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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第57回   第二章 第十話 【水葵】6
 別のクラスになったこともあって、あれからすっかり疎遠になってしまった柊一の姿を見かけると、声を掛けたくなる気持ちもあったのだが、そうすると葵生の今の状態を柊一に知れることとなってしまうのは、何とも都合が悪く思えて避けてしまっていた。
 柊一もそんな葵生の様子には気付いていながら、わざと知らぬ振りをしていた。葵生の素行が急に悪くなってまた今は見かけ上戻ったのを知っていても、光を宿さぬ目を見ていればまだ受験勉強に身が入っていないことなど一目で分かる。どうすれば葵生が気力を取り戻すだろうかと思うけれど、葵生を良い方向へ導くのも悪い方向へ遣るのも椿希なのだと思うと、また柊一は椿希に対して複雑な思いを抱かざるを得ない。だが椿希も考えなしに身を引いたわけではないのだから、柊一は静観し、折を見てそのことを葵生に話そうかと思っていた。
 少し面やつれして痩せたように見える葵生は、突き出た喉仏から顎、耳までの稜線が以前よりも一層鋭くなったように見える。特に最近はほんの少しの所作が気だるげで、それが少し前までは艶かしくゆかしく見とれてしまいそうなものだったのに、今では痛々しくて仕方がない。肌荒れして赤いものが出ていたり、時々目が半分開いたままぼんやりと遠くを眺めていたりして、精彩を欠いてしまっているのが物悲しい。肌も荒れるほど夜更けまで勉強をしていたわけではなく、受験勉強で寝不足になったわけではなく、本当に何をやっているのかと、誰か葵生を一喝して欲しいものである。

 さてそんな風に葵生がすっかり落ちぶれた様相であることも知らず、光塾の女子塾生で葵生に仄かに思いを寄せていた者たちは、受験勉強の合間のふとした時に、かの染井の君がいたことを思い出しては、懐かしんでいた。
 その一人である茉莉は、もはや自身としては他所の大学に進学するつもりはさらさらなく、内部進学で希望通りの学部に入ることが出来ればいいと思っているので、光塾の受験勉強に向けて漂う緊張感について行けず、休みがちになっていた。万一内部進学試験に落ちてしまったとしても、同系列の短期大学があるのだからと、とても余裕のある様子である。
 長い間親友として親しい間柄だったゆり子も、あの雰囲気に流されてなのか、すっかり他大学を受験する気になってしまっていて、到底妥子や椿希らに成績は及ばないものの、受験勉強の悩みを相談したり教えてもらったりしながら、なんとかそれなりの結果を残してきている。
 ゆり子がせっかくやる気になっているのだから、その足を引っ張るのも無様でみっともないのだが、茉莉は長い付き合いであるゆり子も内部進学をするものだと思っていたのだから面白くなく、受験勉強を止めさせるべく遊びに誘ったり、わざとテレビ番組の話題を振ったり、邪魔するようなことばかりしていた。そんなことが続いていたので、とうとうおっとりとしたゆり子も、
 「茉莉が内部進学を希望しているのは知っているけど、私はそのまま上に上がっても勉強したいことがないから、違う大学に行きたいんだよ。悪いけど、遊びならほかの子を誘ってくれるかな」
と、とても冷淡な有様だった。
 こうしてすっかり一人きりになってしまった茉莉が、いつまでも冷めぬ夢の中にいる憧れの人に会うことになったのは、まさにこの時であった。あれから何ヶ月も経っているけれど、忘れようもないその葵生の姿は、記憶よりもまた少し背丈が伸びていて、きっともう椿希と並んでもかなり差がはっきりとするであろうと思われた。相変わらずの美貌であるが、そこに憂いを含んだ色気を纏い、それがなんとも茉莉を平静なままにはさせておかない。
 まさかこのような百貨店の屋上に葵生がいるとは思わなかった茉莉は、声を掛けるのも躊躇い、少し離れたところから見ていたのだが、葵生がこちらへ向かって歩いてきた時に、
 「あっ」
と、言ったのが再会のきっかけとなった。葵生はまさか見られているとは思わなかったのか、大層驚いた様子でいたが、慌てる素振りも見せず相変わらずの落ち着きを払って、
 「今日は塾のない日だったっけ」
と訊ねた。茉莉は自分を覚えていてくれたことと声を掛けてもらえたことに、いたく感激してしまっていたから、冷たい声色であったことも気にせず、目を少し潤ませて言った。
