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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第60回   第二章 第十一帖 【幻想】3
 誰が言い出したのか、昨年の秋に突然流れ星の流れるがごとく光塾を去っていった彼の人のことを、当たり前のように染井の君などと呼ぶようになったのは、一体どういったいきさつがあったのだろうか。以前からもその愛称を、一部の女子学生が言っていたけれど、それがいつの間にか通称のように使われるようになったのは、ちょうどこの頃からであった。
 そういえば彼の人が去ってからというものの、皆どういうわけかその名を呼ぶことを避けるようになり、親しかった椿希や桔梗、妥子などが名前を出すことはあっても、その他の塾生らは揃って『彼の人』と呼び、やがて染井の君と呼ぶようになっていた。以前から学校名やその人の住む町名から『どこそこの君』と渾名して呼んでいたことはあったが、それでも冗談めいていて、名前を伏せる目的ではなかったのだから、染井の君と名づけるに至った経緯とはまた異なっている。
 その染井の君なる人とは入れ違いだったこともあって、加賀茂孝は噂でしか知ることがないのだが、どうやら類を見ない、人を惹き付ける資質を持った人物だったらしいのを聞いて、茂孝はとても興味を持っていた。染井といえば、ほかに日向柊一も塾生としているのだが、それにも関わらず学校の愛称を冠した名がつけられているとは、余程塾生の心に大きく影響を与えたのだろうと思い、それとなく染井の君について柊一やほかの塾生らに、何かのついでに聞いて回っていた。
 塾内で行われた国語、英語、数学の三科目の試験の結果が掲示板に貼り出され、皆は例によって前に群がり、そわそわとした心地で見上げているのだが、そこにいつも一位の常連だった名が、今では茂孝に取って代わっているのが、なんとも言いがたい無常さを塾生の心にもたらしていた。
 誰も言わないけれど、心の中では、染井の君がいたならば、と口惜しいのである。茂孝が彼の人に代わる人だと思われてはいるものの、やはり別の人で、あのように一見華やかで全て備えているようでありながらもどこか常に哀愁を漂わせていた染井の君がいないのが、とても侘しく思えてならない。誰もがその容姿も学業面でも感嘆して目標にしていた染井の君がいないとなると、一体誰を次は目標にすれば良いというのか。世の中にはたくさんの優れた人たちがいるけれど、同級生でありながら心から尊敬し、見上げていたのはかの染井の君一人だったので、言いようのない寂寥の思いでいっぱいである。
 茂孝は、三科目での総合一位を獲得していた。単科目で一位を獲得することはなかったものの、いずれも高得点であったので、それほど気にすることでもないのだけれど、女学院の二人に文系科目はそれぞれ負けてしまったということが、矜持の高い茂孝にしてみれば少し悔しいのだ。
 茂孝がそんな風に自分の成績を振り返っている頃、笙馬はすっかり気落ちして言葉にならないようである。
 「今はそんな順位なんかよりも、志望校に合格する方を考えるべきじゃないの」
 妥子が落ち込む笙馬に言っていたけれど、溜め息ばかりが漏れ聞こえるところから、成績が伸び悩んでいるらしく、声を掛けづらい様子である。笙馬の顔が心なしかげっそりとやつれたようで、ほとんど笑っている顔も見なくなってしまったので、妥子は心配でならないけれど、あまりそれで構うことで笙馬が惨めな思いをするのではと思うと、自分自身でどうにか立ち直ってもらうしかない。
 妥子の方が成績が悪いのであれば励ますことも出来るけれど、そうでないから、何か言うことで偉そうに小賢しい口を利くと言われ、笙馬と喧嘩になるのだけは避けたかった。とかく今は受験生で、誰もが神経質になって気が立っているので、本当は穏やかな性質の人でも苛々としてすぐに衝突しかねないから、そうならないように気をつけねばならない。
 そんなぎこちない二人の様子を見ながら、茂孝は椿希にそっと、
 「染井の君がもしここにいるなら、どの順位につけたかな」
と言ってみた。大方噂で簡単には聞いていたけれど、誰もが実のところを知らず、知っていることも口を軽々しく割ろうとしないのだから、ぼんやりとした像は思い浮かべられても人柄やその言動を知ることが出来るような話を聞くことが出来ないので、茂孝はますます染井の君なる人がどういう人物だったのか、気になって仕方がなかった。
 椿希は茂孝の真意を量りかねているけれど、懐かしく大切な思い出は胸の内にそっと留めておきたいので、
 「さあ、彼と加賀くんは理系と文系で進む方向が違うからなんとも言えないから、どうなるでしょうかね。確かに加賀くんと同じで、どの科目もよく勉強していて誰も敵わなかったけれど、引き合いに出したところで結果なんて想像もつかないわ」
と、曖昧にさも葵生のことなど関心がないよう、さりげない風に言った。茂孝は面白くないと思って、
