椿希の部屋はそれほど広くはないのだが、余計な物が置いていないのでこざっぱりとしていて清潔感があり、本棚には種類別に分別して本が並べられている。文学全集、児童向けに書かれたシャーロック・ホームズや怪盗ルパンなどの推理小説、日本や世界の歴史漫画に源氏物語や平家物語、和泉式部日記などの古典文学作品を漫画にしたものなどがずらりと並んでいて、この年頃の娘が好んで読みそうな本は一切なく、漫画も今流行しているものは置いていなかった。 だが、かと言って殺風景というわけでもなく、薄桃色の壁は居心地のよい雰囲気で部屋を包み、全身鏡は鏡を囲う額に細かな細工が施されていて、一目でそれなりに上等なものだと見て取れた。全体的に暖色で統一された家具からは、和やかで豊かな感性を感じられて、それらを買い与えた両親の愛情が伝わってくる気がして、藤悟はふっと頬を緩めた。 「椿希は漫画は読まないの。見たところ本棚には歴史漫画か古典の漫画しかなさそうだけれど」 藤悟は訊ねてみた。 「本棚は目に付いてついつい読み耽ってしまいそうだから、敢えてそちらには置かないようにしてるの。ベッドの下の引き出しのところに置いてみたらいいかなと思ってそうしてみたんだけど、作戦は大成功で、重たくなった引き出しを開けるのが面倒だからもう読まなくなったよ」 藤悟は感心しながら、ベッドの引き出しを開けると、引き出しに敷き詰めるように漫画が平置きしてあったので、くすりと笑った。 「なんだかこういう風に置くと変な感じがするね。だけど、確かにこういう置き方をすると探すのが面倒だし、重たくて開けるのも億劫になるね。受験生にとってはいい方法を思いついたね」 と藤悟が言うと、照れたように椿希が笑った。 同じ小学校に通い、互いに頑是無い頃からの付き合いだったこともあって、よく知っていたのだが、少女から女性へ変わっていこうとするのを間近で感じて、なんとも心が揺れていくのはどういうことなのか。今日は純粋に榊希のことを偲ぶつもりで来たはずなのに、と当初の目的から次第に心が懸け離れていくのは、なんだか下心があるようで藤悟はいい気がしない。 「今年は音楽会に行かせてもらうよ」 取り繕うように藤悟は言った。 「去年は行かないって言ってたのに、どうして」 動揺を隠すように、椿希が訊ねた。 「妥子ちゃんに是非来てくれと言われたんだよ。それに、俺も一度くらいは椿希の晴れの舞台を見たいじゃないか」 と言うのももっともなことなので、椿希はこれといって断る理由もないので「分かった」と言った。去年は本当に、心から藤悟に来てもらいたいと思っていたのに、今年は藤悟の出席が憂鬱で仕方がなかった。それは、狭い部屋に二人きりというこの場面が一層、椿希の心を戸惑わせているのは間違いなかった。 藤悟はそんな椿希の気持ちを察したのか分からないが、ふと思い出したかのように言った。 「それより、この前京都に行ってきて、お土産を持ってきたんだ。これは椿希に」 椿希にと渡されたものは組紐を物に飾ることの出来るように趣向を凝らしたもので、緋色と薄い桃色の組紐に、繊細に作られた白椿があしらわれている。見た目はとても可憐なのだが、じっくり見ても何一つ粗がなく、優美な作りをしていて、椿希ならその持ち主たるに相応しいだろうと、藤悟は思っていた。そんな上品な土産物を、椿希はすっかり気に入ったらしく、早速通学鞄に取り付けて、「どう」と鞄を持って藤悟に感想を訊ねている。 「鞄に付けてしまうのは、なんだかもったいない気がするけれど」 と言ったものの、他に付けるところは特に見当たらない。そんな椿希を庇うように、 「お守り代わりにしてくれたら嬉しいよ。俺も本当は天満宮にでも行って合格祈願をしてやるのが、一番いいんだろうと思ったんだけど、それは俺には出来ないから、代わりに京都らしい土産物をと思って買ってきたんだ。椿希にあげたんだから、それは椿希の思うように使ってくれたらいいよ」 と言うのは、本当に兄が妹に言うようなので、やはり二人はそういう間柄ということなのだろうか。 椿希はにっこり笑ってその組紐をさまざまな角度から眺めている。それを見て、本当に気に入ってくれたらしいと心から安堵した。 