちから人気のあった彼女だから、囲われているうちに自分のことなんて忘れてしまうだろう、などとひどく自虐的に考えるので、葵生はどうやっても、立ち直ることが出来そうにない。

 心の迷いが行動にも表れ、椿希に合わす顔のないことをしてしまっている葵生は、月下美人の女と会うことさえ疎ましく思え、女のところにはもうかれこれ一月ほど会いに行っていない。最後に会った夕暮れ時に、空が黄色く少し霞みたなびいているのを見ながら、
 「俺ももう流石に受験生だから、なかなかここに来ることは出来ないけれど、決して忘れたわけではないのだから心配することはない。連絡手段がないから気落ちしてしまうかもしれないけど、必ず落ち着いた時にでも会いに行くから、夜に泣いたり恨んだりしないでくれ。夏期講習が始まれば、機会を見て朝からでも行けると思う。それまでは、旦那さんとのことで辛いことがあっても、なんだかんだ言っても旦那さんは配偶者なんだから」
と、慰めながら、「いつ会いにいけるか分からない」言ったのをいいことに、すっかりその約束を反故にしてしまおうとしているのが、本当に腹立たしくも憎らしいことである。元々、椿希に向けていた思いの反動が、その女へとぶつけられたようなものなのだが、椿希に比べるとあまりにも凡庸で、些細な会話の遣り取りにも手応えが感じられないので、物足りなくて堪らない。
 情が移っているので、女のことを忘れはしないが、よほどの機会がない限りは訪ねてみようという気も、到底起こりそうにないのであった。
 そうは言っても、女が寂しい気持ちを抱えたまま幾日も過ごしているのは、なんとも哀れなことであった。見た目は華やかで、いかにも派手やかで悩み事など何一つなさそうに見える風采なのだが、女にはとても繊細で、一途に自分の至らなさを責めるところがあるので、葵生の言うことだけを頼りに、心細い日々を送っていたのであった。
 部屋で葵生がいつも好んで座る、窓際のあたりに葵生の学生服の色である濃紺の地に、小さな桜が散りばめられた柄の座布団を敷き、女は植物を見詰めながら一日の多くを過ごしていた。葵生になぞらえて育てようと思った水葵も、夏も半ばごろになって葉が葵らしい形になってきて、花の蕾の形にこれからなっていきそうなものも見え、女は少しは心が慰められるようであった。また、部屋の月下美人の花もいよいよ咲く準備を始めたかのように、蕾の形が日を追うごとに整えられていくようで、出来るものなら葵生と共に咲くところを見てみたいと思い、大切に育てていた。
 女からは葵生に連絡する方法がないので、葵生の来訪を待つばかりなのだが、葵生も月下美人が育つのを見ては興味深そうにじっと見ていたので、もしかすると頃合を見計らい、来てくれるのではないかと、当てにならない期待を寄せているのが哀れでならない。一月前の時も、月下美人を見て、
 「少し芳しい匂いがするようになったな。あと一ヶ月ほどで咲くだろうか。一夜しか咲かない花だったよな。咲くところを見れたら、運が向いてきたと思えるだろうか」
などと、感慨深そうにしていたのだけが、きっと葵生は来てくれるに違いないと信じられることであった。
 女は来る日も来る日も、葵生が来てくれるのを待っていたので、買い物に出ても婦人科に通っていても、寄り道をせずに真っ直ぐに帰っていた。葵生が来ているかもしれない、または、来てくれるかもしれない、と思うと僅かな期待であってもそうせずにはいられなかったのである。
 葵生はほとんど女の嗜好について口出しすることはなかったが、なんとなく言おうとしていることが分かっていたので、女も少しずつ自分の身だしなみを気にするようになっていた。思えば少し前までは、葵生だって人に注意されるような格好をしていたのだから、女にあれこれ言う資格などないものなのだが、惚れた弱みなのだろうか、そのようなことはもう気にならなくなっていたのだった。
 素直な女は、葵生の好む通りになろうと考えて、服装や持ち物も、それまで好んでいた原色や蛍光色のものに金色の金具のついたものや、見た目が豪華であるばかりで仕立ての悪い服や鞄などを、新しいものを買うたびに少しずつ処分していった。夫の給料を上手くやりくりをして、安売りをしていたと言って買い換えていったのだが、あまり妻のすることに関心のない夫は「そうか、良かったな」と心の大して籠もらない言葉を掛けるのだった。
 「初めは、高い服のくせして、なんて地味なんだろうと思っていたし、買ったことを後悔したけれど、着てみてやっと違いが分かったなあ。今までのは生地がぺらぺらだから、すぐによれよれになるし、汚しても惜しくないようなものばかりで、大切にしようとも思わなかった。でも、新しい服は飾り気がなくて、色もありきたりで面白味がないと思っていたのが、袖を通したら、生地の薄いものでもぱりっとして見えて、しかも糸も解れてこないし、色落ちもしない。それに、なんとなく大人になったような気がしていいかもしれない。今まで自分がいかに子供っぽかったか、よく分かったつもりだけど、それを指摘してくれたのが年下の葵生だと思うと、なんだか恥ずかしい気もする」
と、女は思いながらも、自分の身の回りを一新しようと躍起になっていたのだった。
 髪の色も、葵生に合うようにと元に戻そうと黒く染めたが、傷みきった髪は次第に茶色に戻っていったのが残念だった。ただ以前の金髪に近い色に比べると、大分色が暗くなったので、会う人会う人は驚いていたが。
 「それにしても、あんた変わったもんね。綺麗になった。本当に大人になっただけかな。男が出来たのかなと思いたいけど、あんたの場合、男が出来るたびに毎回舞い上がって、他の事に目もくれなかったから、まあ、違うのかなって思ってるけど」
 そんなことを後で近所の年上の女性に言われて、女は頬を染めていたのだった。まさか二十歳近くも年下の少年と会っているなどとは言えるわけがない。

