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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第62回   第二章 第十二話 【萌芽】1
 長らく月下美人の女の元を訪ねていなかったので、葵生はそろそろ会いに行こうかと思っていたけれど、やはりずっと椿希のことが忘れられないのか、なかなか決心もつかないでいるのだった。一応高校生だし受験生なのだからと、女の方も気を遣っているのか、「会いたい」とは言わないけれど、やはり寂しいのか、忘れないで欲しいというようなことは、時折葵生の胸板に頬を寄せながら言っていたので、葵生もそれを覚えていて訪ねる気になったのだった。
 近頃は長居することもすっかりなくなってしまったので、葵生がそろそろ受験生らしく勉強に取り掛かるようになったのかというとそういう訳ではない。学校が終わると予備校には一応行くが身が入らず、過去の試験問題の解答の解説された板書を書き留めるのみであった。自宅での勉強も、机に向かって本を開いてはいても、目が文字を追ってもさっぱりと頭に入ってくることがなく、ふとした時にあの時彼女はどうしていたかと思い出を蘇らせるばかりであった。
 気分転換と言っていいものかどうか分からないが、このままの思いで過ごすのはあまりにも不毛であるし、月下美人の女も放っておいて良いとは思えないほど情もあるものだから、葵生はここでひとつの思いの区切りをつけようと思っていたのだった。
 その日は日曜だったので学校はなく、朝から電車に乗って女の住む町へ発った。このまま電車で乗り過ごせば予備校には着くのだが、途中で気が変わって予備校に行くことのないようにと、初めから勉強道具の一切を持って来なかった。受験生としてはあるまじきことなのだが、葵生はもう既に十分受験生らしさを失ってしまっているので、多少の後ろめたさはあるものの、さっぱりとした顔をしていた。
 電車を降りてすぐに、まさかこのようなところに椿希がいるわけがないけれど、いないかどうかきょろきょろと周りを確かめてしまった。彼女に会えるのなら嬉しいし、今度こそは手放すまい邪魔をされるまいと誓っているけれど、この場所柄ばったり会うのは気まずいだろうと思って、ついこそこそと身を潜めるようにしてしまう。
 季節は春と夏の入り混じったぽかぽかと暖かい陽気で、空に浮かぶ真っ白い雲がまるで洗った後のようにたなびいている。新芽の萌え出ずるのがそこかしこに見え、太陽を背に浴びてじんわりと包まれるような温かさが、何故か椿希が後ろからそっと抱き締めてくれているような気がして、胸のあたりに彼女の細い腕がすっと伸びたような感覚から、無意識のうちにその腕に触れようと手が触れようと動いていた。だが当然それは彼女の腕であるはずもなく、空を掴んだ葵生の手は虚しくそのまま握る格好となってしまい、そのまま自分の胸に握った手を当てた。
 思いを伝えられなくても、初めて彼女に触れた日のことを思い返せば、今でもあの夢のような出来事がありありと目に浮かぶようで、掻き抱いた時の感触や髪の艶や質感などが忘れられず、夢で会えたらと思うがなかなか現れてくれない。街の若葉や新芽が瑞々しいのを見るにつけても、活き活きと快活だったあの胡蝶の君のことを思い出してしまい、それに引き換え自分はこの様だと、返す返す情けなくなる。
 そう思うと、月下美人の女の元を訪れるのも気が引けてしまうけれど、会えない寂しさを耐えているのはとてもいじらしく思え、また葵生も思う人と会えない寂しさをよく知っているので、様々に思いが渦巻いてはいるものの、やはりこのまま見過ごすことは出来ないと思ったのだった。
 突然の来訪に女は驚いた様子で、服装も部屋着で髪も乱れ、化粧は全くしておらず素顔のままであったので、恥ずかしそうに顔をあまり見せないようにしながら葵生を迎え入れた。女が慌てて着替えて化粧をしようとするので、
 「いや、そのままにしていてくれ。前々から言おうと思っていたんだけど、化粧をしているよりも今の方がずっとさっぱりしていていいから。俺のためにって無理して飾ろうとしないでくれ」
と言って、乱雑に置いてある雑誌や小物を掻き分け、床を作って座った。化粧をしない方がいいと言ったものの、やはりほんの少し薄く化粧をするのは賛成なのだが、いつも目張りをはっきりと太く入れて瞼の上を塗りたくり、睫を太く伸ばすのが、なんともお面を付けているようなので時折恐ろしく見えて、それならばいっそのことありのままでいてくれたら、と思ったのだった。
 「髪だけは梳いた方がいいかな」
 そう言って、葵生は櫛を取って女の髪を梳いてやると、寝癖であちらこちらに跳ねていた髪がいくらか落ち着いて、幾度となく繰り返した染髪のためにすっかり傷んでしまったのも、少しは艶が見えたような気がした。
