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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第64回   第二章 第十二話 【萌芽】3
 社長令嬢である茉莉が親に勧められて附属高校に通うようになったのは、古めかしい考え方だけれど大学卒業という箔を付けるためであって、それ以外に理由はなかった。本当は椿希や妥子の通う『女学院』が創立年も古く歴史があって、どの世代から見ても格式の高い学校という印象があったのでそちらに通いたかったのだけれど、偏差値が追いつかなかったため附属高校に通ったのだった。
 大の勉強嫌いを自認する茉莉は仕方なく内部進学でそのまま上に上がろうと思っていたのだが、ゆり子がその気になって他大学を受験しようとするのが面白くなくて、つい嫌味を言ってしまったのが今更ながら悔やまれることであった。
 染井の君と久しぶりに会ってからというものの、すっかり大人の男らしくなっていた姿をはっきりと覚えていて、こういう時期だからこそ余計に敏感になってしまうのだろうか、少しでも彼のことを感じていたいという思いから、その目の行き先はごく些細な振る舞いにまで及んでいたのだった。おそらく何気なくしたことであろうが、指の触れる瞬間から触れた物が僅かに形を歪めるところに至るまで、つぶさに観察していたのだから、そのことを思い返しては胸をときめかせて、あの指が自分に触れたならと上の空である。
 茉莉は染井の君と出会ったことでますます彼のことを求めて、二人だけで一夜を明かすことが出来たならなどと思っていて、そういった願望を軽い気持ちで学校の女子に言っていたのだった。周りに、
 「それは運命だよ。きっとその染井の君っていう人は茉莉と最後は結ばれることになっているに、間違いないよ。向こうもそう思っているんじゃないの」
とそそのかされるので、すっかりその気になってしまっていて、
 「それでは、次に会う機会にでも告白してみようか」
と、緊張しながらも、きっと成功するだろうという頭でいっぱいで、つゆほども心配などしていなかった。ついこの前までは椿希を思い遣るようなことを考えていたというのに、浅はかな友人によって思い上がってしまうのは、なんとも他人からは哀れに思えてならないことだった。
 今ではすっかりゆり子にそのような思いを相談することもなく、水臭い仲になってしまったので、つい浅い付き合いの友人に、色々と自身の事情を語ってしまうのだった。受験生らしく、遊びなど一つもせず、いつもきちんと塾に通っているゆり子を白い目で見ながら、葵生がいつか自分の恋人になる日を想像していた。全く、生産的ではないことなのだけれど。

 一方のゆり子は茉莉に言われたことをまだ引き摺りながらも、やっておかなければ後悔するだろうと思って、こつこつと勉強だけは続けていたのだった。ただその内容は調子の良いときに比べて薄いものになってしまっていて、現状を維持するためになんとか机に向かっているというようなものだった。
 桂佑は相変わらず飄々とした様子でいて、皆が切羽詰って険しい顔をしているのに一人余裕そうにしていた。動じないあたりは染井の君に似ているかもしれない、とゆり子は思いながら彼女もまたおっとりとした性質なので、あまり悲壮感を漂わせることなく落ち着いているのだった。
 期末試験も終わり、いよいよ天王山と呼ばれる夏休みが始まる頃だったが、のんびりと構えているゆり子は実感がなく、いつも通り特に熱心になるわけでもなかった。
 夏の訪れをそこはかとなく感じさせる若葉や陽気がうららかに漂い、半袖の上から一枚薄手のものを羽織っている人や夏物の衣服や食べ物が売ってある商店街の賑わいは、これからいよいよ一年のうち最も華やかで様々な行事を控え、その前の肩慣らしには丁度良い景気の良さを見せている。
 そんな心の高揚するような出来事も、受験生にとっては無縁の世界であるのが悲しいところであった。受験生だからといってそれらを全く断ち切ることもないけれど、祭りや夏の様々な催しに積極的に参加することは避けるべきであることはどう考えても明らかなので、楽しみは一年待つことになってしまう。身近にありながら他人事のように感じているのが、不思議な感覚だった。
 受験対策の行われる夏期講習は、光塾の系列塾と合同で傾向と対策を行うことになっているので、少なくとも夏の間は場合によっては他所の塾にも通わなければならないかもしれないが、少人数制の塾ゆえにこれも仕方のないことだった。だがやはり内心不満を持ってしまうのは、他所に行くのが面倒だからということが一番大きかったのだった。