 「染井の君と一番親しかったのは椿希だと聞いていたけれど、それでも分からないのは残念だな。染井の君という人と一位を争ってみたかったよ」
と、わざと刺激するようなことを言って、もう一度どうなのかと訊ねている。椿希はそれを厭わしく思ったが、それも何一つ顔にも声色にも出さずに、
 「そうね、本当に様子をつぶさに知る間柄だったら答えようもあるかもしれないけれど、皆が思っているほど、私たちは親しくはなかったのかもしれないね」
と、努めて穏やかに言ったので、少し疑いながらも茂孝は染井の君と椿希は噂ほどでもないということなのか、と思って少し安堵した様子である。
 それからは茂孝も受験勉強に励む中で、この遣り取りをしたことを忘れてしまったかのようにぷっつりと話題にも出さなくなったので、椿希も茂孝を次第に特に厄介な人だとは思わず、良き友人として接しているが、いかに茂孝が実に真面目で心遣いも賢明であるかが分かるにつれ、戦友のように思え、何かと受験生として相談することも多くなるのであった。
 椿希は受験生ならではの心の行方については同じ立場の者として茂孝と話すことで、気を確かに強く持とうとするなど、とてもしっかりとした心ばえである。妥子と並んで戦友のように茂孝のことを思っているため、椿希の受験生としての有り様はとても活き活きとしていて、流石は病を抱えながらも受験を乗り越えようとする心の強さを持つ凛然たる人だと、周りは思っていた。

 以前から気になっていた椿希が持っている白椿の組紐について、いつか聞こうと思っていたのだがほかの用事や機会を逸してすっかり忘れていたのを、不意に思い出したので、茂孝は訊ねようとした。だがその時に、ふと染井の君からもらったものではないかという考えが浮かび、もしそうだとしたらと覚悟をしなければならないと、茂孝は思った。覚悟というほど大層なことかと人は言うかもしれないけれど、人の妬みというものはどんな些細なことからでも起こり得るから、本当に怖いものである。
 だが、気になっていたものを思い出してしまい、このまま放っておいたらまたもどかしい思いを抱えたまま忘れるまで過ごさねばならないと思うと、とても耐え難いので、やはり訊いてしまおうと決めた。
 「この組紐綺麗だね。みやびという感じがして、いいなと思っていたんだけれど、これはどうしたの」
 さりげない風を装って訊いてみると、椿希がにっこりと笑って、
 「ああ、これは京都土産でもらった物。友達が賀茂の葵祭に行ったっていうことでくれたの」
と、ひらひらと鞄にぶらさげてある組紐を見せながら言った。
 友達からもらった土産、ということであからさまに安心した様子の茂孝を見て、問うた理由を察した椿希は、やはり彼のことがまだ気になっているのだと、とても敏感になっている。
 茂孝と彼は一度も顔を合わせたことがなく、茂孝にとって染井の君とは噂の話だけで知るだけだというのに、こうも競争心を持つのが茂孝自身でも不可思議でならないのだけれど、妥子がふと、以前に、
 「ああいう人はそうそうはいないものね。きっと、一生のうち一度会えたら相当の幸運ではないかしら。同級生でありながら、本当に尊敬出来て、ああいう人がこれからどういう風に生きていくのか見ていたい気もしていたから、あんな風に前触れもなく去って行ってしまったのは残念でならなかった。だけど、あんな何もかもを備えている人だって、きっと何かしら辛い思いや弱いところがあるはずだし、なまじ上手く行き過ぎていて自信があるから、傷ついたときの傷の深さは人一倍あるだろうし、ひとたび挫折したら立ち直るのも相当大変だろうね。何もしていないのに他人から恨みも買ってしまいそうだし、そうなっていなければいいけれど」
といったようなことを、ぽつりと椿希や笙馬に言っていたので、それがどうやらずっと記憶に残されてしまっていたらしい。
 茂孝から見ても妥子はとても頭の良く切れる人であり、物事を贔屓目に見るようなことなく客観的に冷静に見ることの出来るのが特に優れていると思っているだけに、染井の君について語った台詞から、妥子にこれほどまでに言わせるとは一体どういう人なのかと気になってならない。そして、椿希自身はどう思っているのだろうか。
 茂孝だって自分自身にそれなりの自信があって、学校でも常に上位争いをしているというのに、それでも時折聞こえる「もし、ここに染井の君がいたら」の声にはよい気分がしない。ましてや、その染井の君が椿希と恋仲であったのではとの噂を聞くと、どうしても知らねばならないと、執着してしまっていた。
 茂孝は周囲から染井の君と比較出来ないほど立派な成績を修めればどうだろう、と考えて受験勉強にひたすらに打ち込んでいる。こういったことがきっかけとなって、勉学に励む人もいるものらしい。とても珍しい様子であったが、傍から見れば勉強に打ち込んでいるのには変わりないので、原動力がどこから来ているのかだなんて、誰一人気付かなかったことであろう。

