20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第56回   第二章 第十話 【水葵】5
 それからしばらくほど経って、女と懇ろになってからも、気だるくて横になったままつらつらと語る物語の中には、決して男は胡蝶のひとの話を出さなかった。彼女についてはただの女友達の一人として敢えて思うことにして、さりげなく話に混ぜ込ませた。しかしながら、何日も経って心を開いて話す間柄になっても、細々とした愛情を込めた言葉を女が語りかけても、男の心の深淵に何かが潜んでいるらしいので、女は寂しく切ない気持ちがつい睦言にも漏れてしまうのだった。
 しかし、そうは言っても親子ほども年の離れた葵生のことだから、このまま長く続けられるとは思っておらず、もし葵生に心に決めた人がいるのであれば、余所見などせずその人だけを一途に大切にして欲しいとも思う。それは決して葵生には言わなかったけれど。だが、これほどまでに美しい顔立ちをした、大人になる途中の若草のような葵生を手放すのはとても惜しまれて、別れの辛さのことを思うとどうしても断ち切ることが出来ないのだった。
 初めはただ、まだ何も知らないであろう少年をからかってみようというだけで、本気になるつもりなど少しもなかったのに、まだほんの高校生に過ぎない葵生の一日をあれこれと想像しては、女子高生に囲まれている姿を思い浮かべて、堪らなく嫉妬してしまう。
 まだ子供だと思って甘く見ていたが、思いのほか大人びたところがあって、それを見つけるたびに、やはりこの男には愛しい女が別にいるのだろう、とその女は悲しくて目を潤ませた。
 噂では色々と耳にしていて、一見身持ち硬そうな風に見えるけれど、誘えば用事がない限りは簡単に靡いてくれるというから、きっとそれまでにも葵生とそう年も変わらない女が何人も誘っていたのだろう。だけど、時折ぼんやりと虚ろな目をして何かを考えているような姿を見ていると、とてもその誘う女たちのことを思っているようには見えなかった。また、どれほど言葉で熱を帯びるような思いを口にしていても、男は決して女の顔を見ていなかったし、男の口は女の唇に触れたこともなかった。
 気だるさの中でゆっくりと身を起こしながら、女は葵生の端正すぎる顔立ちを眺めていた。こんな風に間近で、気兼ねすることなく見ることができるのはとても珍しいことに違いないけれど、鼻筋が通っていて、やや切れ長の二重の目元が閉じられていると女性的で美しく、見れば見るほど自分と不釣合いすぎるのが堪らなく辛い。
 葵生もしばらくして目を覚まし、光に慣れない様子で目を細めているのが可愛らしいように見える。
 「葵生くんは、花は好きかな」
 突然言われたので、声のした方を見ながら半身を起こした。
 「まあ、それほど詳しくはないけどな」
 女は外の景色を見ながら言った。
 「私の趣味はガーデニングでね、こう見えて花には詳しいんだ。月下美人を育てているんだけど、花が咲くのは一夜限り。だから、今年こそは咲くのを夜通しかけて見ていたいな」
 そう言いながら葵生をちらと見たけれど、それが叶うはずもないことは、女がよく分かっていた。
 「葵生くんの好きな花は何」
 葵生は少し間を置いた。
 「椿」
 あの胡蝶のひとの名前を持つ、冬に咲く大輪の花だと思うと、葵生は込み上げてきたもので胸が締め付けられるようで苦しくなった。
 流石の女も、葵生の胸の内までは気付くことが出来ず、
 「そう。あの大輪の花ね。厳しい冬に咲く、強い花だもんね。葵生くんらしいね」
と言うのが一層、葵生の心を揺さぶっていく。葵生は喉のあたりがきゅうと締め付けられて苦しく、しゃくりあげそうになるのをどうにか耐えている。
 「葵生くんって、『葵』の花から名前を取ったの」
 花に詳しい女は、なおも話しを続けた。
 「さあ。よく分からないな。女みたいな名前だからって、昔はあんまり好きじゃなかった」
 今はどうなの、と聞こうとしたが女はやめた。葵生はというと、「今はどうなの」と聞かれると答えに困るところだった。今はもう嫌いではなく、むしろ気に入っているというのは、何度も「葵生くん」と澄み切った空のような声であのひとが呼んでくれたからだった。全く単純なものだと思うけれど、そんな風に呼ぶ彼女の声が耳の奥で聞こえる。
 女は鉢植えの近くに置いていた植物の本を広げて、ぱらぱらと捲った。
