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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第63回   第二章 第十二話 【萌芽】2
 ちょうど葵生が月下美人の女に通っていた時期だったのだが、ちょうどその頃光塾でもひとつ、小さいながらも深く心に刻み込まれる出来事があったのだった。
 甲斐ゆり子といえば、塾生の中でもとてもおっとりとした鷹揚な人柄で、茉莉とは正反対ともいえる性格であるのに、茉莉とは何年来の友情を築き今に至っている。だがそれも、ゆり子が大学進学を目指すことに決めたときから少しずつ考え方に差異が生じ、いつの間にかほとんど会話することもなくなっていた。
 いつから大学進学を目指すようになったのかは分からないが、憧れの椿希が国立大学進学を志望していることを知ったことや、葵生が塾を辞めたことをきっかけに真剣に考えるようになったのだと振り返ることが出来る。こういう進路のことは各々考えもあるのだから、違って当然なのだけれど、茉莉としてはそれが内心寂しかったに違いない。
 葵生が塾を辞めた理由というのは、明らかにされていなかったが、皆薄々と、こうではないかと気付いていた。もしかすると椿希だけは真相を知っているのではないかと噂されていたけれど、結局のところ彼女も語ることはなく、それとなく訊ねても上手くはぐらかしていたので、藪の中になってしまっている。
 ゆり子は、本当は、椿希は葵生の行先を知っているのだと思っていた。誰に対しても落ち着きを払って表情を変えることなく寡黙な葵生が、椿希と相対するときに限ってはうろたえたり、声を上げて笑ったり、寂しそうな顔をしたりと、心を開けていたし、何より誰よりも目に見えて椿希に愛情を向けていたのだから、必ず離れる前に葵生は椿希に事情を説明しただろうと信じていた。二人の間にあった思いというのは、他人からは想像もつかないほどの深い情熱的なものがあっただろうと思っている。大切な思い出だから大切にしまっておきたくて、椿希は語らないのだと。願望や妄想に過ぎないかもしれないけれど、当たらずとも遠からずではないかと、ゆり子は思っていた。
 自分には全く関係のないことのはずなのに、葵生が塾を辞めた後には何故か大切なものを失ってしまったような虚しさを感じ、ゆり子は不確かな気持ちのまま日々を過ごしていた。茉莉が内部進学をすると宣言したこともあって、それなら自分もそうしようかとぼんやりと思っていたのだが、葵生が辞めてからも変わらない椿希を見ていると、自分が茫然自失のまま高校卒業を迎えるのは違っていると思うようになったのであった。
 「椿希ちゃんは寂しくないの。葵生くんがいなくなって、どことなく皆寂しそう。椿希ちゃんは葵生くんと一番仲が良かったからどう思っているのかなって、気になってるんだ」
 以前そんな風に訊いたことがあった。あれは椿希が入院する少し前のことだっただろうか。葵生がいなくなってから間もない時期だったから、あの質問をしたことはとても残酷だったと、ゆり子は今では後悔している。だが、そんな酷なことを訊いたゆり子への椿希の返事は、
 「葵生くんがいないことで寂しくて辛いのは私もみんなとおんなじ。でも、行かないでって引き止めるのは葵生くんのためを思うと、出来なかった。引き止めるのは私たちのため、合格へ最も近い道へ見送るのは葵生くんのため。彼は私にとって、最高の戦友だったわ。その戦友の肩を押してあげるのが、私の役目だとも思った」
というもので、その表情がとても過去を懐かしみ悔やむようなものではなく、うっとりするほどの美しさと強さであった。ほかの塾生たちの考えも到底及ばないようなことを見据えているのではないかと思うほどに、晴れやかな様子であった。あの頃は椿希だけがすっきりとしていたので、あれだけ葵生に好意を寄せられていながら、しおらしく悲しんでいない椿希のことがよく分からないと陰口を言う者もいた。