「ところで、藤悟くんはどうしてこの時期に京都へ行ったの。連休も終わって随分変な時期に行ったものだな、と思ってたんだけど。観光客は減るだろうけど、この時期に何か特別なことでもあったの」 と、椿希が不思議そうに訊ねたので、藤悟は鞄の中から小さなアルバムを取り出して椿希に見せながら言った。 「賀茂祭があってね、去年は祇園祭に行ったから今年は是非にと思って行って来たんだ。葵祭と言えば知っているだろう。とても雅な雰囲気で平安時代を思わせる祭りだって聞いてたから、行ってみたくてね」 椿希は藤悟が撮った写真を興味深そうに、一枚一枚を些細なところまで見逃すまいと、しげしげと見詰めている。色鮮やかな着物の命婦たちや華麗な装束を纏った勅使随身たちが、着物の細かな柄まではっきり見えそうなほどの画質で写真に収められており、斎王代にいたっては角度を変えたり拡大したりして撮ったため、何枚にもわたっている。 京都へは思い立ってすぐに気軽に行くことはとても出来ないし、今まで一度も行ったことのない椿希は、あれこれ歴史小説や漫画などで想像していたため憧れの気持ちも一層強く、大学生になったら是非、このような古の時代を偲ぶことの出来るような祭りのある時にでも行ってみたいと、大層ゆかしく思っている。 「思えば椿希は今時の高校生くらいの年頃にしては珍しいくらい、昔から風流な物事を好むけれど、そのくせはっとするようなくらい現代的なところもあって、本当に頭が下がる思いをするよ。さっきの幻想即興曲なんてまさにそうだった。そういえばあの妥子ちゃんもそういうことにはよく通じていて、いい意味で古風な人柄がすごく好感が持てたよな」 と考えながら、藤悟はやはり好みの似たもの同士が親しくなるものだなと、しみじみと思った。そういえば、と藤悟はさらに逡巡させた。 「そういえば葵生も時々物思いに耽ることがあって、しみじみと繊細に物事に感じ入っては細かなところまでよく気の付く奴だったよ」 と、懐かしむようにわざと彼の名前を出して様子を窺うように言うと、椿希は全くそのとおりだと思いながら頷いた。 「ただ、ああも細やかな心を持っている人だからこそ、私は葵生くんが何の問題もなく受験勉強を出来ているかが気掛かりだわ。そう言いながら、私も余裕がないから他人の心配をしている場合じゃないとは思うけれど」 少し表情を曇らせながら不安げに言うのに、藤悟は少し安心した。 彼が光塾を辞める少し前に電話で相談を受けた後、思いを椿希に伝えられたのかは定かではなかったのだが、椿希の様子を見る限り、結局葵生は何も伝えられることなく別れてしまったらしいと薄々感づいていただけに、椿希がこのように思っていたことが分かって一つすっきりした気分である。 「葵生なら心配は要らないよ。あいつがやらないわけがないよ」 すると、椿希は首を捻っている。 「そうかな。彼は確かに一見はとても強くて、何をするにつけてもそつなくあっさりと成し遂げてしまうから、何でも出来て順風満帆には見えるわ。いつも独りでいるのも平気に見えた。でも、本当は彼は挫折とか孤独に、人一倍弱いんじゃないかって思うことがあったの。最後に会ったときにも離れがたくて苦しそうにしていたから、寂しがって後悔して、選ぶ道を間違えたと言って自分自身を傷つけてしまっていなければいいけれど」 組紐を掌の上に置いて、何度も感触を確かめるように指で触れながら、椿希が言った。 藤悟はそれを聞いて、彼の性分を思えばそれはもっともなことで、弟のように可愛がっていた後輩のことをしっかりと理解出来ていなかったことを恥ずかしく思いながら、そっと顔を伏せた。同性から見ても惚れ惚れするような容姿に加えて、学業の面でも申し分のない後輩に対して、もはや何も気に掛けるところはないと思っていたのだが、そう言われてみればと思い当たるところがあるので、それにつけても椿希に感心してしまった。 後輩のことを思えば案じる思いは尽きないけれど、こちらから特別に改まって訊ねるというのも妙なことだし、余計なお節介だろうから、心に留め置いて何かの機会の時にでも、それとなく状況を聞いてみようと決めた。 椿希は、何故突然藤悟が葵生の話を振ってきたのだろうと首を傾げていた。