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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第61回   第二章 第十一話 【幻想】4
 そんな笙馬を見ながら、茂孝はふと思いついたことがあって、妥子も椿希もいない高校で笙馬のいる教室へ行き、呼び出したのだった。同じ学校同士であることは互いに知っていても、光塾の塾生になるまでは会話することもなかった間柄だったので、なんだか奇妙な感覚がした。
 「生徒会副会長、お忙しいところ申し訳ない」
 などと言っておどけてみせた茂孝に対して、笙馬は少しやれやれといった表情で薄く笑っていた。
 「いや、少し聞いてみたいことがあってね。染井の君とか言う人のことなんだけど、彼の本名を知りたいなと思って。伝説になるような人だから、さぞかしと思ってね。模擬試験の全国ランキングにでも載っているんじゃないかと思って、探すつもりでいるんだ。いいライバルだと思っていたのに、塾にいないんじゃ話にならないから、せめてその人の名前を知って、後を追いかけたいなと思っているんだ」
と言っているけれど、まあ、意図するところは流石の笙馬でも感付いていたので、
 「さあねえ、そうは言ってもやっぱりあいつは理系で加賀は文系なんだから、比べたって仕方ないだろうな。染井の君は確かに光塾にいたときにはそういう全国の成績優秀者の表にも、毎回名前が載るほど上位にいたけれど、最近見かけなくなったところを見ると、実は伸び悩んでいるのかもね。僕みたいに」
と自嘲しながら言った。茂孝は何故こんなに皆は染井の君の正体を隠したがるのだろう、そういうことならますます知りたいじゃないかと思って、むきになって引き下がろうともしない。
 「名前はともかくとしても、どのあたりがどう凄かったのかを聞かせてくれないか。そうでなければ、気持ちが落ち着かなくて受験勉強にも身が入らない」
 そんな風に迫るので、笙馬はうんざりしながらも、そういうことならとくと知らしめてやろうという気になった。
 「染井に通っていた頃、順位は光塾において総合成績一位から一度も譲ったことがなかった、数学もほぼ毎回一位だった、全ての教科において不得意科目がなかった。このあたりはもう加賀も聞いて知っていることだろう。そのほかで言うと、まるで何かに魅入られたかのように色っぽい奴だったよ、男のくせにね。時々女のようにも見えるくらい整った顔立ちをしていたけど、あの切れ長の涼しげな目元は男っぽくてすごく羨ましく憧れたものだよ。普段無口なくせに、妙に熱くなるところもあったりするんだな。スポーツも得意だったようだし、一体あいつのどこに不足があるのかと皆は言っていたよ」
 そう言いながら、本当に葵生は自分とは比べ物にならないほど才気のある男だったと振り返って、情けなくなるのだった。茂孝は指を顎に当てて何か考える様子だった。
 「まあ、一般的な俺と比べても栓のないことなんだろうけど、それでも欠点のない人間なんているわけがないんだから、そんな染井の君にも弱点はあったんだろうね。そういえば椿希と噂になっていたって聞いたけど、そのあたりはどうなんだろうね。椿希に色々聞いても上手くはぐらかされてしまうし、あまり訊ねすぎても嫌われてしまうからと思って遠慮したんだけど、やはり椿希ほどの子が認めた人物は気になるね。相楽さんも染井の君のことは少なからず認めていたようだし」
 饒舌に遠慮なく言う様子は葵生とはまるで違う、と笙馬は思いながらも、思わぬところで妥子の名前が出たことに不快感を覚えていた。
 「ああ、そうだね。確かにあいつと椿希ちゃんは傍から見てもお似合いだったし、一緒に話しているのを見ると、絵になる二人だったよ。何せ美男美女同士なわけだから。でもそれ以上だったのかは分からないな、僕にはあくまでも同志としての関係だったように見えたけど」
と、わざとはっきりとは答えなかった。
 笙馬の性格からして意地悪で言っているわけではないと思いたいけれど、こうも皆が皆、染井の君のことや椿希との関係を言いたがらないのが何故なのか分からなくて、なんだか気持ちの悪さだけが残るばかりであった。

