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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第58回   第二章 第十一話 【幻想】1
 受験生というのは窮屈な身分で、少しでも気を抜けば他の受験生に追いつき追い抜かれてしまうのでおちおち外出している余裕などないのだけれど、それでも色恋というものだけは控えめながらも続けられるものであるらしい。その身の振り方は人によって様々だけれど、光塾の中でも優等生とされる人たちは今のところは表立って現す人はほとんどいなかった。
 その例外とも言えるのが新参の加賀茂孝で、どうやらすっかり椿希のことを気に入ってしまったらしく、塾にいる間は片時も傍から離れようとしないので、皆心の中では二人はもう付き合っているのではないかと疑っていた。かの染井の君に同情的な塾生は、そんな様子を見て椿希が軽い女だと嘲る者もいて、わざと大きな声で聞こえるように罵ることもあった。椿希は下世話な噂話は無視するに限ると決め込んでいるものの、やはり心を痛めないわけがなかった。かと言って身の潔白を明らかにしようと躍起になるのもまた、愚かしく思えるし、今はそれどころではないので、椿希はいずれ時が経てば飽きてその噂も止むだろうと耐えるばかりだった。
 「可哀相だとは思うけれど、確かにそれがいい方法かもしれないね」
 妥子がそう言って慰めてくれるので、椿希も挫けずに済んでいるのだった。
 ただ椿希もまた一方では、軽い浮ついた女と言われても仕方がないかもしれないと、心の内では思っていた。

 椿希は高校三年生に進級してからというものの、夜遅くまで起きていられない分集中して勉強を続けていた。他人がとやかく言う分、それを振り払うかのように机に向かっている間は、目の前の問題集や参考書、暗記本を片付けるのに熱中した。
 その地域では名だたる進学校であった女学院は、高校二年生の夏から秋頃で部活動を引退することが多く、そのため高校三年生である椿希も聖歌隊の練習に参加しなくても良いのだが、聖歌隊を取り仕切る音楽教師からの要請もあって、今は早朝と昼休みのみ歌の練習に励んでいた。今年の音楽会においても椿希が独唱することは教師の中では決定事項であったため、入院して練習出来なかった間に声量が落ちていないかが懸念されていたが、元々その方面の才が優れていた椿希は練習しているうちにすっかり勘を取り戻したことに、皆は一様に感嘆の溜め息を吐いた。
 髪をばっさりと切り落としたことで、横顔から覗く涼しげな首元がいかにも爽やかで、余計なものを削ぎ落としてさっぱりとしている。だが、以前には決して見せることのなかった憂いを含んだ切なげな表情で、ぼんやりと校庭を見ていることがあるのが、またとなく匂い立つような艶やかさであった。だが、歌っているときの彼女は、見る者を微笑ませるような優美さで、大輪の花のような立ち姿も才能の一つのように思えて、知らず人が集まってくるのだった。
 「本当にいいの、あなたなら芸大への進学も音大への推薦も出来る。せっかくの才能を活かす道が拓けているのに」
 音楽教師は悔しがった。椿希は小さく「すみません」とだけ言う。この遣り取りは、もう二年生のときから行われていて、そのたびに椿希は断っていたのだが、三年生になると躍起になって頻繁に言われるようになった。そう言ってもらえることはとても嬉しく、才能認めてもらっていることはありがたく、だから断るたびに胸が痛んで心から申し訳なく思う。だが、声を掛けられるたびに、その天性の才能を褒められるたびに、音楽の道へ進むことへの憧れと躊躇いが入り混じって苦しくなった。
 かつて、葵生はこう言った。
 「俺は音楽のことはよく分からないけど、歌い手としての実力がほかの人よりも優れてるっていうことはよく分かったよ。素人判断だけど、その道に進んでもいいような気がするけど、その道に進まなくても音楽と離れない方法はあるかもしれない」
 照れながら、声も細々と言った葵生の顔色は赤かったに違いない。
 そんなことを思い出しながら、現実として音楽の道に進んだとしても、学校を出た後の自分の身の振り方は果たしてどうなるだろうかと想像すると、思い浮かばないのだった。それならば音楽を専門とするのではなく、趣味として続けることの方が後々後悔はしないかもしれないし、その方が自分の体のことを思えばずっと楽に違いなかった。
 それにつけても、ふとしたときに葵生のことを自然に思い出してしまうのが、椿希にとっては切なくて、進路の悩みとは別の苦しみとなっていた。先々起こりうることの懸念や、先々後悔するであろうことよりも、犯してしまった過去の過ちに後悔してばかりで、もっと優しくすれば良かったと思い続けていた。どうして一緒にいたときには素直になれなくて、別れてようやく気付いてしまったのか、自分のことながら気持ちを持て余していて、時折物思いに耽りながら溜め息を吐くのだった。