今まで二人で話をしていても、こんな風に葵生の話題に飛ぶことはほとんどなかったし、唐突に葵生の名前を出したようなのがなんとも不自然で、何かあったのだろうかと勘ぐる気持ちが起きるのも当然のことであった。それを聞こうかと思ったが、あまりあからさまに自分の気持ちを知られるのはと、はっきりと言い出すことが出来ないのであった。強いて思いつくのは、先ほど葵祭の話をしていたから、同じ名前ということで思い出したのだろうかというところぐらいなのだが、椿希は少し心に引っ掛かるものがあるものの、細かなことだからと、もうそれ以上には考えないことにした。 そうこうしているうちに、母親が盆に紅茶やケーキなどを乗せて部屋に入ってきた。二人が一緒にいることに慣れてしまっているからか、どんな話をしていたのか敢えて聞こうともしない。慌てるような様子もなく、それでいて長居する様子もなく、母親は微笑みを湛えながら用事を終えると部屋から出て行った。それを見て、椿希は「こうして二人でいることに慣れ過ぎてしまって、信じきっちゃってるんだろうな」と思って、ずっと一緒に暮らしてきて友人同士のように親しい間柄の母だけれど、この心の中の細かな動きまでを話すのはなんとも気恥ずかしくて、打ち明けることなど出来ずに過ごしてきたものだと嘆息した。 藤悟の買って持ってきたケーキは、苺や柑橘類の果物がふんだんに使われていて、上品な色合いと大きさの、可愛らしい感じのするものだった。小さな淡い色の花の柄の皿の上のケーキは、店で買ったとき以上にとても美味しそうに見える。金色のフォークの細工もとても繊細で、それに加えて藤悟のために淹れられた紅茶の香りがじんわりと感じられるのが、なんとも贅沢なようであった。 「こういうときはお紅茶がいいんだろうなって思うんだけど、やっぱり私はコーヒー党だわ」 と言って、本当に何も入れずに美味しそうに飲むのだった。 それから二人は、榊希のことを色々と話したり思い出話をつらつらと穏やかな様子で語らった。その有様といったら本当の兄妹のようであって、決して色めいたようなものはなく微笑ましいのであった。幼馴染みだからこそ話すことの出来る冗談や、同じ思い出を持つ間柄だからこそ通じる話に、一体誰が話の腰を折ることなど出来るだろうか。こうなることが分かっていたから、母親は遠慮して下がったのかもしれないと、藤悟はぼんやりと思っていた。 あっという間に時間は過ぎて、もう夕食の時間になっていた。毎年椿希の母親は、「ご一緒しましょう」と言うのだけれど、流石にいくらなんでも気が引けて、 「いえ、今日はこれにて」 と、いつものように遠慮して退出した。 外の空はまだ明るいのが時間の感覚をおかしくさせる。朱色がかった空が家々の向こうのあたりから見える。 はらりと落ちてきた葉が、見送りに出てきた椿希の肩にかかり、風で髪が靡いて頬にかかったのを、藤悟がそれらをそっと払いのけた。その仕草が、今まではなんとも思いもしなかったことなのに、触れられることに過剰に震えてしまい、親しく兄のように慕っていた藤悟にさえもそのように思ってしまうのが、我がことながらとても嫌な気持ちを抱くようになったものだと、早くこの場から逃げ去りたいと思っていた。 優しく微笑む藤悟の目元が、どことなく今までの妹を見るようなものではなく、葵生に似て別の感情も込められているような気がするのは思い込みすぎだろうか、などと思って、椿希は煩わしく感じてしまう。そう思う自分の心が酷く醜く思えて、椿希は藤悟の顔をまともに見ることが出来ない。 「じゃあ、勉強頑張って。絶対にうちの大学においでよ。待ってるから」 今までは心強く感じられた励ましの言葉でさえも心苦しくて、返事することが出来ない代わりに、口元を持ち上げるようにして笑みを作った。 藤悟が帰っていく背を見送りながら、椿希の頭の中では、かの幻想即興曲の激しく狂おしい旋律が流れていたのだった。