 手続きのための申し込み用紙や開講予定の授業が明記されたものなど、夏期講習受講前の様々な書類一式が配られたその日の授業の休み時間、もしかするとずっと抱えていたことなのかもしれないが、桂佑が唐突にぽつりと皆の前でさりげなく言った。
 「俺、実は大学進学をしないことにしたんだ」
 周囲にいた人間もゆり子も空耳かと思ったほど、皆が夏期講習の授業一覧表を見ながら色々と志望大学に向けて取るべき授業を熱心に探していた時に不意に言ったので、その言葉の後に一瞬しんと誰もが話すのも紙を捲る手も止め、耳に入った言葉を一度脳裏に繰り返した。
 「今、『大学進学をしないことにした』って言ったっけ」
 男子塾生が確認するように言うと、桂佑は頷いた。
 「山城、なんでやめるの、何かあったわけ」
という言葉の後、どよめきが周囲から沸き起こった。どよめきの中の言葉一つ一つを拾い上げることは出来なかったけれど、一様に「どうして」といった内容であったらしく、皆顔を曇らせて事情を聞こうと、少し離れたところにいた者も耳を傾けている様子が窺える。
 「俺、やっぱり理系に行きたいんだわ。憧れだけじゃやって行けないと思って、現実的な文系を選んでしまったけどずっと後悔してた。ずっと本心と闘っていたけど限界だ。専門学校へ通いながら自分の身の振り方を考えるのもいいだろうと思って」
 桂佑がこんな風に多くの塾生たちの前で話したのは、おそらく初めてだっただろう。そして自信たっぷりに声色も力強く、笑みを湛えながらも自分の意思をしっかりと伝えきった姿がやはり染井の君と重なって見えて、ゆり子は思わず口元を手で覆ってしまった。最初のきっかけは憧れていたが手の届きそうにない染井の君に似ているから、といった理由だったのが、次第に桂佑本人から滲み出る不器用な優しさや気遣いに好感を持つようになっていたので、突然の告白にゆり子はひどく困惑した。
 最初は大学進学する意味に懐疑的だった桂佑が、いつからか進学を希望するようになって、そして今度はやはり元々は理系に進みたかったからと、専門学校へ進むつもりだと宣言している。とても潔いようだけれど、とても疑問に思うこともあった。
 「今から勉強して、理系の大学に進めばいいんじゃないの」
 誰かが、ゆり子の思ったことを言ってくれた。桂佑は頭を横に振った。
 「文系から理系への転向は、高三からだとかなり難しいと先生にも言われたんだ。理系科目でも数学が苦手だっただけで化学や物理は好きだったのに、文系に進む方が無難だと思って選んでしまったことを後悔していたよ。迷っていたけど、やっぱり色々考えたら、これといった方向が見つかっているのなら、大学でなくても専門学校や短大で学べばそれでいいんだろうと思ったら吹っ切れて、資料を取り寄せたらちゃんと見つかったんだ。頑張れば編入も出来るし、もしかするとそのまま就職するかもしれないけど、それは入学してから考えればいいことだし、とにかく俺は大学進学はしないことにしたんだ」
と、あらかじめ聞かれるのを予想していたのか、流暢にそれを答えたのであった。誰かは往生際悪く色々と言っていたが、そんなことで桂佑の決意が揺らぐわけもなく、皆少なからず衝撃を受けながら、その日の授業を受けていたのだった。
 普段少しのことではのらりくらりと気にも留めないゆり子ではあったが、さすがに今回はすっかり度肝を抜かれてしまい、これからどうしようかと心は右往左往していた。なんといっても大学進学を自発的に決めたのではなく、特に一年生の時から親しかった桂佑が意外にもそうすると言ったからそうすることにしたのだと思うと、途端に目の前の梯子を取り外されたような気がして、さてどうしようかと心が焦り始める。
 授業が終わって帰る時に桂佑に話を聞こうと思って、ゆり子は素早く鞄に教材を詰め込んで桂佑の近くまで寄ったものの、彼に好意を抱いていると意識してしまっているためか、もじもじとしてとても言い出せそうにない。桂佑はゆり子が何か用があって来たのだろうと察して、
 「どうした、ゆり子。どうせ俺の専門学校進学宣言に戸惑っている奴の一人なんだろう」
と、からかうように言ったのが、声にも張りがあって余裕のあるようなものだった。ゆり子はますます顔を赤くさせて、恥ずかしそうにしながら何度も頷いている。ゆり子がこんな風に縮こまりながら、まるで初めて出会って人見知りしているかのようなのを見たことがなかったので、桂佑もさてどうしたものかと扱いようを考えていた。
 「桂ちゃんはどうするの、塾。もう大学進学しないから来ないつもりなの」
 おそるおそる訊ねる様子が、年齢よりも幼く見せているものの、愛嬌のあるおっとりとした様子で言うので、桂佑もおのずと茉莉と違って言葉遣いも表情も穏やかなものになる。