 「プリンスと呼ばれるからって気取っているんでしょうよ。あんなに素敵な人に思われていながら、思わせぶりな態度を取り続けて手玉に取っていたものだから、しまいに懐の深い染井の君からも愛想を尽かされてしまったのかもね。だから、わざとああいう強気な態度を取ってすまし顔でいられるんでしょ。ああ嫌だ嫌だ、なまじ美貌を持つものじゃないねえ。綺麗な顔を武器にして遊ぶ分には困らないだろうけど、たった一人の人を見つけられないとは、おお、可哀相なこと。そういうことなら、初めから私たちに譲ってくれても良かったものを、本当に腹の立つ女」
 そんなことが椿希の耳に入らないようにしたかったけれど、時折わざと声を大きくして聞こえるように言うものだから、椿希も顔を硬くさせたが、一切の反論をすることなく耐えていた。椿希の病気が何であるか分からないけれど、入院しなければならないほど追い詰めた心無い女子学生たちのせいで、病をさらに悪化させたのではないかと、ひそかに噂し合っていた。
 茉莉はそんな噂を許すことが出来ずに、無鉄砲に立ち向かって反論してはその女子高生らの目のかたきにされ、返り討ちに遭って何度となく悔しい思いをしていたものだった。そんな茉莉のことを、ゆり子は大人しくしていればいいものを、突っかからずにはいられないのを馬鹿らしいと思っていたけれど、その反面、味方が少なくても立ち向かおうとする正義感の強さを、少し羨ましく思っていた。
 椿希の入院した病院も、妥子が椿希を陰険な言葉で責め立てた者が塾内にいるから、押しかけてきてまた嫌味でも言うかもしれないから、と言って、誰にも教えようとしなかったものだった。人の口に戸は立てられぬというし、確かにもっともな意見だけれど、それでも高校一年生の頃には同じように机を並べて親しく付き合っていたのだから、と思うと水臭いことであった。
 「胃腸の病気でね、数週間程度の入院期間みたい。ああ、きっと誰かさん達があらぬ噂や身勝手な空想を吹聴して回ったのが、病気にとどめを刺したんじゃないかしら。染井の彼が知ったら、またあのときみたいに激昂するんじゃないかしら、下手すると女であっても手をあげるかもね」
と、ちらちらと妥子がわざと周囲を気にする風を見せながら言うと、決まりの悪そうにその女子集団も隅の方で身を縮めている。妥子は普段はそんな嫌味たらしいことや皮肉めいたことを言うような人柄ではなく、何事につけてもはっきりと面と向かって言うので、それが潔く思えたものだけれど、心底腹が立っていたのか、わざとそういう意地悪っぽく言ったのだった。
 何が原因と決められるわけではないにせよ、時期が時期であっただけに、そんな悪口も入院の一因であったかと、次第に誰もが思ったようであった。だが、それも一時的に反省した態度を見せただけだったことが、茂孝の登場によってまた悪口が再燃したことで分かったのだけれど。
 嫉妬とはかくも醜いものであるのに、それを方々に放たなければ気が済まなくなるとは、なんと恐ろしいことか。葵生がいた頃にはこんなことはまだいくらか抑えられていたのに、葵生が去ってからはあからさまに悪辣な遣り方で椿希の評判を落とそうとするのだから、ほかの学生たちは皆、心の底では椿希に同情したり仕掛ける者たちに呆れたりしていたのであった。

 そんなことがあったと振り返ると、ゆり子はノートに走り書きされた筆跡を見詰めて、その文字を指でそっと撫でた。色めいたことが書いてあるわけではなく、簡単な試験を学生同士がお互いに添削をしたときに、講師が解説したものを赤ペンで書いたものであった。達筆には程遠く、癖の強い字なのだが、その文字を見ては胸が高まっていくのを、ゆり子ははっきりと感じていた。