 「私、大学は内部進学することにしたから、あんまり熱心にしなくてもいいの」
 自然と言葉遣いも改められた。葵生はふぅん、と小さく言うが、茉莉に向ける視線にはあまり大して興味を持った様子は感じられなかった。
 「みんなはどうしてる」
 みんなと言っているものの、真に知りたいのは一体誰なのかを言えず伏せてしまったのは、無意識のうちのことだった。だが、一度口を突いて言ってしまえば、尋問するように色々と事細かに聞いてしまいかねないのだから、うっかり口を滑らせなくて良かったと葵生は思っていた。
 「元気でやっているよ。でも最近受験生だからって張り詰めた雰囲気になっちゃって、面白くないんだ。ゆり子も受験することにしちゃったし、つーちゃんも」
 言いかけて、はっと口をつぐむと、葵生の顔色を窺うように慎重に言葉を選びながら、言いかけたことと違うことを続けて言った。
 「つーちゃんも、元気にしてるよ。志望校に向けて」
 葵生は椿希のことを、まさかこちらから話を振るでもなく茉莉が教えてくれたので、少し驚いたが、消息を知って安心した様子で頬がふっと緩んでいた。やはり誰よりも気に掛けていた人だから、どんな些細な知らせでも聞くことができたら嬉しさもひとしおなのであろうか。
 葵生の表情が柔らかくなったのを見て、茉莉は少し嬉しくてもっと話してやりたい気持ちになっていた。自分のことで笑ってくれることは滅多にないだろうから、違う人のことであっても笑顔を見せてくれるのはとても幸せな心地に浸ることが出来る。ましてや何ヶ月も会っていなかった懐かしい人を目の前にして、心が浮き足立ってしまうのも無理のないことであった。
 「家庭教師もつけて受験準備は万端みたいよ。聖歌隊も辞めちゃったし」
 つい調子に乗って言ってしまったけれど、最後の一言は余計だったのに気付き、すぐに茉莉はまずいと思って言い訳しなければ、と慌てふためきながら逡巡させた。案の定、葵生はそれに反応して眉をぴくりと動かして怪訝そうな顔をしている。
 「聖歌隊を辞めたって、確かあの聖歌隊は高校三年生の春のコンサートまで残れるって、椿希が言っていたと思うけど」
 だから、みんなよりも受験勉強を始めるのが遅れてしまうと、椿希が言っていたのをはっきりと覚えている。それに対して、「こつこつと勉強する椿希だから、決して出遅れということはないだろうけれど」と言ったはずだ。まさか椿希の性格柄、途中で聖歌隊を止めて受験勉強に取り掛かるということもないだろう、何が何でも最後まで聖歌隊の一員としての務めを果たしてから辞めるだろうと思うと、何か事情があったのではないかと心配の種が胸のうちに現れた。
 そのあたりを茉莉に問い詰めようとしたところで、おそらく茉莉も知らないだろうから、余計なことを口走って、うっかり者の茉莉の口から惨めな自分の様相が椿希に知れるのは気まずいと思い、葵生は慎重に考えていた。
 葵生が色々に考えている様子をじっと見ていた茉莉は、言おうか言うまいか迷いながら、
 「葵生くんって、本当につーちゃんのことが大好きだったんだね」
と、か細い声で言った。分かっていたことだけれど、憧れていた人が恋しい人の名前を口にして、心を悩ませているのはとても感動的ではあるのだが、同時に胸が潰れる思いがして感情のやり場をどうすれば良いのかと、茉莉は切ない気持ちが泉の湧くようにこんこんと湧き出てきた。
 それからは茉莉が色々と塾の現状を葵生に話していたのだが、そうこうしているうちに空はすっかり夕焼けの茜色がどんどん濃紺の宵の色に変わっていき、それに比例してぱらぱらと夜の明かりが点灯し始めた。いつの間にか屋上にいた人たちもほとんど入れ替わって、来たときにいた主婦や子供たちの姿は消え、会社帰りの人たちらしい姿が目立つようになった。
 葵生は腕時計を見遣ると、もうとっくに予備校の授業は始まっている時間を指していたので、深い後悔と自嘲の混じった溜め息を吐いた。そんな葵生を恐る恐る茉莉は横目で見ていたのだが、その溜め息の理由を聞くことも出来ずに遠慮がちに俯いている。
 もう十分長居してしまったし、もう話題も尽きてしまったのだからと、葵生が立ち上がって別れを告げようとすると、茉莉がすっと腕を伸ばして葵生の制服の袖口を掴んでいた。
 「ねえ、また会えないかな」
 ここで別れてしまうともう二度と会えないような気がして、茉莉は切なさに身を焦がしながら、訴えかけるような目で言った。
 葵生はそんな茉莉を見下ろしながら、少し視線を外して色々と考えを巡らせていたが、やがて茉莉の腕を掴んで袖から手を離させた。茉莉はそれに驚いてはっと顔を上げて、葵生によって下ろされた手を胸に当てて、軽はずみに言ってしまったことを後悔していた。