 夏ももうまもなく始まろうという頃になると、最後の夏服への衣替えでカッターシャツに袖を通す。だがまだ半袖には少し早いのか、天候によっては肌寒く感じられることもあり、だからと言って学生服だと少し暑いので、調整の難しい季節である。
 しとしとと降る雨は、時折風の影響を受けて殴るような強い勢いを持ち、墨をつけたような灰色の空は心模様をそっくり映し出したようである。学校の花壇の青や紫の紫陽花が、雨に濡れてしっとりと粒を受け止め、やがて土へ滴を落とすのを飽きもせずにぼんやりと見詰めてしまう。
 受験生であるけれど、このような風景を見ていると、なんだかそういう争いの中に身を置いているのを忘れるような心地でいられる。笙馬のほっそりとした華奢な体は、その景色に溶け込みそうなほど儚げである。
 授業が終わって担任教師に呼び出されて、あまり進路の話はしたくないのだけれど、と思いながら職員室へ向かっていた。廊下を歩きながら、相変わらず止まない雨を見ながら、このまま止まなければいいのに、そうすればずっと梅雨のままで受験なんて来なくて済むのに、と考えてしまうのは笙馬だけのことであろうか。
 渡り廊下を通るときに冷たい風が横から吹き付けて、剥き出しの腕を震わせた。運動場が雨で出来た水溜りによって池のように見えるけれど、泥が混じった色はなんとも汚らしくて目を逸らしてしまう。雨音が色々と考えるのを雑音として妨げるので、少し気持ちが落ち着いたところで、職員室へと辿り着いた。
 担任教師は笙馬が来たのを認めると、職員室の一角に呼んだ。パーテーションで仕切られただけのそこは、教師同士の打ち合わせによく使っているのだろうか、壁に小さな本棚があり、そこに教育関係の書籍や資料などが並べられており、大学や短期大学の進学実績や専門学校の資料がファイルに綴じられていて、やはり呼び出されたのは進路のことかと、笙馬は覚悟を決めた。
 教師が資料を持って来たのを見て、笙馬は姿勢を正した。
 「そんなに緊張することはないよ。今日はいい話をしようと思ってるんだから」
と、教師は笑った。笙馬はそれでもなお顔を強張らせたままで、可哀相な様子なので、教師はある大学案内の資料を見せると、微笑みながら言った。
 「綾部にひとつ提案しようと思うことがあるんだが、この大学でAO入試、アドミッションズオフィス入試というのが始まるんだが、受けてみないか」
 笙馬は怪訝そうな顔をして、首を捻った。推薦とはまた違うのだろうか。指定校推薦を取れるほどの成績は取れていないので、まず推薦を持ち出すということはないだろうと思うと、AO入試とは何なのかと考えてもそれが何なのか思いつかないでいる。
 教師はそのAO入試とは一体どういう制度による入試形態なのかを、丁寧に笙馬に説明した。もはやすっかり馴染みになってしまったこの形態も、まだ制度が浸透していないその頃には、その言葉を聞いてもすぐに何のことなのか結びつかなかったのである。
 「要するに、一芸入試ということですか」
 笙馬が頭の中で纏めたことを言うと、
 「少し違うけれど、まあお前の個性を大学側が見て、それで大学の学風に合っているかどうかで合否判断をするというわけなんだ。これは先生だけじゃなくて、他の先生方も綾部ならこの制度でも十分に合格出来ると思っているんだ。生徒会の副会長として、本当によくやってくれていたからな」
 進路を変更せよ、と言っているのだと察すると悔しい気持ちでいっぱいになり、笙馬は俯いて資料をじっと見詰めた。その大学は私立大学の中でも名門とされる大学で、確かに一般入試で受験をしても合格するかどうか分からない。妥子が滑り止めにこの大学を受験するつもりでいるようなことを言っていたことを思い出すと、感情は悔しさよりも惨めさが勝り、笙馬は体内がかっと燃え上がるような感じを覚えた。
 「先生、やはり僕は進路変更をすることは出来ません。この大学は、志望校のひとつとして考えていますが、あくまでも第一志望はあの国立大に行きたいんです。今までは色々と迷いがあって勉強に身が入らないでいましたが、これからは心を入れ替えて頑張りますから」
 心ならずも懇願するような口調になってしまったけれど、勢いに任せて言い切ったので、顔を上げて教師を見据えているのが、腹を括ったようである。
 「綾部、お前も分かっているだろうけど、あの大学はここの辺りの地元の学生だけが受けるような大学ではないんだぞ。高校受験と違って、全国の学生を相手に戦うことになるんだ。ましてや、現役生だけじゃない。何年浪人してでもあの大学に入りたいと思っている人だっている」
