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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第55回   第二章 第十話 【水葵】4
 夕闇も押し迫り、葵生が椿希を連れ出すように表通りに出ると、足早にどこかへと向かっていく。何かに駆り立てられているように夢中で、周りのことには目もくれず、葵生は椿希の手首を掴んで引っ張るようにして歩いていた。高校生の恋人同士に見えなくもないけれど、どこか違和感を感じさせるようなその姿に、通りがかった人たちの何人かは不思議そうにそれを見ていた。中には、染井と女学院の制服の二人を見て、「進学校の学生同士か」と興味深そうに振り返ってまで見る者もいたようだったが。
 どれほど歩いたかもしれないけれど、駅の近くまで来たところで、「椿希」と声がした。
 「何しているの、椿希。あれ、もしかして葵生か」
 二人が声のした方を見ると、そこにいたのは桔梗と、新参の加賀茂孝だった。
 葵生は掴んでいた手を離し、椿希ははっと我に返って髪や制服に手を当てた。
 「椿希、今日は塾だろう」
 茂孝が葵生の顔をちらちらと見ながら言った。椿希は制服のブレザーの前をぎゅっと手で掴みながら頷いた。
 「今日は行かないの。もしかして、デートとか」
 茂孝がさらにからかうように続けたので、葵生も桔梗もさっと顔色を変えて、一方は睨みつけるような顔をして、もう一方は詰問したそうに椿希を見詰めた。椿希は首を横に振り、
 「ちょっと受験の悩みを話していただけよ」
と言って、葵生の傍から離れた。葵生は僅かに開いた椿希との距離を目で測るように見て、椿希の顔を見ると、彼女は困惑したように俯いていた。それが堪らなく可憐で愛おしく思えて、やはりせっかく再会出来たというのに、また離れ離れになっていつ会えるとも知れないのをやきもきさせられながら過ごすだなんて、到底耐えられそうにないと思って、葵生は胸がかっと熱くなる。
 桔梗は、まさか二人が偶然にして再会したとは思っていないので、やはりこの二人は出来ていたのか、自分の入る余地などなかったのかと、恨み言も次々と言いたいところだけれど、上手く言葉にすることが出来ない。ただ呆然とするばかりでいた。
 茂孝は、葵生の制服が染井のものだと気付いて、「彼がもしや染井の君という人なのだろうか」と思って、葵生を頭の先から足の先まで見詰めて、「なるほど、皆が未だに噂をするのも理解出来る」と納得していた。
 「今日は英語でどうしても訳が分からない箇所がいくつかあって、椿希に教えてもらおうと思っていたんだけど、遠慮した方がいいかな。二人でいるところを邪魔しちゃ悪いしね」
 そう言って、どうぞ二人で行ってらっしゃいと言わんばかりに苦笑するので、椿希は掴んでいた手を離して、表情をきりりと引き締めて、
 「いえ、行くわ。たとえ一回の授業でも怠けていられないもの」
と、きっぱりと言った。葵生も流石に黙ってはいられず、思わず椿希の腕を取ろうとしたけれど、椿希が鞄を持ち直して桔梗や茂孝の立つ側に動いて、葵生と向き直ったので、葵生は懇願するような目で椿希に訴えかける。しかし、椿希はその葵生を見て、心がまた動かされそうになるけれど、流されてはいけないと思って、つい突き放すようにして、
 「今日は半年振りに会えて嬉しかった。あなたの消息を気に掛けていたから、こうして少しでも話が出来て、ひとまずは良かったわ。受験が終わって、同じ大学の学生として会えるのを、楽しみにしているから」
と言った。言葉では突き放せても心ではそう望んでいないので、この上もなく優美な笑みを湛えながら言うものだから、葵生も引き止めることなど出来ようはずもない。

 電車に乗って帰るのに窓に映る自分の姿を見て、身なりは戻ったとはいえ、まだやつれた面影が我ながらなんともみっともないと思う。たった数分の出来事でこんなにも様変わりするとは、本当に情けなくて堪らない。こんな姿を椿希に見られたら、きっと心配してあれこれ訊ねるだろうが、それに嘘を貫き通せる自信などない。ましてや少し前まで、身にやましいことをしていたところなのだから、椿希に絶対に見られることがあってはならないと警戒してしまう。
 椿希と再会することを一番恐れていて、でも心の中では会いたくて切なさに身を焦がしていて、ようやく会えたというのに、またあっという間に蝶が掌をすり抜けるように飛び立ってしまった。あの胡蝶のような人は、何故こうも自分の心に深く刻み付けていくのだろうと、女々しくも涙がつい頬を伝いそうである。
 「胡蝶のような君を引き止められる、甘い蜜を持っていない葵は誰のことだろうか」
 などと、感傷に浸ってしまうというのも、彼女が夢から覚めたかのようにあっさりと現実へと戻っていったのが口惜しいからであろうか。葵生はそれからも、「胡蝶」と言っては椿希のことを繰り返し思い出していた。