 屋上の明かりを背に受けている葵生の表情は窺うことは出来ないけれど、髪や制服の肩などがぼんやりと照らされていて、なんとなく儚げで今にも消えてしまいそうな気がするのだが、夢心地でいる茉莉はぼうっと焦点の定まらない目で見詰めていた。こんなに近くに葵生がいるということは記憶にはなかった。
 「付き合えよ」
 一言、葵生が低く言った。
 茉莉はまだふわふわとした浮遊感を感じながら、表情の分からない葵生の顔を見詰めた。葵生は茉莉が驚き目を丸くしながらも、高揚しているのか、胸に当てた手をぐっと握り締めているのを見て、
 「今日はもうとても勉強には手をつけられそうにもないから」
と再度促してみると、茉莉は泣き笑いのような表情で何度も頷いた。
 それから二人はあてもなく夜の街を徘徊していたのだが、茉莉は夢を見ているようで所作も言葉もぎこちなく、幸せで嬉しいと思う反面我ながらなんて不釣合いなのだろうと恥ずかしがっていた。こうしてはっきりと葵生の顔立ちの分かるところに来ると、つくづくそれを思い知らされて堪らない。しばらく見ない間に、すっかり青年らしい精悍な顔立ちになっていて、茉莉はすっかり気後れしてしまっていたのだった。
 「つーちゃん、怒らないかな。葵生くんが私と歩いているのを見て、気分悪くしないかな」
 葵生の隣に並んで歩いているだけでももったいないことと思うだけに、茉莉はそれが気掛かりだった。
 「彼女のことは、俺が勝手に思っているだけだ」
と言う様子がなんとも悲しげである。茉莉には、もう二人の間には誰も割って入ることの出来ないような絆のようなものが見えていただけにとても意外なことであったが、葵生が切なそうに言っているから真実そうなのだろうと思うと、申し訳ないことを言ってしまったと、軽い気持ちで言ってしまったことが悔やまれてならなかった。
 茉莉がしおれたようにしゅんとしているので、葵生は言葉を探しながら言った。
 「もういいだろう、その話は。しばらくはこのあたりでうろついて時間を潰して、九時になったら帰ろう。塾も終わる時間だろうから」
 茉莉は小さく頷き、葵生について歩いた。
 これが本当に思い合った者同士であればどれほど幸せだろうと思うと、胸を張って堂々と歩けないのがなんとも情けないと茉莉は情けなくて堪らない。
 葵生はというと茉莉の気持ちに気付いていないわけではなく、こうして茉莉の気持ちを弄ぶようなことをしてしまったことを申し訳なく思うけれど、光塾にいた頃の懐かしさのあまりに、ついもう少し語らいたいという気持ちに負けてしまったのであった。
 かの月下美人の女が言っていた、「水葵の花言葉は『前途洋々』だから、きっと葵生もそうだ」というのが不意に思い出されたけれど、果たしてこの出会いをきっかけにそうなるだろうかと思ったが、そうとはとても思えない。葵生は、もはや大学進学以外の進路も考えようとしているので、もしかすると前途洋々の意味はそちらに進むことを指しているのかもしれない、とも考えると、ここ最近の出会いはなんとも奇妙な縁で繋がったことであろうか。

 水際立った葵生の姿を思い浮かべるだけで、茉莉は心が震えて己の体を掻き抱いた。彼が少し腕を動かせば、抱き締められるのではと胸をときめかせたことや、彼女ではなく自分を見てくれているのだという優越感などを思い返すにつけ、穏やかな海の上を漂うような心地に浸ることが出来る。
 思い切って連絡先を訊ねてみた。葵生のことだから携帯電話など持っていないだろうと思ったし、仮に持っていたとしても「持っていない」と言って無碍に扱われるかもしれないと覚悟していたが、あっさりと番号とメールアドレスの両方を教えてくれたのが、茉莉には天にも昇るような心地になって、登録したあとはしばらく携帯電話を抱くようにしていた。
 「ほかの誰にも教えないでほしい」
 抑揚のない声で葵生は言った。何故、と聞く代わりに「えっ」と小さく声を上げると、葵生は黒い携帯電話を鞄にしまいながら、
 「自分から、教えたいときに教えるつもりだから」
と言ったのは一体どういうつもりだったのだろうか。
 とにかく茉莉は、ただ葵生との繋がりを持てたことだけが嬉しくてならなかった。鏡の中に映る自分の姿が、今までで一番鮮やかで煌めいているように見えて、茉莉は鏡に向かってしばらく作ることのなかった微笑を見せた。


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