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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第54回   第二章 第十話 【水葵】3
 裏庭まで来てここの緑の木々は秋になると黄色く色づくんだっけと思い出すと、胸に浮かんだのは、昔、恋しい人を連れてここに来て一緒に眺めたいと何度も空想したことだった。よくも枯れずに溢れ出てくる涙をハンカチでしきりに押さえているうちに、すっかり濡れて湿ってしまったからもはや役に立たなくなってしまい、滲んだ目のまま葵生は空を見上げた。こんなに苦しくて悲しくて恋しい人を思って切なくて堪らないのに、空の色は相変わらず青くて白い雲がそこに浮かんでいて、同じ空の下にあの人がいるのだと思うと、こうして隔てられているのがあまりにも無情ではないかと、運命を恨んでしまう。
 鞄の中に入っていた輪ゴムで髪を一つに括ると、首元に風が当たってひんやりと気持ちが悪かった。今日のうちに髪を切りに行くとしても、それまでの間はこうしていようと思い、慣れない髪形に違和感を覚えながらも耐えることにする。それにしても、こうして髪を一つにまとめると、細かなところさえ見逃してしまえば、相変わらず美しい背の高い女性がそこにいるように見えるのだから、艶やかさだけは少しも劣っていないようである。
 だらしなく外に出していたカッターシャツを中に入れ、学生服を下に引っ張って伸ばすと、汚れて白っぽくなった部分を指先で擦ってみたが、なかなか消えそうにない。まるで心の中を表しているかのようで、葵生はむきになって何度も擦り続けたが、そのうちに苛立って投げ出すように止めてしまった。
 教師と約束したからには授業に出るためにも、もう行かなければならないが、ここで彼女に塾を辞めると告げたことや、彼女に触れたことなど様々なことを思い出すと、もう一度あの時に戻りたい気持ちになり、せっかく乾きそうになっていた涙がまた目に込み上げて来る。
 教室に行くと、髪を一つに纏め、目を少し赤く腫らした葵生を見た友人たちが驚いて訊ねて来たが、
 「ちょっと寝不足とものもらいで保健室に行っていた」
と適当な嘘を吐いた。校門での出来事を知っていた者もいたが、気を遣って触れないようにしているのではなくて、葵生の嘘に騙されていたのか騙された振りをしているのか。
 髪を下ろした葵生は、近頃ではすっかり少年らしさよりも男としての色気を感じさせるものになっていたのだが、こうして一つに括っていると女性とも見紛うほどの妖しさがあるのだから、同じ人間だというのに不思議なものだと思っていた。ただ昔と違って背丈も随分伸びてしまったし、顔つきも段々精悍なものへと変化しつつあり、無精髭がちらほらと目立って随分と大人に近づいたものだと、毎日見て見慣れているはずなのに、はっと気付いたのだった。
 そういえばこの約半年ほどの間に葵生は急激に大人びて、女を惑わせるような妖しさを身に纏い、低く響く声に思わず惹かれてしまいそうなほど変わった。そんな葵生に惹かれる女は多くいても、葵生が選ぶ女は一体どういった人なのだろうと、かつて同性から告白されたらしいという噂が流れていたこともあっただけに、口には出さないが色々と想像をしていたものだった。
 椿希のことを知らない男たちだが、そういう相手がいるのではないかと専らの噂だったので、さてどういう容貌なのだろうかという興味は尽きないままでいる。
 
 葵生は教師との約束通り、ちゃんと授業も出たし、今すぐに直すことの出来る身だしなみは整えたのだが、教師にも指摘されたように、意識までは変えることは出来ず、上辺をどうにか繕った程度に過ぎない。高校を卒業する資格を得なければ、大検を受けなければならないのだから、そういった面倒な手続きを踏むくらいなら、気乗りしないなどと言っていられないし、葵生も元来真面目な性分なのでそんなに授業をふけることばかり考えてもいない。
 放課後になって補習という名の受験対策のための特別授業があるのだが、それは単位には関係がないからと言って、さっさと下校してしまった。強制力がないために教師も無理矢理出ろとは言えないし、予備校や塾、家庭教師などでこの補習に出ない者も他にいるのだから、誰も何も言うことはなかった。
 ぱらぱらと下校する同級生たちがいて、ところどころに部活動に励む中等部や高等部の一、二年生の姿や声がする。高等部に進学してからは一応中等部からの引継ぎで籍を置いていたものの、これといった活動をした覚えはない。だから先輩のことは知っていても後輩といえば中等部の時の後輩程度しか知らず、新しく入った部員のことは名前すら覚えていない。