 「これこれ。この花、ずっと葵生くんみたいだなって思っていたんだ。水葵っていうんだけどね、青色の小さな花を夏から秋のはじめにかけて咲かせるんだけど、絶滅しそうになってるらしいんだ」
 鮮やかな青い花が、緑の葉から顔を出しているのが愛らしい。初めて見る花だし、植物には決して詳しくない葵生だったが、こういう花は珍しいような気がして、まじまじと見てしまう。絵画には詳しくないけれど、きっとこのような青は人工的には作ることが出来ないであろう、混じり気のない晴れ渡る空に深みを加えたような重みのある色が、写真からでも伝わってくる。
 「私は言葉を知らなくて上手く表現出来ないから感覚でしか物を言えないんだけど、葵生くんを花で表すならこんな感じだろうなって思ったんだ。さっき言っていた椿の花みたいな大輪の花って感じじゃないんだよね、存在感はそうかもしれないけど。小さな花だけど、その色が綺麗だから人を惹きつけるっていうのかな、思わず心が動いてしまうんだ」
 しゃがれた声で楽しそうに言う女が、まるで少女のように思えて葵生はほんの少し微笑んだ。
 「初めて知ったな、水葵の花なんて。俺がこの花なら」
と、続きを言いかけて止めたのを、女は咎めなかった。その代わり、本を持ち上げてぱらぱらと頁を捲って広げた。
 「椿にも色々な種類があってね、葵生くんの好きな椿はどれかな」
 そう言って、分厚い本を押しやった。花の名前であるとはいえ、彼女の名前を簡単に呼ぶのはとても気が引けて、顔を赤く染めたまま葵生はひとつひとつ見比べていく。こうして見ると、好きな花が椿だと簡単に挙げてしまったことが悪かったように思えるほど、花弁のつき方も色合いも、そして大きさも異なっている。緋色のような赤もあれば、白と赤の混じったものもあり、桃色といっても華やかな色から薄い色のものまで様々で、これら全てが椿なのだと言われると、困惑してしまう。
 一重の椿ではない、と思って八重のものばかり探していると、頁の下のあたりにひっそりと、桜の花をもう少し濃くした桃色の丸い花弁をしたその花が、露に濡れているのかしっとりと滴が今にも零れ落ちそうな様子で写っているのが、彼女のことを想起させる。
 「これ、『乙女椿』」
 彼女ならば、乙女と名のついた花を宛がっても決して遜色ないだろうと、葵生は顔を綻ばせた。愛らしく八重に花びらをつけたその薄桃色の花は、乙女と冠するだけあって、瑞々しさの中にそこはかとなく気品を纏っていた。人を花に喩えるだなんて、とても恥ずかしくて本人を目の前にしては言えないだろうけれど、花でさえも彼女を見ているようで葵生は胸が熱くなる。
 堪らないような顔をした葵生を見て、女は胸を締め付けられるような思いがしていた。今にも泣き出しそうな葵生の肩に手を添えてやりたいけれど、そうして欲しい相手はきっと自分ではないだろうと思って、首を横に振った。
 「私の好きな月下美人はね」
と言って、ぱらぱらと本を葵生の前から取ると、葵生が小さく「あっ」と言ってうろたえた。もっと眺めていたいと思っていた乙女椿が消えて、あっという間に違う頁が開けられてしまったのが悔しいけれど、彼女のことを胸に秘めて話したくない葵生は抗議することも出来なかった。
 女は月下美人のある頁を広げて解説を始めたけれど、葵生の耳には入ってこなかった。一気に気だるさが襲ってきて、ぐったりと伏せてしまいたいところだが、代わりに横になって寛いでいた。
 「少し休んだら帰る」
 そう言って、葵生は携帯電話を鞄から取り出して時間を設定した。
 「そんなことしなくても、起こしてあげるのに」
 月下美人の女は笑ったが、葵生は携帯を握り締めたまま、あっという間に引き込まれるように眠りに就いたのだった。
 目覚めるまでの数時間、夢を見ていたようだけれど目覚めと共にそれが何だったか思い出せない。混じり気のない青色の世界に一人投げ出されたような映像だけが、くっきりと覚えているけれど、そこで何をしていたのかだとか、どう思ったのかということには全く記憶されていなかった。
 「もしかするとあの胡蝶の君がいたのではないか」
と思うと気が気でなく、何故か胸がざわめき焦るのだけれど、夢でさえ現れないのが恨めしくもある。そんな風に思うけれど、これも自分の行いを彼女が見透かしていて、わざと夢にも出ないように罰を与えているのではないかとも考えると、悪いように思われていても彼女が今でも自分のことを思っていてくれるならば喜びになるのに、などと勝手なことばかり思いつくのだから、まあ、なんという呆れたこと。