 第一志望の大学は、妥子と同じ国立大学に定めているけれど、成績が今ひとつ伸び悩んでいる笙馬にとってはまだ手を伸ばしても指先に掠っているかどうかといったところである。旧帝国大学のひとつであるその大学に進学しようだなんて、高校に入ったばかりの頃は全く考えも及ばなかったけれど、妥子との交際が始まって、妥子がそこを志望していると知ってからは自然と笙馬にとっても志望校となった。
 「前までは椿希は芸大か公立大進学かも、って言ってたんだけど、見込みが出たからなのか、同じ志望大学になってね。志望する学科は違うけれど、一緒の大学に行けたらいいなって思ってるんだ」
 快活に笑ってそう言った妥子が忘れられず、まだ妥子には自分もまた同じ大学を志望しているということを秘密にしている笙馬は、あの時の笑顔を励みに一途に勉強してきたというのに、一向にその成果が現れないでいるのは、何という辛いことか。
 面談の時でも、担任教師から志望校変更をするように言われたのに、それを突っぱねてここまで来てしまったけれど、思えば自分にはこれといった理由もないのに志望校を決めてしまったことが、なんとも情けない気持ちである。
 妥子はそんな笙馬の辛そうな姿を見るにつけ、どう接していいのか分からず、自然と会話することも少なくなってしまっていた。笙馬のために志望校を変更するなんて本末転倒だし、かと言って無視したまま受験勉強を続けるのも、なんだか胸につかえが出来たまま過ごすことになりそうで、居た堪れない気持ちでいるのだった。
 笙馬はここのところ、
 「全く、どうして秀才たちは飄々とした様子でさして緊張もせずに、試験を淡々と受けられるのだろう。皆が努力してその結果がそうなのだと分かっているけれど、やっぱり羨ましくて恨めしくてならない。僕だってこんなに精一杯やっているのに、いざとなると思考が止まってしまって数式も思いつかないし、言葉が出てこない。昔は椿希ちゃんと成績もそれほど変わらなかったのに、情けないことに今では雲泥の差ではないか。一体どういうことなのか。
 染井の葵生が断然塾生たちの中でも、全ての科目において好成績で飛び抜けていたけれど、あれはあれで医学部を目指すと言っている以上別格としても、同じ学校で同じ文系進学の加賀にまであれほど差をつけられるなんて、もう恥ずかしいやら情けないやらで、一体心をどう持てば良いものやら」
と、ひどく自分を責めているので、塞ぎがちになってしまっていて、もはや作り笑いを浮かべることすらない、余裕のない有様である。
 家に帰れば中学生の弟が高校受験の勉強だと言って机に向かっているけれど、元々遊びの好きな性質から集中出来ず、本棚の漫画に読み耽っていたり、ひと眠りといってベッドで横になってはそのまま明け方まで熟睡してしまったりと、全く緊張感がない。
 一年の浪人を覚悟してでも、その志望校に入りたいかといえばそれほどの情熱もなく、また弟の出来から察すれば、内申点が取れていないので私立高校に進学することになりそうだし、それを思えばとても家計的に浪人など難しいだろう。奨学金という制度があると言われても、それに頼らなければならないほどでもなく、おそらく両親は現役で私立大学でもいいから進学してくれと言うだろうから、やはり今年一回勝負となるだろう。
 溜め息は尽きないけれど、それでもこのもやついた気持ちのままでも、時は流れていくものだから、後で後悔せぬよう少しずつ勉強をしておかなければならない。
 「妥子はどうして、あの大学に行きたいの」
 そう言う笙馬の様子は、今にも切羽詰ったように見えて、これは適当な答えをしてはいけないと思い、妥子は言葉を探しながら言った。
 「この辺りで文学部の優れた大学はいくつかあるけれど、あの大学は特に優秀で志の高い学生が集まっていて研究も盛んだと聞くし、その方面では名だたる教授や助教授が集まっていると聞くでしょう。それならそういうところで大学生活を過ごしてみたいって思ったの。それに、学びたいことが学べるから」
と言うのは本当にもっともなことで、笙馬も思っていた通りの答えだったので、ますます気落ちしてしまいそうである。
 まさか、
 「僕は入りやすいところならどこだっていい」
とは言えないので押し黙っているけれど、それにしてもこれといった目標もなく大学受験をしようとしていただなんてと、明確な目的を持って大学受験に臨もうとしている妥子と比べ、つくづく自分の幼稚さを嘆かわしく思ってしまう。
 そんな笙馬の思いを察して、
 「私はこうしたいと思っているけれど、大体の受験生なんて流れるままになんとなく進路を決めていることが多いんだから、笙馬みたいにあれこれ悩んでいるのは、それだけ先々を大切に思っているからで、いいことだと思うよ。ただ、やはりいい加減のところで大雑把でもいいからさっぱりと決めてしまって、それに向かって行くのが効率のいい遣り方だと思うから、早くそう出来るといいね」
と言った。確かに妥子の言う通りだと思うし、あまり深く思い詰めて碌に勉強に身が入らないというのも、また将来のことを思うと要領の悪いことのように思えるけれど、この不甲斐ない気持ちのやり場は一体どうすればいいというのか。


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