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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第53回   第二章 第十話 【水葵】2
 それにつけても、椿希という少女は退院をしたばかりの頃に比べ、日に日に調子を取り戻し、病を経てからというもの、元々の優しく誠実な気性に芯の強さが加わったように見え、まだ薬の副作用が僅かに残った、やや丸みを帯びた顔立ちは以前よりも経験を経て、懐が深くなったように感じさせられる。聖歌隊の活動は病状のこともあり、入院をきっかけに辞めざるを得なくなったため、今まで肩より少し長くあった髪をばっさりと短く切り、本当に美少年とも見まごうほどの颯爽としながらも可憐な姿は、皆が驚嘆と共に溜め息を吐かずにはいられなかった。そうとはいえ、やはり髪を切ってしまったことを残念がる男子たちも多くいたことは事実で、短くなったことで喜び色めくような様子を見せたのは女子ばかりであった。
 「短いのも似合うけど、その姿を葵生くんが見たらどう言うかな」
と、妥子がからかいながら言うと、
 「葵生くんが彼氏なら、私も意見を聞いてから髪のことを決めるんだけれど」
と椿希が切り返したので、妥子はやられたと思い、苦笑いした。おそらく今の姿の椿希を見ても、やはり悪い感想は述べないにせよ、心の中では口惜しがるのではないかと想像した。また、それと同時に葵生の知らぬ間に、椿希がどんどん変わっていくのを見ることが出来ないとは、なんて悲しく辛いことだろうと思うと、近頃涙もろくなってしまった妥子は、目頭を熱くさせてしまう。
 「噂には聞いていたけど、本当に髪を切ったんだな。似合うよ」
 英語の授業のある水曜、そう言ったのは桔梗で、教室に後から来た椿希を見るなり突然声を掛けたので、椿希は驚いて、小さくありがとうと言った。病院内での告白について、退院後日が経って椿希の心が安定するにつれ、入院のときの遣り取りがありありと思い出されるのか、桔梗に対する態度がぎこちなく、すぐに視線を逸らせてしまう。
 「それにしても、切る前に言ってくれれば良かったのに。見納めが出来なかったのが残念だよ。まあ、髪はいずれ伸びるものなんだけどな」
 そう言いながら、じっと椿希を見詰めるので、椿希は気恥ずかしくて目を合わせようとしない。
 「ごめんね」
 桔梗が腕を伸ばして、ごみを取るのを装って椿希の艶やかな黒髪に触れようとしたが、それをさりげなくかわして机に荷物を置きに行く。所在無くなった桔梗の手は、そのまま下に下ろされて、小さく溜め息を吐いた。
 桔梗は、ずっと葵生さえいなくなれば、比較対象がいなくなるから何をするにもやりやすくなる、と思っていたけれど、何故上手くいかないのかと困った様子でいる。会話の中心に桔梗がいても、存在感は葵生の方があって、常に葵生を気にしながら話すような女子学生や、葵生に意見を求める友人たちを見ていて、苛々としていたこともあった。それを表情に出すことも態度にすることもしなかったけれど、椿希までもそうなのかと気付いたときには、やりきれない思いがあった。だからこそ、葵生がいなくなった今が、自分の良さを示す絶好の機会だと息巻いていただけに、理想通りに進まない現実が歯がゆくてならないのだった。

 一年前のことを思うと、心はざわめき乱れていく。
 葵生は時折、このデパートの屋上に来ては懐かしい日々を思い返しては感傷に浸っていた。何年も昔のことではないのに、遠い日のように感じられて切なさに身を焦がし、時に涙さえうっすらと浮かべ、身の置き所のない不安定な自分をどうにか慰めていた。そしていつも、そんなことばかり考えている自分に対し、なんて年寄りじみているのだろうと自嘲してしまう。
 本当は時々気になって光塾のビルの真下まで来るのだが、教室にまで行くことはなく、すぐに立ち去ってしまっていた。というのも、やはり友人たちに何も挨拶せずに出て行ってしまったことで気が引けるのと、今のこの頼りなく情けない状態で椿希と顔を合わせるなんて、葵生の自尊心が許せなかった。
 「自尊心だけは立派にあるくせに、直そうとしないなんて最低だ」と、また自嘲するのだ。もはや自嘲するのが癖になってしまったかのようで、ここのところの葵生にはプラス思考だとか積極的だとかいう言葉とは無縁になってしまっていて、何をしていても無常の世の中を蔑み、もし経済的に余裕があるのなら椿希を拉致してどこか親の手の届かないところへ逃げて行きたいとばかり思っている。
 デパートの屋上は、人が全くいないという状態にはならないが、それでも街の喧騒から逃れるには十分で、葵生はここへ来て懐古の情に耽るのだ。なんて女々しい奴だと桔梗に罵られそうだと思うが、それすらも懐かしく思えてならず、そう言ってもらえるならば言ってもらいたいと思う。この屋上から見る景色のどこかに椿希がいるのかもしれないと、見つかるわけもないのに探してみたいという思いに駆られて、いつも何をするわけでもなく屋上から下の景色を眺めているのだ。