 理想の恋人といえば夏苅葵生の名を出すであろうと思っていたゆり子が、知らぬ間に胸をときめかせるようになった相手とは、全くそれまでは恋愛対象としては見ていなかった山城桂佑であった。
 どこか葵生に似ている、と思っていたけれどはっきりと分からなかった。容貌も成績も上品な身のこなしもまるっきり違うというのに、どうしてか似ていると思うことがあった。きっかけは似ていると感じたことだったのかもしれないけれど、意外と周囲のことを見ていて理解していることや、進路についても昼行灯のような風を見せて、実はしっかりと考えていたりと、ゆり子は次第に桂佑に惹かれていったのだった。
 仄かな思いが恋心へとはっきりと変わるのにそう時間はかからず、共に受験生として歩むことが出来るのが嬉しかった。共に机を並べて授業を聞き、分からないところは互いに教え合って大学合格を目指すのが、辛いはずの受験勉強にも光が差すようで、どうにか乗り越えられそうな気がしていた。
 志望大学は異なっていたけれど、それでも互いに目標とするところを目指すという共通点があるからこそ、思いもさらに強くなるというものであるのか、ゆり子の勉強が捗ると共に桂佑への思いは抑えがたくなりつつあったのだった。
 だが、椿希の言っていた「引き止めるのは私たちのため、合格へ最も近い道へ見送るのは葵生くんのため」という言葉が胸に深く刻まれ、自分に置き換えて「思いを伝えるのは私のため、今のまま見守るのは桂佑のため」として、やはり思いを伝えるのは止そうと思っていた。静観してしまうことで、他の女に持っていかれてしまうのではないかという懸念も多少はあったけれど、今は受験に集中しようとしている桂佑を見ていると、恋愛に現を抜かすようなことはないだろうと、自分の選択を信じることにしたのだった。

 もう私立大学に進学することで割り切ってしまったからこそ、ゆり子は文系科目ばかりをひたすら熱心に勉強していた。学校の授業では単位の都合もあって生物の授業があったけれど、そちらは疎かにしてしまって、苦手な英語と日本史をどうにかして克服しようとしていた。
 受験生になってからは他人のことを思いやる余裕があれば受験勉強に打ち込め、といった風潮があるのですっかり茉莉との付き合いはご無沙汰になってしまっていたが、ゆり子はそれとなく茉莉のことは気に掛けていたのだった。
 茉莉は大学への内部進学をすると宣言してからは塾に来ることも少なくなっていて、たまに顔を見せるけれど、すっかり気まぐれになってしまっているので心配していたのだった。学校で会うにしても、クラスの中でも内部進学する者と他大学受験する者と別れて固まることがあるので、話しをすること自体が確実に減っていたのだった。
 他大学受験を目指す者にとっては、内部進学するつもりで悠長にしている者たちがのんびりとしていて、流行の言葉遣いで大声で騒いでいるのや身なりをしているのが気に食わないし、音楽や映画を鑑賞した感想をはしゃぎながら言い合っているのが受験勉強の妨げになるとして苛立っている。
 また、内部進学をする予定の者に言わせれば、何故内部進学をしないのか分からないので、緊迫した寝不足顔で悲壮感を溢れさせているのかが分からないでいる。
 どちらの言い分ももっともなことだが、こういったことはどちらにとっても居心地の悪さばかりが感じられて、可哀相なものである。
 すっかりご無沙汰になってしまった二人の間柄だが、ようやく塾に来た茉莉を捕まえて、ゆり子は話をすることが出来たのだった。特にこれといった用事はないのだけれど、ただ長らく付き合っていた友人との関係が一時的かもしれないとはいえ、冷えたもののままでいるのはとても気まずいと思ったのだった。
 だが、久々に話そうと思った矢先に茉莉からは、
 「そこまで勉強して一体何になるつもりなの。私たちみたいな中途半端な学力の人間が一体社会の何の役に立つのか分からない。大学に入ったところで碌に勉強もしないで必要な単位だけ稼いで、親の脛を噛じって遊んでばかりなんて無駄もいいところじゃない。だったら高校卒業したらすぐに働くなり専門学校で手に職つけるなりした方が、よっぽどましだよ」