 椿希とせっかく再会出来たのに、携帯電話の番号とメールアドレスを知らせることが出来なかったのが、葵生には悔やまれてならなかった。あの時はただただ彼女を連れ出すことばかり考えていて、自分でもどうかしていたような気がするのだ。
 学校では携帯電話やポケベルは校則で校内所持禁止となっていたため、表立っては鞄からは出さなかったけれど、彼女にまたいつどこで出会うかもしれないからと、常に持って歩いていた。充電器から外すときに、「今日こそは」と思うのだけれど、それがずっと叶わずにいるのだから虚しい。
 月下美人の女が携帯電話を持っているからと言って、連絡先を書いたものを手渡してきたけれど、葵生はそれを登録したものの一度も使ったこともなければ、ましてや携帯電話を持っていることも言っていなかった。高校生だからまだ早い、そう言ってのらりくらりと誤魔化してきたことに、葵生は全く罪悪感などなかった。それは縛られるのが面倒だと思ったのか、それとも別の思いがあったからなのだろうか。
 学校にいても母からのメールは日に何度も来るのだから、葵生はすっかり辟易してしまっていて、本当に味気のない単語だけの返信をしてばかりいる。これも相手が違っていれば、不器用な中にも細々とした情をたっぷりと込めているだろうに。

 いつの間にか、もう学校の染井吉野は散っていた。咲いていたはずなのに、今年が最後のはずなのに心にも留まらないとはどれほど荒んでいることかと、葵生は自嘲した。今年は一体どのように咲いていたのか、風に吹かれて弄ばれるように花びらが流れていく様を見ることが出来なかったのは、自分の責任にあるとはいえ八つ当たりもしたくなってしまう。遅咲きの桜はまだどこかで咲いているらしい、と天気予報で告げていたけれど、到底そんなところまで行く気にもなれなかった。自分の学校で見るからこそ、感慨深さはまた格別であって、そして多くの学生服の学生の中に彼女の女学院の薄灰色に濃紺のリボンを思い浮かべたかったのだ。今はもう叶わぬ夢なのが、何故かこの上もなく寂しくて切なくて苦しかった。

 そろそろあのキャンプから一年になる四月の終わりになり、そんなことがあってから葵生が月下美人の女の元を訪れることも会うことも少しずつ減ってきたのは、思い出すのがあの胡蝶のひとのことばかりで、ほかのことに手をつけられないからであった。
 ちょうど一年前のこの頃に、初めて彼女の独唱を聴いてますます心奪われたこと、そしてキャンプの時に初めて彼女に触れられ手を繋いだことなどを思い出すと、あの頃は本当にひたむきで純粋に彼女のことを思っていたものだった。あの頃は、まさか別れるだなんて思いもしなかったので、椿希がどう思っていようと無理矢理心をこじ開けようだなんて思いもしなかった。
 あの時別れるのではなくて塾に留まることを選んでいたら、あの時告白をして付き合おうと言えたなら、こんな物思いに悩まされず、こんな風に荒れずに済んだかもしれないと思うと、自分の行動一つでこうも環境が変わってしまうのかと、情けなく思う。
 その日も授業が終わって予備校に通わず、デパートの屋上から人の流れをじっと見詰めて、様々に思いを巡らせているのだが、その姿がまた切なげで儚げである。こんなところでぼうっとしていては、到底現役合格など出来そうにもないと葵生自身もよく分かっているが、今ひとつ心がすっきりしない。大型書店に行っては受験生たちに混じって問題集や大学進学のための本などを立ち読みするが、文字として認識は出来ても頭に入り込むことを心が拒み、ほとんど記憶に残らなかった。
 こうして、葵生はデパートや書店、公園など様々なところをぶらぶらと歩いていたため、すっかりこの複雑な街に詳しくなってしまった。一歩裏通りに入れば制服を着ているにも関わらず、風俗店から店員として働かないかと勧誘されることもあり、以前であればそれを鬱陶しがって一瞥くれて無言で立ち去るものを、一瞬立ち止まって考えてしまったこともあったのだから、我に返ったときにふと、一体どこまで自分は堕ちていくのだろうかと情けなく思って、涙を流す代わりに唇を噛み、口の中からは血の味がした。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 38816