 そんな毎日が流れて、どれくらい久しいかも分からないほどだったが、またも突然葵生が月下美人の女の家にやって来たのだった。突然来るのが当たり前のようになっていたとはいえ、これほど期間が空いていると緊張してしまって、女は嬉しい気持ちと共に夫にこの状況を知られはしないかと思ってどきどきし始めた。仕事人間たる夫は決して早退して帰るわけがないし、昼間であっても電話を自宅に掛けてくることもないのだけれど、それでも初めて葵生を迎えた日のように心が落ち着かない。
 葵生はほんの少し口元を持ち上げるようにして、
 「すっかりご無沙汰で。元気そうだな」
と言った。こんな不器用なところが葵生らしさなのだ、と女は思うと、コーヒーを淹れた。葵生は決まってコーヒーには何も入れないのでマグカップにお湯を注ぐだけで良いのだけれど、よくあんな苦いままで飲めるものだと思っていた。何度か挑戦したことがあったけれど、とても飲めたものではない、と女は思って今ではすっかり諦めている。
 「久しぶりに来てくれて嬉しい。今日はゆっくり出来るかな、でも恥ずかしいかも、私また少し太ったから」
と言って、二の腕のあたりやお腹周りに手を遣ると、柔らかな感触がして女は溜め息を吐いた。
 「何も女優並みに痩せたいってわけじゃないんだけど、私はもう子供の頃からこういう体型だったから、ほっそりした子が心底羨ましいんだよ。私の年頃なんてまだ体型の崩れてない子だってたくさんいるのに、なんで私はこうも中年臭いのだろう」
と自嘲するのを見て、葵生はいつも自分が自嘲しているのを棚に上げて、
 「そんなこと言ったって他人は他人なんだから仕方ないだろう。でも最近若返ったんじゃないかって、周りに言われたんだろう、十分じゃないか」
と言われて、そうかと少し納得する。
 女は顔立ちは若いときは可愛かっただろう愛嬌のある目元や口元をしているのだが、あまり手入れをしていなかったのだろうか、確かに女の言うとおり実年齢より少し年上に見える。だから葵生と歩いていれば親子か親戚の叔母にこそ見え、まさか不倫の仲だとは誰も思わないだろうと思うほどだった。夫もそんな女を見ても大して心が動かされないのか、近頃はすっかり水臭い仲になっていたので、この調子だとあと何年連れ添えるかと悩んでいたのだが、つい数日前ほどからだったか、少しずつ夫も妻に対する態度を改めるような素振りを見せ始めたので、もしや不倫を見抜いているのではと、女はどぎまぎしていた。
 女は、まだうら若い葵生に夫婦の話などしても詮無いことと思っていたけれど、聡明な葵生ならば少しでも分かってくれないかと期待して、言葉を選びながら、ところどころ詰まらせていたけれど、ようようのことで口に出した。
 「最近は旦那との仲も冷え切っていて、もう帰るのも遅くて、本当に残業をしているのか、飲みにばかり行っているんじゃないかって疑ってばかりだったけど、私は葵生と出会えてからはそんな寂しさも随分と埋められたような気がするんだよ。そりゃあもちろん、葵生は高校生で私はしがない主婦だから、この関係をずっと続けられるわけがないって、いくら馬鹿な私でもよく分かっているつもり。高校生だから、そんなに毎日私に会ってばかりもいられるわけがないし、ましてや染井の学生なんだもの、私にかまけてばっかりじゃあ、将来に差し障りが出てくると思うんだけど、そうは言ってもやっぱり葵生についつい頼ってしまうのは、私の心の弱さのせいだよね。葵生みたいな、見た目も中身も優秀な人と私が釣り合うわけがないって分かってるけど、どうしても夢を見たくて、ここまで来てしまったんだわね」
 などと、同じようなことを繰り返し言ってしまうところから、葵生はそろそろ潮時だと言いたいのだろうかと思いついていた。葵生としてもそれは十分に分かっていたけれど、どうにか女を傷つけずに別れるためには女の方からそれを言ってくれた方が、きっと円満に解決がされるだろうからと、何も言わずにいたのだった。
 「もしかしたら、旦那が気付いているかもしれないんだ。葵生のことというより、私の行動が怪しいと思っているかもしれない。ここ数日ほど、妙に優しいもの」
 そう付け加えられたのを聞いて、葵生は清算しようと言っているのではなくて、単に夫に関係を知られそうだから知恵を貸して欲しいということを言っているのだろうか、と考え至り、溜め息を吐いた。それくらい、もう自分で考えてどうにか方法を練れば良いのに、こんな若造を頼るだなんて、と呆れて軽蔑してしまいそうだったけれど、そんな自分に頼らなければならないほど寂しい暮らしをしていたのだとも思えば、突き放すことも出来ないのだった。やはり情が移っていたのだろうか。愛情は一途にかの胡蝶の君へと向けられていても、人としての情が他方にも向けられるようになったのに、葵生は少なからず我がことながら驚いていたのだけれど。
 「さあ、旦那さんの考えていることはさっぱり予想がつかないけどね。もしかしたら旦那さんも外に愛人でもいるのかもしれないよ。良心が咎めてつい奥さんに対して優しくなるっていうのは、よく聞く話だから」
と、意地の悪いことを言ってしまう。


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