 光塾に通うようになって、塾で忙しいというよりは塾の方が生活の中心になっていったため、いつの間にか幽霊部員となってしまっていたのだが、もしあのまま高等部においても部活動に励んでいたら、もしかすると今のように荒んだ自分ではなかったかもしれないと、ぼんやりと思いながら校門を通り過ぎた。体育館からはまだボールの弾む音が聞こえないけれど、もし聞こえてしまったらますます感傷的になって、せっかく塞ぎかかっている傷口がまた広がりそうだったので、葵生は早足で学校を後にした。
 車が大通りを駆け抜け、後ろから来る何台もの自転車が徒歩の葵生にぶつかりそうになりながら通り過ぎていく。感傷的であると同時に苛立ちもある葵生は、そんな自転車の搭乗者に向かって睨み付けるような鋭い視線を送り、煙草をふかしながら偉そうに歩く会社員に向かっては、擦れ違いざまに威嚇するように顎を上に上げて歩いた。
 近年の十代による少年犯罪が増えているだの、いじめが増加しているだの、盛んに報道されているけれど、大人だって自分勝手じゃないか、他人の迷惑も顧みず路上駐輪路上駐車、人通りの多いところで自転車を飛ばしたり、路上喫煙をしたり、なんで責められなきゃいけないんだ、と言いたい。最低限のルールもマナーも守れないような大人のくせに、やたらと子供を縛り付けたがる、子供にはまだ早いと言って行動範囲を制限する、ああなんて愚かなんだろう、と葵生は厭世的な思いが膨らみきってしまっているだけに、論点がずれようとも構わず大人への恨みつらみを心の中で吐き出していた。
 しかし朝方言われたことももっともなことと思うと、葵生は惑乱してしまいそうになる。心がいくつもに分かれて、それぞれ戦っているような感覚で、本来の葵生の考え方に近い方が勝っているときには冷静な判断が下せるのだが、時折他人に対してひどく攻撃的になる心が勝っているときには自棄になってしまっていて、何をしでかすか分からない。だが、ここではたと我に返ったときになって、後悔の念と自嘲癖が姿を現して自分を責め立てるのだ。

 どこで髪を切るか僅かに考えたが、学校のすぐ近くというのは誰かに見つかりやすくて、誰かに見られるというのも少々気恥ずかしいし、家からの最寄だと古くからの知人が多くいるからそれもまた何かと面倒なことが起こりそうで、自然と足が向いたのが光塾の近くの理髪店だった。
 からん、と音を立てて入ると、何人かの客がいて賑わっているようだった。葵生は知り合いがいないか、店内の客を一人一人じっと見ながら確認していった。そんな、妙に慎重で他人の目を気にしている様子の葵生を訝しげに見ながら、店員が、
 「いらっしゃいませ」
と声を掛けた。葵生は髪を切って欲しいと告げると、中へ通された。つくづく情けないと、自分自身を罵ることを止めず、髪を切られている間もずっと、鏡の中の自分を見ては「吐き気がしそうだ」と思っているうちに、とうとう鏡を見るのを止めてしまった。
 店内は有線放送が流れ、白く光る明るい蛍光灯のお陰で店内は何もかも見渡すことが出来る。人の入りも客足は途絶えることがなく繁盛しているようで、鋏で髪を切る音や水の音などが絶えずあるはずなのに、葵生の耳にはただひたすら、椿希との思い出の言葉ばかりが残っていた。
 彼女の声はどうだっただろうか、思い出そうとしても記憶は曖昧で、ただ非常に滑舌が良いのだが柔らかさを含んだ澄んだ声だった、という風にしか覚えていないのだ。せめて夢にでも現れてくれればと願うけれど、そう上手く現れてくれるはずもなく、やはり椿希も俺のことを恨んでいるのだろうかと思う。まだ恨んでくれるならいい、何故なら心をこちらに残してくれているのだから、と別れてからもう何年も経ったかのように、諦めにも似た気持ちでじっとしていた。
 それからしばらく時間が経って、店を出るときに首元に手を当てると、髪が相当短くなったのが分かる。すっきりとしたお陰で、風が通るときにすっと涼しいものを感じられて、そんなに爽やかな気持ちではないのにと矛盾を感じて、陰気な気持ちになる。
 光塾の近くに来ていたことも忘れて通りを歩いていると、葵生ははっと息を呑んで思わず身を隠した。塾へ向かっているらしい椿希が、あの日のように灰色の制服と紺のリボンを身に着けて、颯爽と歩いている。肩より少し長かった髪は、括っていないにもかかわらず、うなじの少し下のあたりまで短くなっていて、本当にプリンスのように見えて、葵生はあの頃以上に輝いているようなのが眩しくてその場をしばらく動けずにいた。
 だが、やがて胸がどきどきと早鐘を打ち、あの日全身を駆け巡った熱い思いが蘇り、彼女を攫って隠してしまいたい思いが勝り、葵生は知らず足が彼女を追っていた。一日たりとも忘れられなかった彼女が、こうして現実に手の届くところにいると、もはや理性に歯止めが利かなくなって、葵生は駆け出した。
 「椿希」