 そうとはいえ、椿希はしっかりと葵生との約束事を覚えていて、それを果たそうと勉強には殊更熱心であった。八割方は今までどおりの進路に進む気持ちで固まっているが、残り二割はまだ芸大進学への憧れの気持ちがあって揺れていたが、何にせよ受験勉強をしっかりしておかなければいけないことには変わりなかったため、彼女の本来の性格も手伝って、誰かのように呆けたようにはならなかったのだとか。

 藤悟は榊希の誕生日が近づくと、毎年椿希の家に顔を出していた。命日にあたる冬の日と、榊希の誕生日だった五月になると必ず訪れるのを、母も楽しみにしていて歓迎した。
 今年は椿希が受験の年ということもあって遠慮しようかと思っていたが、椿希の母が、
 「どうぞ気にしないで来てちょうだい。藤悟くんとはもう長い付き合いなんだから」
と言っていることもあって、例年よりも予定を数週間ほど早めて、少しの間だけお邪魔することにしたのだった。
 大学の帰りに一度自宅に寄って、荷物を置く。そして鞄から教科書やノートなどを抜いて、すぐに外に出た。車の脇のバイクに目が留まったが、乗る気には到底なれなかった。ケーキ屋に寄らねばならないため少々面倒ではあったが、躊躇わなかった。
 歩きながら、外の景色を眺める。静かな住宅街は、住人が多少入れ替わったものの見慣れた風景はもう何年も前から変わらず、変わったことと言えば目線が高くなったことで視野が広がったぐらいだろうか。少し歩くと、あの場所に辿り着く。まさに事が起きた瞬間を見ていなかったのが幸いしてか、藤悟はこの通りを歩いても情景が思い浮かんで苦しむということはなかった。ただ、やはり時節が来れば自然と胸が締め付けられるように痛くなる。
 息が荒くなり、立ち止まって空いている方の手で胸を押さえ、ゆっくりと呼吸をしながら落ち着かせた。少し視界がぐらついたけれど、意識ははっきりとしていて足ももう元通りになった。小さく溜め息を吐くと、藤悟はいつも榊希が通っていた小さな祠を見詰めた。かの日の少年が毎日ここで妹の受験が首尾良く行くようにと願っていた姿が目に浮かぶようで、目元が僅かに濡れた。指でそっと拭うと、もう見ていられなくなってすぐさま立ち去った。
 椿希の家は門構えも立派で、白い壁は年月を経ていくらかくすんできたものの、それと見ていかにも作りの良さがはっきりと分かり、控えめに施された飾りが上品で、その家を守るように植えられている娑羅の木が風が吹くたびにさやさやと揺れるのが、家々が立ち並ぶ中で一際異なった趣を醸し出していて、風情があった。
 呼び鈴を鳴らせば、若々しい声がした。小母さん、元気らしいな、と藤悟は微笑んで名を名乗った。しばらくして玄関の扉が開き、ひょっこり顔を出した女性は椿希が年を経ればそのようになるであろうと一目で分かるような、とても品のある美貌の人だった。
 「藤悟くん、いらっしゃい。さあさあ、上がってちょうだい。椿希も今日は珍しく帰ってきてるのよ」
 とても高校生の娘がいるとは思えないほどの若々しさは変わらず、時を重ねたことを忘れるくらいの母親は、藤悟がケーキの入った箱を渡すと、
 「いつも気遣ってくれてありがとう。お供えしてもいいかしら」
と尋ねた。
 「ええ、榊希に上げてください」
 母親はにっこり微笑むと、藤悟を家へ招きいれた。すると線香の独特の香りが漂ってきて、まるで香りに包み込まれたかのようで藤悟は思わず身震いした。居間の隣の和室にある仏壇に供えると、座布団の上に正座して合掌し、鈴(りん)を鳴らした。
 「藤悟くんが来てくれたわよ」
 遺影の中の少年に声を掛けた。短くなった線香を見て、母親は蝋燭の橙色の火に緑色の線香を近づけて灯すと、また線香の香りが一面に放たれた。そうして、また鈴を鳴らす。
 笑っている榊希の顔を見ながら今の椿希の顔を思い浮かべると、この年になった榊希に是非会いたかったと、藤悟は胸を熱くさせた。そう思うにつけても悔しくて堪らない。
 しばらくして、二階から椿希が降りてきた。椿希が「いらっしゃい」と言うと、藤悟は微笑んだ。
 「椿希、藤悟くんがまたお土産を持ってきてくれたの」
 そう言って、一度供えたケーキの箱を椿希に手渡した。
 「いつもありがとう」
 髪を切ったのが少し伸びたとはいえ、まだ短いからか、椿希を見ると二十歳の榊希の姿がありありと目に浮かんでくるようである。性別の違いから、もっと榊希の方が目元も涼しげで体格も頑丈だろうけれど、黒目がちであるところや目、鼻、口などの大きさが均整であるといったところ、そして優美な容姿などは、同じ父母から受け継いだ兄妹らしく似ていたのをぼんやりと思い出して、そっと涙ぐんだ。
 「藤悟くんは紅茶だっけ。母さんはどっちにする」
と言ってケーキの箱を持って立ち上がった。
 「私も紅茶。椿希はまたコーヒーなの。本当に好きなのねぇ」