 「やっぱり、あまり派手すぎるには似合ってないかもしれないな。髪も、化粧も、服装も、見た目は悪くないのに、自分の似合う格好が分かっていないのだろうか。きっとこの女性(ひと)も、髪を黒っぽく戻して化粧もうっすらとさせて、そんな二の腕や太腿を剥き出しになんかしなければ、きっとそれなりに美人だろうに。その点、あの椿希といえば音楽をはじめ芸術全般に造詣があって感性が優れているからか、自分の似合うものをよく理解して、ほんのちょっとしたつまらないような小物でさえも彼女は工夫して身に着けていたものだった。ああ、やはりああいう人はそう多くはないんだな」
と、心の中で椿希と比べてそっと溜め息を吐く。
 女は葵生に見られたくない姿を見られてしまって、嫌われはしないかと気まずそうにしている。
 「来るなら来るって言ってくれれば、準備もしたし、久しぶりに外に一緒に出かけられたのに」
と、悔しそうに言うので、
 「悪いな。俺も急に思いついたものだから」
と、葵生もすまなそうにしている。
 「来週には髪をちゃんと黒く染めなおさないといけないんだ。面接があるから」
 それまでは派遣社員として勤務していたのを、今度はいよいよ正社員として働き口を探していたのだった。夫だけの収入では足りないといつもぼやいていたが、まさか本当に正社員で仕事を探そうとするとは思っていなかったから、葵生は驚いていた。
 「じゃあ、お互い忙しくなるんだな」
 少し安心してしまったのが声色に出なかったかと案じたが、女には分からなかったらしく、「そうだね」と言ってまた寂しそうな顔をしている。そして何か言おうかと、口を開けては息を呑んであれこれ考えて迷っているようなので、葵生がそっと肩を抱いてやると、言った。
 「葵生が大学進学するつもりでいるのは分かっているし、きっと私なんか到底及びもしないところを目指しているんだと思う。私は葵生と比べても不釣合いなくらい、見た目も中身も顔立ちも、自慢出来るところなんてないけれど、聞いて欲しいことがあるんだ。
 私は高校も偏差値の低い学校に通っていて、それは多分葵生にはとても想像がつかないくらいの有様だったと思う。体育館の裏では不良たちがとぐろを巻いて、とても言えないような悪いことをやってた。廊下の硝子はほとんど割られていて、補修が追い付かないからって冬場は寒くて仕方なかったくらいよ。そのせいで警察沙汰も珍しくなくて、停学なんて可愛い方で、いつの間にか転校したり退学したりっていうのもあった。私はよく家出をしたから家族や警察には迷惑をかけたけど、それ以外の人たちに対してはやっていいことと悪いことを弁えていたつもりだったと言えるよ。退学したいと思ったことはよくあったし、鬱陶しいしむしゃくしゃするから、わざと教師殴って騒ぎを起こしてやろうかとも思った。
 これ以上あんまり言うと、私の学校の名が傷つけられるから控えたいんだけど、とにかくそんな風だったから、とても進学なんて考えられる状況じゃなかったんだ。ほとんどが就職するけど、それも長続きしないでさっさと辞めてしまうらしいと聞いた。勉強したくないから、短大や専門学校に行こうっていう気概のある奴なんて、少なかったよ。さっさと働いて金稼いで、好き勝手気ままに生きて行けりゃいいって思ってたんだよ。私もそう思ってた。
 けどさ、その時付き合ってた彼氏が専門学校に行くっていうから、私もそれじゃ進学しようかなって思って、つられて進学しちゃったんだよ。あれは全く馬鹿なことをしたと思ったよ」
 葵生は女の肩から腕を外し、そのまま床に腕を突いた。そういえば女の過去を知るのは初めてだったと思うと、やや俯き加減になりながら、じっと耳を傾ける。
 女の語りは、一息も吐かずに続けられた。
 「初めは同じ学校に行くつもりだったんだ。だけど、彼氏が願書を提出する直前になって、急に短大に行くって言い出して大慌てだったよ。私は慌てて受験勉強をしたものだよ。まあ、葵生が勉強しているのに比べれば大したことないと思うし、簡単だろうし倍率も遥かに低いと思うけど、それでも私なりには大変なことだったよ。今まで碌に勉強して来なかったからね、あの時ほど後悔したことはなかった。だけど、試験まであと少ししか時間がないっていうことで、かえって集中して勉強出来たのが良かったよ。あんなに机に向かって勉強したのなんて、人生でもうあれが最初で最後のことだろうね。
 結局、短大には私だけが合格して彼氏は不合格だった。それで気まずくなってね、高校卒業する時にはもうとっくに別れてたよ。あいつは私が合格して自分が落ちたのが許せなかったみたいでね、相当悪態吐いてたし、いろんな奴に私の悪口を言って回っていたよ。あんなに好き合っていて、周りからも散々冷やかされてたし、身も心も通じ合っていると思ってたのに、結局あんなひどい別れ方をするだなんてね、今でもひどいって思うよ」
 葵生は肩膝を抱えるようにすると、膝に顎を乗せてぼんやりとしていた。