 そう言って、椿希の手を取り裏道へと強引に連れて行った。椿希は何者か正体の分からぬ男が手をぎゅっと掴んでいるのに抵抗して、鞄で男を殴ろうと腕を振り上げていたのだが、男が濃紺の制服を着ていて、どことなく見覚えのある後ろ姿なのに驚いて結局ずるずるとそのまま引き込まれていったのだった。
 人通りの少ない路地はひっそりとしていて、背の低い建物が並んでいる。建物の影のせいで薄暗く、まだ夕方だというのに光が足りないような気がする。
 葵生はようやく振り返って椿希の手を離した。椿希は、やはり葵生だったかと安堵の表情を浮かべ、次に懐かしそうに微笑んだ。
 「やっぱり葵生くんだった。お久しぶりね。でも、挨拶にしてはちょっと手荒すぎない」
と、わざと恨み言を言うのも以前のように愛らしくて、葵生はしばらくぶりに自然と笑みが零れた。こうして正面から向かい合うと、以前は穢れなく清らかな美しさだったのに、しばらく見ないうちに匂い立つような、彩り溢れる美しさといった表現の方が正しいように思えて、葵生はもっと彼女への思いが強くなっていくのを実感していた。
 「ごめんな。表通りだと人目につくからと思って」
 そう言いながら、申し訳なさそうに微笑む葵生もまた、何とも色っぽいのである。
 「また背が伸びたね。悔しいな、どんどん差が開いていっているなんて」
 冗談めかして言いながら、椿希は葵生の顔や仕草を観察するように注意を払っていた。身なりは確かに乱れていないし、髪も整っていて以前と変わらず精悍な印象を受ける。だけど、椿希には心の中に妙に引っ掛かるものがあって、どことなく嫌な感じがしていた。
 「この何ヶ月もの間、色々考えていたよ。みんなどうしているだろう、とか、俺自身のこととか。もう高校三年生で受験生だっていうのに、そういうときに限ってどうして余計なことばかり考えてしまうんだろうな。勉強に集中したくても出来なくて、仕方ないから当てもなくその辺をぶらぶらしたりしているけど、そのたびに何か変わった面白いことはないかと探してばかりだった」
 恋心を打ち明けるような色めいたことを言っているわけではないけれど、葵生は心を込めて椿希にそう言ったのだった。見た目は美少年のようだけど、中身はもう大人の女性のようになった椿希に葵生は感動しながら、ようやく再会出来たのだから、これからはきっと何もかも上手く行くに違いないと、心が躍るような喜びで満ちていた。
 「上手く行ってないの、勉強」
 椿希が心配そうに言った。あれこれ悩んで自分の病気のことをついに話さなかったのは、受験勉強に集中して欲しかったからであったのに、葵生が何故それとは別のことで悩んでいるのかが理解出来なかった。受験に備えるために、わざわざ塾を辞めてまで予備校に通うようになったはずの葵生が、何故迷っているのかと、椿希はもどかしくて堪らない。
 葵生は、椿希のことばかり考えていて集中出来ないのだと言えず、微笑みながら、
 「ああ、迷ってばかりだ。こんなときになって、自分の進路について迷うだなんて、馬鹿馬鹿しいのもいいところだよな。なんで突き進むことが出来ないんだか、本当にさっぱり分からなかったよ。でも、今やっと分かった気がする」
と、愛しい思いを溢れんばかりに言葉に込めながら言うのが、なんとも艶っぽいのだ。少し目が潤んでいるのだろうか、きらりと光っているようで、椿希はその瞳に吸い込まれそうになっていた。先ほどまで色々と考えていたものも、その瞳の力によっていつの間にか正体を失くしてしまい、椿希は魔法にかかったかのように身動きすることも、それ以上考えることも出来なくなっていた。
 「椿希、一緒に行こう。今日くらい塾を休んだって構わないじゃないか。椿希がいつも頑張って勉強しているのは、俺がよく知っている。だから、久しぶりに二人だけでゆっくりと話し合いたいんだ。積もる話もたくさんあるし、俺たちはまだお互いのことを十分に知らないまま別れてしまったから」
と、いつになく饒舌に話す葵生もまた、半ば夢見心地でいたのかもしれない。高ぶる心は抑えきれることが出来ず、思いの丈をつらつらと吐き出していく。
 そっと椿希の顎に指を当てると、一瞬我に返ったのか、椿希は身じろぎして逃げようとしたけれど、葵生の力強い腕の方が早くて、すぐに捕まってしまった。葵生に抱き締められたまま、椿希は耳元で囁く葵生の低い声に酔ってしまいそうなほど、またも何も考えられなくなってしまった。
 「椿希、行こう」
 椿希は頷いた。それを確認すると、葵生は体を離して椿希の目を大切なものを愛でるように見詰めて、婉然と微笑んだ。短くなった椿希の艶やかな髪を指に絡ませながら、その手を彼女の頬へ遣った。その柔らかさに身が震えるほどの喜びを感じ、天にも昇る思いでいた。
 葵生は椿希の背に手を当てながら、裏通りから表通りへと出た。そうして、彼女と二人で連れ立って駅の方向へ向かって歩き出したのだった。


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