音楽会の日、椿希は受験の年ということもあって、光塾の友人たちを呼ぶことはなかった。妥子は何があっても行くと言い張ったが、その一方で余裕がなくなったのかそれとも忘れていたのか、桔梗は一年前にそういうことがあったのにも関わらず、行くとは言わなかった。 ただ、やはり椿希の中では葵生がいたならば彼にだけは、一応日時だけは伝えていたかもしれないと思っていた。感嘆詞だらけの感想を述べる者が圧倒的に多かった中、ただ一人だけが細々と照れながらも感じたことを、心を込めて言ってくれたことを、椿希は忘れていなかった。 ほんの僅かの時間の間に再会した葵生のことを、椿希はおぼろげに覚えていた。紅い月が出ていたあの日、惑わされるように物を考えることも出来ないほど、心を奪われそうになっていたことを椿希は恐ろしく感じながらも、息の詰まりそうな甘美な世界にいたことを覚えていた。怖いと思っても、理性を飛ばしてでも惹かれずにはいられなかった。あんな人だっただろうか、と考える間もなく、葵生は椿希の身も心も連れて行こうとしていた。 だから、音楽会に呼ばなかったのは正解だったのかもしれない。こうして理性が勝っている時分だからこそ、冷静に自分の起こりうる心境の変化を分析することが出来ているけれど、彼と再び相対したときにはこのような心持ちを保つことが出来る自信がなかった。 だが、やはり舞台の上から眺めていて、去年は前から五列目の真ん中あたりに用意した席に塾生たちが集まっていたことや、じっと葵生がこちらを見て視線を外さなかったこと、花束を渡されたときに一瞬体を支えられたこと、そして桔梗からもらった装飾品を見られてしまったのではと密かに動揺したことなどを思い返すにつけても、椿希はいつからか思い出の多くに葵生がいたことがとても切なく、辛かった。ぐっと涙を堪えて、妥子と藤悟が並んで座っているのを視線の端で認めながら心のままに合唱した。 照明が変わって、舞台中央へ歩めば、さらに観客席がよく見える。あの妥子の隣に葵生がいたのを、藤悟の姿に重ね合わせて思い出すと、やはり彼にこそ聴いてもらいたかったと思いながら、呼吸を整えた。 入院した分だけ練習量が減ったのを気にしていたのは本番前までで、いざ人を目の前にしているとそんなことは脳裏から消えていた。眩しすぎるほどの照明が暑苦しく感じる。一度聴衆を見渡したが、当然といえば当然なのだがやはり葵生の姿は見当たらない。だが、椿希はいるはずのない葵生のためにこそ歌おうと決め、ピアノの静かな旋律が流れ始めると歌い始めた。曲は、去年と同じものだった。 聴いていた妥子は、視線を遠くに向けながら歌う椿希を見詰め、胸が苦しくなっていた。藤悟がいるにも関わらず、やはり葵生が聴くべきだと思って、椿希に黙ってでも誘えば良かったと後悔の気持ちが膨らんでいく。 去年は神々しいような清らかさが目立っていて、技術的にも素晴らしく申し分がなかったのだが、今年は一年の間に様々なことを経験した分、深みのある声に味わいがあって説得力があるとでも言おうか、誰かのために歌っているというのが何か語られたわけでもないのに感じられた。 「椿希はあんなに歌が上手かったのか」 と、驚いた風な藤悟を見ながら、妥子はただ微笑むばかりだった。藤悟には悪いと思っていても、やはり妥子も葵生のことを考えずにはいられなかった。 「別れた恋人のことを思う歌か、そんな歌を椿希が歌うだなんて」 事情をあらかた知っている妥子は、その言葉に含むものがあるようなのを気付いていたが、訊ねることはしなかった。 一緒にいて安心出来るし、恋人にするには断然藤悟の方がいいけれど、傍にいるだけで媚薬を嗅がされたような、くらくらとしそうな妖しげな魅力を放つ葵生に、危険だと分かっていても惹かれずにはいられないという気持ちはよく分かる。少し低めの声は時折艶がかったように艶かしく、唾を呑み込んだときに動く喉仏に目を奪われ、頬杖を突きながら外の景色を眺めている横顔は憂いを含んでいて、誘っているかのようにも見える。 葵生に対して恋愛感情を持ったことは一度もない妥子だったけれど、そんな妥子にさえもそのように思わせるのだから、椿希が葵生を恐れていたのも分かる気がするのだ。一度引き込まれたら、帰って来ることが出来ないかもしれない。そんな気がしたのも、気のせいではないのかもしれない。
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