と、興奮したように捲くし立てられたので、ゆり子はもうすっかりうんざりしてしまって、呆れて物も言えない。だがしばらくして授業中にも茉莉の言葉が何度か心の中で繰り返されたところ、茉莉の言うことも一理あると思って、気が重くなってしまっていた。
 もし、桂佑が大学受験をしないと言っていたなら、こんなに過酷な受験勉強をすることもなかったかもしれないし、茉莉の言うような考えに至っていたかもしれないので、ゆり子はつくづく流されやすい自分の性格を嘆いては、芯の通らない動機をどうやって筋を通すかで鬱々と考えていたのだった。
 さてその一方で茉莉はというと、まさか葵生に会っただなんて言うことも出来ずに、人知れず秘めたる思いの遣りように困り果てて、消沈してしまっていたのだった。

 しばらくして、統一模擬試験の結果が返ってきたので、また例によって掲示板に成績上位者が張り出されることとなったのだが、文系三科目において椿希が初めて上位五名の中に入り、総合成績では元々化学が得意だったことや苦手としていた数学が伸びたこともあって、五科目全てにおいても非常に良い成績であった。
 聖歌隊を受験のために辞めなければいけない悔しさもあってか、その分を勉強に費やすようになった椿希が本領を発揮するとさぞかし手強いだろう、とは成績優秀者の間では専らの評判だったが、その予想通りにしっかりと好成績を修めたのは流石であった。
 「おめでとう。すごいね、椿希ちゃん。流石にやっぱり受験勉強に専念するようになると、こんなに伸びるなんて」
と、英語の授業の日の休み時間にゆり子が声を掛けると、椿希は少し照れたように「ありがとう」と言った。嬉しかったのだろうか、表情を隠すことはなかったけれど、遠慮もあってか表立ってそのような雰囲気は見せない。
 久しぶりに見た椿希は、短くした黒髪もいくらか伸びているのがとても新鮮で、さりげなく耳にはらりとかけているのが上品で美しい。未完成の顔立ちが少しずつ大人びてはっきりとしてきたのが、清らかで愛らしく親しみやすいような雰囲気から、匂い立つような華やかさを纏うようになって同性ながら見惚れてしまいそうで、ここに葵生がいたならばとつい思わずにはいられなかった。
 「ついこの間までは、必死で頑張れば、もしかしたら椿希ちゃんの一歩後ろくらいの成績くらいは取れるかもしれないと思っていたのに、もう手も届きそうにないなあ」
と、ゆり子は苦笑いしながら言ったものの、本当はそんなことは露ほどにも思っていなくて、椿希が全力を傾ける以前から既に歯が立たないだろうと思っていたのだから、こんな台詞は友人同士の冗談に過ぎないのだった。ここのところ勉強は一応しているが、様々に悩んでいるためか実力をいま一つ発揮出来ずに終わった模擬試験の結果を見て、嘆息しながら思っていた。
 「ゆり子、成績どうだった」
 桂佑が自分の成績表と交換しようと言わんばかりに差し出したので、ゆり子は少し戸惑いながら交換した。どきどきしながら見ると、桂佑の成績も自分のそれと大して変わりはなく、今のままだと少々高望みだが、そういうことならいっそ同じ大学を目指そうかと、またも心が揺らいでしまう。同じような成績の者同士、切磋琢磨しながら勉強していけば、夢も夢でなくなるのではと思って、それを桂佑に提案してみようかと考えていた。
 一方の桂佑もまた、何か言おうとしていたが、それは休憩時間が終わって講師が教室に入ってきたことで遮られてしまった。ゆり子は気付いてはいたけれど、授業を聞いているうちにすっかり忘れてしまっていて、結局訊ねることもなく受験生としての日々をしばらく過ごすこととなったのだった。


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