 一日何杯飲んでいることかしら、と母親は苦笑した。こうして笑っている顔を見ていると、椿希はこの母に似たのだとしみじみと思えて、藤悟はまじまじと見比べていた。年頃になって一段と顔立ちがはっきりと大人びてきたせいだろうか、この母親も若かりし頃はこのような美貌の人だったに違いないと思われた。椿希の瓜実顔は、この母親に似ている。父親はというと、普段仕事に出掛けているため顔を合わせる機会はここ数年なかったが、記憶している姿はいかにも紳士的で背丈もすらりと高く、穏やかな春の太陽のような人だと思ったものだった。
 広い居間の隅に近いところに、漆黒のグランドピアノがあった。以前は埃が纏いつくからと布を掛けて蓋を閉めていたのだが、今日は蓋が短い柱を立てて少し開けられている。そこから覗くピアノの構造を見ていると、なんて繊細に作られているのだろうと感心してしまう。
 「さっきまで私が弾いてたの。この曲難しいのよ。もう指が動かなくって」
 譜面が置かれていて、見ると題名に『幻想即興曲』とあった。
 「ショパンですか。どんな曲でしたっけ」
 そう言いながら譜面を見ようとしても、読むことの出来ない藤悟には音が分からない。母親は椿希に紅茶とコーヒーを淹れるのを交代すると言って、椿希を呼んできた。そして弾くよう促した。
 「私も中学二年生のときに弾いたから四年も前の曲なのに」
と恨み言を言いながら、藤悟に視線を遣って、目で「下手だったらごめんね」と訴えた。対する藤悟は静かに微笑んで、北欧家具のソファにゆったりと腰掛けた。椿希は少し鍵盤の前で指を動かして温め、大きく息を吸い込んで吐いた。
 印象的な音が曲の始まりを知らせる。嬰ハ短調の左手の伴奏がこれから始まる幻想の物語を予感させる。右手のメロディが奏でられて狂おしく紡がれるのが、川の激しい流れにも似ているような気がする。そして荒れ狂う嵐のように高音から低音へ激しく掻き鳴らされているとき、指は鍵盤の上を激しいステップを踏みながら踊っているようにも見える。そしてひとときの平和が訪れたような、一転して穏やかな安らぎを得た曲調に変わった。それは川のせせらぎのようで、静かな川辺に佇んでいるような心地がする。そうかと思えばその平和も一瞬にしてまた、激しく厳しい世界へと投げ出されたようであった。だが最初よりも増して切ない音調であるようで、最初と同じ音階を奏でているはずなのに一層、その音に奏者の感情が込められているようである。そして物語も結末に近づき、右手の静かな伴奏によって左手で川辺のメロディが再現され、最後は眠りに就くときのような優しい音で結ばれた。
 数秒、余韻を残して椿希の指は鍵盤から離れた。藤悟は立ち上がって拍手をする。母親もにっこりと笑っていた。
 「全く謙遜もいいところだよ」
 藤悟は言った。音の強弱の付け方も巧みで、そして曲への理解も深いのか、感情を音に乗せることにかけても見事であり、繊細な音への配慮も感じられて非の打ち所がないように思えた。技術的に細かなところは分からないにせよ、少なくとも椿希らしい丁寧で美しい音色が大層見事であった。
 「やっぱり全盛期の頃には劣ってしまうね。でも、なんでだろう、表現は自分でも良かったと思った」
と、椿希も珍しく自分を褒めるような感想を述べたのだから、藤悟の見解もそれなりのものだったということだろうか。それにしても、椿希も弾き終えてみて、あれだけ感情を鍵盤の上に乗せていくのに苦労していた昔に比べて、こんなにも心を込められるとはと驚いていたのだった。お稽古としては以前のように週に一度も習いに行くことはなくなって、今では月に一度となってしまい、練習量も格段に減ってしまったから指使いもたどたどしくなってはいたものの、表現力という点においてみれば、ただ記号に従って強弱をつけた以前の演奏よりも、心の思うままに奏でた今の方が、遥かに胸を打つようなものであった。
 「椿希、部屋にお紅茶やお菓子を持っていくから、藤悟くんと一緒に部屋へ行っていなさい」
 もう出来ているだろうに、母親が何故かそう促した。「でも」、と椿希は言うのだが、母親はにっこりと笑って「さあさあ」と言うものだから、椿希は仕方なく藤悟に視線を遣った。藤悟は立ち上がって、椿希についていこうとする。
 もう年頃なのだから、部屋に男性を入れるというのには抵抗があって、たとえ幼馴染みで心を開いた相手であっても、なんだか気恥ずかしくて堪らない。きっと母親は、藤悟がまだ榊希の親友であり、息子のように思っているからこそ発言したのだろうと思われたけれど、椿希にとっては幼馴染みである以上に、もう来年の春には二十歳になろうという一人の男性であった。
 藤悟のいる手前、顔に出すことも抗議することも止めたけれど、どう接すればいいものやらと椿希は二階へ向かいながら思案していた。外で二人きりでいるのとは違うし、入院していたときに病室で二人で過ごしたのとも違う。どきどきと高ぶる思いと共に、部屋に入れたくないという思いもあって、どうしてこんなことになってしまったのだろうと溜め息が出そうだった。


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