 「しばらくは理系の私立大学の理系進学クラスに紛れさせてもらうことにしたんだ。専門学校は願書を出して面接さえ通れば合格だからわざわざ受験勉強をすることもないんだけど、入学した後で文系の俺は苦労するだろうから、授業を『聴講』ということで聞かせてもらえることになったんだ」
 桂佑の進む道はこうだと、本当に自分自身で何もかも決めてしまっているので、ゆり子は瞳をうっすらと曇らせながら、ふうと大きな溜め息を吐いた。
 「茉莉は早々に内部進学すると宣言していたし、桂ちゃんは専門学校へと目標を変えたわけだけど、私はただ桂ちゃんが大学に進学すると言っていたからつられてそう思っていただけで、どうしようかなって不安になってたんだけどね」
と、ゆり子がこうして桂佑に打ち明けるのも珍しいことなのであった。
 もうすっかり塾生たちは教室から出てしまって、窓の外を見遣ると今しがた建物から出てきたのが見えて、足早に家路に着こうとしていた。車の光や街灯が辺りを照らしているけれど、そこには何の風情も感じられない。周辺は大通りに面しているのでビルが立ち並び、その中に入っている事務所や会社で残業しているらしい人影が通りを挟んだ向こうに浮かび、通りに停めてあった親からの迎えの車に乗り込む塾生の姿があったり、迎えの車を待つ塾生の姿があったりと、その光景はとてもせわしないのが忌々しいもののようで、ゆり子はまた溜め息を吐かずにいられなかった。
 「俺は誰かがそうするから自分も、っていうのも一つの方法でいいと思うけどね。それがきっかけとなって進路を決めるというのも運命かと思う。俺だって自分の意思がそうさせたというよりは、染井のあいつが将来どうなっているかを想像したら羨ましくなって、そういえば中学生の頃から実験が好きで、将来商品開発をしたり研究職に就いたりしたいとか、そんな希望を持っていたなと途端に思い出したんだよな。だからやっぱり誰かがそうするから自分も、っていう、ゆり子と同じように俺も思ってたわけで、別段何もゆり子と変わりはないだろ」
などと、ゆり子は意外なことを言われて興味深く思い、自分に置き換えて考えを巡らせた。では、今このように桂佑が大学受験をしないと言ったから自分はそうするつもりか、となると、そのつもりは毛頭なく、やはり大学に行きたい気持ちの方が強く出ているようだったので、
 「なるほどね。今、少し考えてみたけどやっぱり私は大学へ行こうかなと思ってるみたい」
とだけ言って、やはり揺らぐ気持ちに耐えられず、「でも」「やっぱり」とあれこれと葛藤しているようだった。
 「俺の兄貴は高校卒業してすぐに就職したんだけど、兄貴はよく『大学生はいいよなあ。親の世話になりながら遊んでいられるんだから。俺らなんて二十歳前からしっかり働いてるんだからな。しかも大手の会社に入ったんだから、大したもんだろう』って自慢するんだ。それで考えてみたんだけど、確かに高校卒業して遊ぶつもりなら大学行かず働いて稼げばいいと思う。ただし今は就職氷河期だから、高卒で果たして採用してくれるところがどれほどあることか。
 俺はゆり子は大学へ進学すればいいと思うよ。茉莉みたいに内部進学でもいいと思うけど、せっかく乗りかかった船だから、最後まで貫いてみたらいいんじゃないか。染井のあいつも、多分そう言うとおもう」
 本当に桂佑は同級生だろうかと思うほど、その口振りも考え方もしっかりしていて、ゆり子は恥ずかしくて堪らず、目を逸らした。就職のことまで話が及ぶとはよもや思っていなかったので、感嘆してまた溜め息が出てしまいそうである。それに、ゆり子の本心を見透かしたように染井の君のことが話に出てきたので、ゆり子は桂佑の顔を見ていられなくて顔を伏せてしまった。
 桂佑の言ったことが、ゆり子が僅かのうちに考えたことと似ていたけれど、ここで全てを決めてしまうのは軽率かと思って、
 「ありがとう。じっくり考えてみるね。多分、私は受験勉強を続けることになると思うけれど」
とだけ言って少し微笑むと、桂佑も微力ながら参考になることを言えたかなと、控えめに満足した様子を見せたのだった。
 思い悩むことは様々にあるけれど、こうして頼りになる友人がいるのは本当にありがたいことだと、ゆり子は心から思った。出来るならば、桂佑のような人が共に戦ってくれる同志になってくれたらと思うのだけれど、そうはいかないから、目指すところは違うけれど椿希や妥子にこれから色々相談してみようか、とぼんやりと考えているのだった。


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