 それからというものの、女を抱き寄せたときの感じが椿希を抱き締めたときを思い出させるが、椿希のあの腰のほっそりした感じや、それに反して思いのほかとても柔らかく温かなのを、まだはっきりと覚えているのが一層葵生を苦しめていくのだった。もう止めねば、自分にとっても女にとっても悪いことばかりが募っていくと思うのだが、この寂しさや悩ましさを埋めるには、かりそめでもいいから、誰かの温もりが欲しくてたまらなかったのだ。
 それでも胡蝶のあの、ひらりひらりと舞うように捕まえようにも捕まえられないのがたまらなく切なくて、何をしていても葵生はぼんやりと物思いに耽ってしまうのだった。
 家に帰り、一見元の姿に戻った葵生を見て両親は驚いていた。
 「すっきりして、これでますます勉強に励めるわね」
と、母親は喜んだ様子を見せたが、葵生は見せかけだけで騙せる親に対して、哀れと思うものの、穀潰しであるにも関わらず罪悪感を持つことが出来ず、すぐに部屋に戻って着替えを取り、風呂場で体を洗い流した。
 色々なことがあったものの、少しさっぱりしたお陰か、久しぶりに今晩はまともに勉強机に向かうことが出来た。だがまだ振り切れておらず、どことなくもやもやとした霧がかった気持ちのままでいる。少しばかり勉強に手をつけたところで、それが大きな効果をもたらすとは思えず、朝を迎えたらまたこの不安定な心地のまま過ごさねばならないと思うと、途方もない絶望感だけが去来し、布団を抱き締めながら、何度も恋人の名を涙ながらに呟いていた。
 そして案の定、朝を迎えて胸に残る何とも苦い虚しさの遣る瀬無さが、葵生の心をまた繊細なものに変えていく。光が窓を通して差し込み部屋を照らすのが眩しくて、とても自分には似つかわしくないと思って分厚いカーテンを引いた。
 あれこれ後悔するのなら、いっそのこともうあの女には会わなければいいことなのだが、見かけや言動は派手でとても品があるとは言えないけれど、葵生も心根は優しく植物を愛する女にすっかり情を持ってしまっており、愛しいと思うことはないものの大切にしなければと思っているから、簡単には断ち切れない。
 あんなに強く惹かれた椿希と別れるのが運命なのだとしたら、きっとこの女と出会うのもまた然りであり、椿希以上に自分にとって適当な相手がいるということを天が示しているのだろうか、あるいは椿希にとって自分以上の相手がいるということなのだろうかと、葵生は塞ぎながら考えていた。そうは言っても、たとえ天が椿希と別れるよう仕向けたとしても恨めしくて堪らない。
 あの日、椿希に思いを告げる代わりに抱き締め唇を重ねたことが、未だにはっきりと記憶に残っていて、彼女が何も言わずに受け入れてくれたから、彼女もまた自分に対して少しでも思いを残してくれているのではないかと期待していた。本当にそうだったのか、あの再会の別れ際の言葉から葵生は察することが出来なかった。
 翌朝からは身なりを学生らしく整えて登校し、授業も全て出席したものの心は虚ろのままで、我が身の不幸を嘆いてばかりであった。本当に一見何もかもを手に入れて上手くいっているような人でも、人の見えないところでこのように苦悩しているのかもしれないのであるから、何の挫折も経ずに生きていくことは有り得ないことなのではないだろうか。

 単発のアルバイトとはいえ、続けていくと次第に顔馴染みの人が出来て、人見知りする性質の葵生もいつの間にか誰かと話をするようになっていた。時に年上の女性たちから食事に誘われることもあったが、頻繁に外食をしてしまうと、作り置きしてある夕食を食べられなくて母親に咎められ、追及されてしまうのがうざったいので、それだけは上手く断っていた。そうとはいえ、空虚な気持ちを埋めることが出来るのなら、あるいは少しでも逃がした胡蝶の代わりになれる人がいるならばと思って、適度に女性とも付き合っていた。そのため、もう見た目ではとても染井の君と持て囃された栄光など、すっかり薄らいでしまっていて、妖艶で息を呑んでしまいそうなほどだった美貌も、ただ顔の作りがとても整った二枚目という程度の印象しか残らないようなのが、なんともまあ、情けのないこと。
 そんな葵生の事情を知るわけもない同僚たちの何人かは、やはり葵生を見て心を寄せていたようであった。だが、いつもどこか人を寄せ付けないように振舞っているらしい葵生だから、声を掛けるのはとても難しい。噂では、もう何人かの彼より二つ、三つ年上の女が声を掛けて、そのたびに相手になってくれたということであったから、誘えば靡くのかもしれないにせよ、皆二の足を踏んでしまっている。
 そんな中、一人の女が「いつまでもそうやって、ぐずぐず手をこまねいているのがみっともない」と言って、就業時間後になって葵生が現場から早々に立ち去ろうとするのを駆け寄って、腕を捕らえて上目遣いで言った。