 教師が生徒のことを思ってそう言うのも、もっともなことである。とかくこのように若く青いうちは、理想に向かってひたむきになることが出来る反面、もっと大切なことに気付くことなく邁進してしまって、後になって後悔して嘆くことが多いので、何十年と教師を経験していれば学生の性質に応じて諭してやるのは当たり前なことであった。
 笙馬も教師の言うことが理解出来ないわけではないけれど、何しろまだ十八歳、どちらが正しい選択か分かっていても自分の思い描いた道を選ぶ方を優先したいという思いを抑えることが出来ない。
 笙馬は深々と頭を下げると、「考えさせてください」と言った。そうは言ったけれど、変えるつもりは毛頭なく、一層国立大進学への思いが強まっていたので、一旦この場から離れるために言い繕っただけである。
 「まあ、いいだろう。だが、一度ご両親と考えてみなさい」
 教師は溜め息を吐くと、笙馬の退室を許した。教師として進路指導をするのは当たり前のことなのだが、素直にこうした方がいいのではと言って変更する学生の方が珍しいので、こういったことには慣れているものの、笙馬は教師の中でも特に評判が良く、多くいる学生の中でもこういった入試形態を勧めるに足る人物だからこそ、惜しいと思っていた。当事者はまだほんの子供で、自分ではもう大人だと思って視野が広がったつもりなのかもしれないけれど、柔軟であるとはとても思えない。この教師の思いに、笙馬が気付くことはあるのかどうか。
 雨脚はさらにごうごうと強くなり、校庭の周りの木の枝がぶんぶんと乱暴に揺れているのを見ながら、担任教師の前で大口を叩いてしまったことを悔やんでいた。こんな姿を友人たちに見られるのは決まりが悪くて、教室に程近いが人気の少ない階段の踊り場に突っ立ったまま、窓の外を見詰めながら思い悩ませていた。
 本当なのかと量りかねていた国立大学に行きたい気持ちは、先ほどの会話ではっきりと分かったけれど、実力が追いつかないというのは痛い。浪人生の方が現役である自分よりも遥かに底力はあるだろうし、全国から優秀な学生が受験しに来ることを思えば、途方もない気持ちになって、やはりAO入試というものに挑戦してみるのもいいのではないかと、迷い心が目を覚ましそうである。
 私立大学へのAO入試は逃げではない、ということを教師は言いたかったのだろう。だけど、このまま妥子に負けたまま大学生活を過ごすことも耐え難いだろうし、たとえ結果的に国立大学を落ちてしまっても、やりきった結果だと思えばまだいくらか気持ちが救われるのではないだろうか、などと少し冷静になってみると、新たな考えも思い浮かぶようであった。

 すっかり困り果てて、投げやりになってしまいそうな有様だけれど、あまり無様な姿を見せるわけにもいくまいと、笙馬はどうにか気を保っているが、心の内をつまびらかに曝け出せるような相手はおらず、すっかり落ち込んでしまっている様子である。
 妥子があまりにも優秀すぎるので、こんな風に思い悩んでいることを打ち明けるには、男としての気持ちから情けなく思えて言えないままであるし、また一方では妥子を頼りにしたいという思いもあるので、自分のことながらつくづく嫌な性格だと、蔑んでしまうのであった。
 こうなった以上、妥子に相談するよりはと思って、わざわざ桔梗の教室を訪ねて相談するようになっていった。受験の悩み事なら同じ文系の茂孝にしたほうが、より適切に答えてくれるだろうと思ったが、他ならぬ笙馬の相談とあれば、さぞかし何か訳があるのだろうと察していた。
 「妥子も椿希ちゃんもしっかりした目標がある。桔梗だって、立派な目標がある。それぞれ理由があって行こうとしているのに、何もない僕は一体何のために大学に行こうとしているのか分からなくなってしまった。たとえ不合格になったとしても、目標に手が届かなかったというのなら、その時は辛酸を味わうにしても、何も目標なくただ落ちてしまっただけに比べたら、遥かに意義があるんじゃないだろうか」
 そんなことを、何日も何度も話したようであった。
 「話すことで楽になることだってあるだろうから、俺で良かったら話してくれたらいいよ」