 「私が言いたいのはね、誰かに流されて進学するのって何か違うんじゃないかってことなんだ。誰かがそうするから受験をしたって、相手が合格して自分が滑った場合は、きっと妬いてしまって友情もあったもんじゃなくなる。そういう思いになるくらいなら、私は受験なんてしなくていいって思った。私は特に目的もなく短大に進学したから、単位取るためだけに学校に通ってたようなもんだし、碌に就職活動だってしてないんだよ。短大の友達で何かやりたくて入学した子は、見た目は私とおんなじで派手でやってることは本当馬鹿なんだけど、ちゃんと勉強してやることやってた。それに比べて私って何なんだろうって、いつも思ってた」
 情趣ももののあわれもよく分からないだろうと見下していた女が、しみじみとこんな風にしおらしく自分のことを省みて言うのが、とても珍しくも驚いて見ていた葵生は、女の背をそっと撫でてやりながら、
 「俺は俺なりに一応考えて大学に行こうと思っていたんだけれど、確かにこれといった目的もなく進むのは違うような気もするよな」
と、慰めたのだった。素顔のままの女の目にうっすらと涙が浮かぶのが、今までに見たことのない純粋な本当の女の姿を見えたような気がして、葵生も胸を打たれて撫でる手込められる思いも深まるようであった。
 もし出会うのが椿希よりもこの女の方が先であったなら、この女を愛しく思ったのかもしれない、と葵生は思うにつけても、やはり縁の深さというものは人知を超えるものがあるようであった。とはいえ、女が先で椿希が後であっても、きっと自分は椿希に惹かれていただろうとも思う。
 椿希との間に交わした大学でまた会おうという約束があるからこそ、中途半端に細々と勉強を続けているのだということは、胸にしまっておくべき秘密のことであったので言わないでいた。あの塾生たちに刺激されて、忘れかけていた夢が思い出され、やはり大学に進学しようと思ったのだということを、この深く傷ついて未だ癒されていない心のままでいる女には話さない方がいいと思った。
 それから二人はしばらく会えなかった分の思いを埋めるように語らい合い、どちらからともなく千々に乱れる思いを誤魔化そうと、身を委ね合ったのであった。しかしそうしていても、二人の間には隔たりが出来ていたことを、いつからか感じていた葵生は虚しさばかりが後に残り、あの歌姫との名残を思い返すことで、どうにか心を保とうとしていたのだった。ちょうど折も折だったので、歌姫の姿が瞼の裏に鮮やかに蘇り、またあの歌を聴きたくて思い出そうとしたが、もう彼女の声すらも遠い昔のことのように思えてしまう。
 やはり行くべきではなかったかと、帰る道すがら口惜しく思う葵生だけれども、女の珍しい物思いの耽りようや思いの深さを知ることが出来たので、全くの無駄足ではなかったと思い込むことにした。だが、この女との関係もこれからどうするかを考えなければならない。
 女の真意は分かったつもりでいるけれど、今のままでは到底及ばないと分かっているにせよ、やはり医師になりたいと思う気持ちは強く、そうすることが椿希とを結びつけるたった一つのもののように思え、変えるつもりはなかった。
 それに、女との関係をこのまま続けるのは倫理的に良くないことだとも分かっている。いくら冷え切った夫婦仲とはいえ、やはりこれは不倫の仲なのだから。この関係が露呈したときに夫から訴えられるかもしれないという危険性を孕んでいるのを承知でいるけれど、頭で理解しているのと実際に起こったときの状況は異なっていることが往々にしてあるのだから、やはりもう、これ以上深入りしてはいけないのだと葵生は思った。いくら、椿希に会えないからといって、彼女があのときついて来てくれなかったからといって、自暴自棄になってまさかこのようなことをするとは、葵生自身でも思っていなかった。寂しかったから女と付き合っている、だなんて言っても、それは二人の間でだけしか通じない理屈なのだ。このままだと椿希に合わせる顔がない。
 このままでいられるわけがないのだと思うけれど、そうは言っても女を見捨てるわけにもいかず、自分の乱雑な考えを纏めてから、また一度じっくりと話し合う機会を設けなければいけないと、あの日と変わらぬ星の見えない空を見上げながら思っていた。
 あの星屑を見上げたのは、一年と少し前のことだった。都会の中では見えないような光しか放たない星が無数に宇宙にあって、きっと自分たちもその一人なのだろうと思う。綺羅星に輝くことが出来るのはほんの一握りの人間で、社会から注目される有名人にたとえられるだろう。星が見えない。だから、彼女がどこにいるのか分からない。葵生は溜め息を吐いた。
 「本当に、馬鹿なことをしていると思う。母に近い年齢の女と付き合って、椿希を裏切るようなことをして、一体何をやっているんだか。どうせなら、椿希を掻っ攫ってしまおうか。そうして、もう世間のわだかまりからも、喧騒からも無縁の世界へ行ってしまいたい。椿希さえいれば俺は満足なのだから」
 そう思いながら、彼女の顔を思い出そうとしたけれど、ぼんやりとしか浮かんでくることがなく、「それほどまでに彼女は俺に姿を現すのを嫌っているのか」と、また自嘲するのだった。


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