 「よかったら、ちょっと帰りにお茶でもしない。私が奢るわよ」
 女性からの積極的な行動には、もう随分慣れてしまった葵生だけれど、それはあくまでも自分と年もそう変わらない相手であって、明らかに結婚している女からの誘いには驚いてしまって、
 「えっ、でも結婚してるんじゃ」
と、つい言葉にしてしまった。いつも声を掛けてくる女に比べて、若さも華やかさもいくらも欠けるし、服装の色使いも原色と原色を重ねたような目にきつい色合いで、おおよそ葵生とは不釣合いに見えるようなのに、大胆にもしなを作っているのがなんとも滑稽である。
 「気にしなくていいのよ。さあさあ」
 なんて強引なんだ、と嘆息しながらも、
 「まあ、これくらい年の離れた人は初めてだから、一度付き合って話をしてみるのもいいかもしれないな」
と思って、いかにも渋々従っているように苦笑して頭を掻きながら、浮き足立った女の後をついて歩いていった。それを遠巻きに見ていた何人かは、驚きながら顔を見合わせて、一体どういうことなのかとあれこれと思案しているようであった。

 お茶を、と誘われて来たものの、連れて来られたのがファミリーレストランであったことに、葵生はますます呆然とさせられた。しかし、そういった気取らないところがかえって安らげるようで、寛いだ様子で上着を脱ぎ、のんびりと腰掛けた。
 そんな葵生をにこにこと見ながら、女も上着を脱ぐと、もう一つ大きいサイズの服を着た方がいいんじゃないかと言いたくなるようなくらい、七分袖から出た腕がなんともむっちりとしている。茶色に染めた髪は何度も染めているためか、色が抜けてしまって金色にも見え、生え際のあたりの黒い地毛が見えるのが、あまりにも色が違いすぎているため、なんだか品が損なわれていて見苦しい。
 甘い物は苦手なので、と言ったけれど、女は「いいから何か頼みなさい」と急かすので、仕方なくコーヒーゼリーを頼むことにした。そんな風に躊躇いがちな様子もまた、可愛いと思ったのだろうか、女は上機嫌な様子で頬杖をついてにこにことしている。
 「ドリンクバーにしたから、好きなだけ飲んでいいのよ」
 心から悪気なく言うものだから、葵生は拍子抜けしてしまって、
 「じゃあ、俺、行ってきます。何にしますか」
と、つい優しくしてしまうのだった。女は、
 「お願いしてもいいの。じゃあ、私はコーラ宜しくね」
と、無邪気な様子で言う。葵生は微笑みを返して、席を離れて、女の分のコーラと自分のコーヒーを入れて戻ってきた。
 「コーヒーゼリーを頼んだのに、コーヒーを飲むのね。変な子」
 そう言って大きな口を開けて笑うのが、もう全く慎ましやかでも上品でもなくて、ショッキングピンクの口紅が歯にべっとりとついていて、もう目を逸らしたくなるけれど、葵生はそんな女に圧倒されてしまって、きょとんとその姿を見詰めるだけだった。
 どういう風にすればいいかも分からなくなって、葵生は誤魔化そうとコーヒーを一口飲むと、その様子をじっと見ていた女は、
 「へえ、砂糖もミルクも入れないんだね。大人だねぇ」
と、感心している。
 「俺はもう、大人ですよ」
 葵生はそう言って、もう一口飲んだ。あの胡蝶の彼女がそうやって飲んでいたから、あれから葵生もコーヒーには何も入れずにブラックで飲むのが習慣になっていたのだが、改めて他人に指摘されると、思い出さないようにしていたことが鮮やかに浮かび上がってきて、急に切なくて憂鬱な気分になっていく。
 「そうだよねぇ、もう大人だもんねぇ。こんないい男、滅多にいないよ」
 親ほどの年の差があるだろうけれど、自分の母親はこうも豪快ではないので、女の年齢を推し量りかねていた。かといって、ずばり年齢を聞くというのはあまりにも失礼かと思って、
 「子供のように思われては、と思っていたけど、男と思ってくれたんですね」
と言ったのは、あまりにも艶かしい言葉ではないだろうか。案の定、女はこれ以上にないくらい照れてしまって、まるで少女のようにもじもじしながら顔を真っ赤にさせて、
 「やだ、もう。私なんて、もう四十なのに」
と、しどろもどろになりながら言う。それを聞いて、
 「なんだ、うちの親よりも大分年下じゃないか。母さんの方が余程若く見えるから、どうなんだろうと思っていたけれど」
と、少し安心したような気持ちになるのは、一体どういうことであろうか。女はこうして見ると、四十の割には少々老けたように見えるものの、仕草はまだ若々しい。少々体型は崩れかけていて嫋々さや色っぽさはないけれど、見ようによっては可憐にも思える。同世代くらいでは、とてもこういった風采の女はいないだろう、と思うとなんだか新鮮に思えてくる。
 憂鬱な気分が少しずつ解きほぐされていく不思議な感覚に、葵生は久しぶりに今日はよく笑っていたようだと感じていた。


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