 繰り返し同じような迷いごとを言っていたにも関わらず、桔梗がそのように言ってくれると、いくらか救われた気持ちがして、笙馬もあまり思い詰めずに済むようであった。それからも何度も挫けそうになっては、学校で色々と悩みを話しているうちに、少しずつ持ち直すことが出来たような気がした。そうしているうちに距離を置いていた妥子とも、ようやく受験とは関係のない話を出来るようになり、妥子も笙馬が気落ちしていたのは気に掛けていたから、ほっとしている。
 受験とは人の人生の何分の一かを決めてしまう恐ろしいものであるからこそ、このように極度に怯えたり自信を失ってしまう者が、後を絶たないのだろうか。かと言って、機械人形のように自分の意思とは無関係に定められた方向に、ひた走っていくというのも、長い目で見れば幸せだったと言えるだろうか。
 受験に合格すれば幸せで、不合格ならば不幸せだというのは、その時一瞬の時だけで、本当にそうだったかというのはもっと先になってみてからでないと分からない。先々のことで目の前を真っ暗にして落胆してしまうのは、なんと勿体ないことだろうか。
 笙馬はそのように考えるに至り、やれるだけのことをやってみようという気になったのだった。結果は後からついてくるものだろうと、信じている。担任教師からの勧めは改めて後日、きっぱりと断ってしまったので、あとは第一志望校に向けてひたすらに勉強を続けるだけだ。進学校の学生ならば、おそらく誰もが志望校としたいであろう、あの国立大学の受験に合格するためにも、なんとしてもこれからの正念場を乗り切らねばならない。

 笙馬は指定校推薦を受けるつもりはないとはいえ、やはり中間試験の結果があまり思わしくなかったというのは、自信を削がれてしまうことであった。
 いつものような親友同士の気の置けない会話の中で、
 「もう駄目だ。俺は少し頭を冷やして来た方がいいかもしれないな、旅にでも出たい」
と桔梗が大げさに言うのもすっかり周囲は慣れてしまったのだけれど、近頃は全く他人事と思えないので、笙馬が苦笑いしながら、
 「お互い辛いよなあ、本当に旅に出たいよ。逃げられるものなら逃げてしまいたい」
と言った。ずっと相談には乗っていても、笙馬がこのような泣き言を言ったのは初めてだったためであった。
 「葵生ならこんな風には思わないんだろうけどなあ」
 久しぶりに、彼の人の名前を聞いた気がして、染井の君のいた頃をありありと思い出しては、深く頷く。彼ならば、そもそもそのように逃避したくなるような成績と取ることもないだろうし、そんな心境に至ることもないだろうと、二人は思っていた。
 茂孝が彼の人の代わりとなって、光塾の塾生を奮い立たせる人物となるであろうと目されてきたけれど、やはり別人なのだから仕方ないだろう。愛想があって、社交的なのは茂孝の方だというのに、どうしてこんなにも違うのだろうと思うと、言いようのない物悲しさに駆られてしまうようだった。
 こんな風に自分の弱さを棚に上げて他人を当てにしてしまうのは、なんとも情けなく惨めだと思うけれど、そこまで心に風穴を開けて去って行った染井の君の現在の姿を見ると、さてこの二人は一体どのような反応をすることだろうか。
 また、染井の君のことを、日が経つにつれてまるで伝説のように美化されていってしまうのは、染井の君とってとても哀れなことであった。彼がそのことを知ったら、とんでもないと恐縮するだろうか、それとも無表情のまま無視を決め込むか、果たしてどういった態度を取るであろうか。

 今宵も月が出ていつものように星屑が瞬いているのだけど、街の光があまりにも明るすぎて見ることが出来ないでいる。およそ一年前には見ることの出来た、夜空に散りばめられた宝石の屑のような星たちを今は見ることが出来ない。ただ月だけがぼんやりと霞がかって浮かび、時折雲によって隠れてしまうのが、落ち着かない気持ちをひどく刺激して、込み上げて来る切なさによって、なんとなく悲しい気持ちにさせられる。
 楽しかったあの時から既に覚悟していたとはいえ、これほど苦しむとは思っていなかったので、あの星月夜が懐かしさもより一層加わって鮮やかに思い出されるのだった。大学生になればその気にさえなればこういうことはいくらでも体験出来るだろうが、この仲間でというわけにはいかないだろうからこそ、あの時こうしていればといった後悔は尽きないのであった。


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