 一年前、椿希の歌を初めて聴いた。光を一身に浴びて、凛々しくも眩しく映った彼女を見て、改めて心惹かれたものだった。あの細い体のどこからあのような力強く芯のある声が出せるのだろうと不思議に思い、その清らかで美しい顔の向ける遥か遠くに自分がいたらと願ったものだった。
 そのようなことを思い返すにつけ、やはり手放すべきではなかったと今更になって後悔の念ばかり思い浮かぶ。勉強も手につかず、成績は思った通りどんどん下がっていた。鬱々と過去の慕情に暮れるばかりでやる気が湧かず、このままでは埒が明かないので無理矢理勉強机に向かえば、いずれどうにか捗ってくるだろうと期待していたが、それは三十分と持たずにすぐに余計な感情が入り込んでくる。
 ならば、堕ちるところまで堕ちてしまえばいいと自暴自棄に思うと、葵生は予備校に通いはするものの、時々授業に出なかったり、出たとしても家には真っ直ぐに帰らず寄り道をしたりと、かつての光塾の仲間が見れば驚き呆れそうなほどの変わり様であった。かつては英雄同然に噂されていた栄光の人がここまで変わるものなのかと思うほどで、桔梗などに罵られれば立ち直ることが出来るだろうかと、妙なことばかり思いつく。そうしてまた、葵生は自嘲するのだった。
 椿希が見ていないのにどうして頑張ることが出来るだろうか、椿希がいないのに目標など定められるだろうか、などと自分の心の在りようを彼女のせいにしてしまう。だが椿希がいないのは彼女のせいではなく、別離の道は自分が選んでしまったことなのだから、葵生はとてつもない悔恨に心を支配されてしまっていた。
 寂しい、苦しい、切ない、会いたい、そんな思いばかりが駆け巡るが、今の葵生を見た椿希は一体どういう反応をするだろう、どういう言葉を掛けるだろうか。立ち直るのは自分自身の気の持ちようなのだと分かっているが、負の暴走を止められず諦めきっている葵生は、椿希に会うということは心の本音に矛盾しているが、最も恐れていることだった。心の弱さのせいでこうなってしまった葵生を見て、自業自得だと嘲るかもしれないし、叱咤するかもしれないし、あるいは無言で立ち去ってしまうかもしれない。それが、葵生にとって計り知れない打撃を与えることは間違いないのだから、偶然でも道端で彼女に会うということは、あってはならないことだった。だから、葵生は遠くから椿希の姿を見ていたいと思う。
 そのくせ彼女に触れた日のことを思い、あの時にせめて思いを打ち明けて彼女から何らかの言葉をもらっていれば、たとえ離れていてもその言葉を頼りに、どうにか真っ直ぐに立っていられただろうと、居た堪れなくなって、涙がまた溢れてくる。たとえ断られたとしても、それなりに気持ちの整理をつけられたかもしれないのだから、やはりあの時に言葉で伝えるべきだったと、葵生は繰り返し思っている。
 恋しい人は、今頃どうしているだろうか。少しでも自分のことを思っていてくれれば嬉しいが、彼女の気質から自分のように落ちぶれてはいないだろう、きっと前向きに受験勉強に取り組んでいるのだろう、と様々に想像をしてみる。決して丈夫ではない彼女の健康状態も気掛かりであるし、離れ離れになってからも葵生が椿希を思い遣る気持ちは、ますます強くなるばかりであった。

 葵生は高校三年生になったというのに、いけないと知りつつ悪い仲間と共に遊ぶことが多くなった。夜遅く帰宅するのは自習のせいにして、髪がぼさぼさで乱れていても、母親はなりふり構わず勉強しているのだと思い込んでいたため、葵生は誰からも咎められることなく遊び続けた。息子に甘い母親を欺くのに全く罪悪感などなく、むしろいい気味だと思っている。成績表は一切見せることなく、さも受験勉強は順調であるように見せかけた。
 小遣いが足りなくなったら、その時は単発のアルバイトで稼げば簡単にお金が手に入った。一日中カラオケボックスに入り浸ることもあれば、ゲームセンターの騒音に囲まれていることもあり、悪友たちと共にいる間は何もかもを忘れることが出来、やがて癖になっていた。
 悪いとは言っても、葵生は決して犯罪に手を染めることだけはしなかったのだが、もしかするとそれはすんでのところで、かつての恋人や友人たちの存在が脳裏にちらついたからかもしれない。そういうものに誘われそうになったときには、うまく口実を作って逃げていた。あと少しで法に触れるようなことをしていたかもしれないと思うとぞっとしたもので、その後自分のやっていることに対し、つくづく情けなく思った。
 悪友の一人が警察に補導されたと聞いたときには、流石に身の危険を感じ、それ以来その仲間たちとたむろすることはなくなったが、一度崩れてしまったものは雪崩を打ったように形を失わねばならないものなのか、葵生はしばらくの時を経て再び夜の街を出歩くようになった。
 それでもなお、虚しい気持ちは埋まるはずもなく、月影に揺れる自分自身の影を見つめながら、さめざめと泣き、弱い自分と情けない自分を呪った。
 「椿希、助けてくれよ」
 そんな弱音ばかりを吐く葵生は生き地獄を味わっているような心地で、この世界を漂うようにふらふらと彷徨っていた。もうこうなった以上、自分などこの世に生きていても甲斐がないから、いっそのことと思って手を掛けることを色々と思いつくのだが、そうなった後でこのことを知った椿希がどれほど嘆くかと思うと、とても本当に行動に移そうなどとは思えないのだった。

 葵生の素行があまりにも悪いため、生活指導の教師は交代で校門にて待ち構えていて、今日こそは一体何があったのかを問い詰めねばならないと、意気込んでいた。葵生がまる一日学校に来ないことはないので、ここで待っていれば必ずいつかは現れると思った教師は、じっと駅の方向を見ていた。
 今日はちゃんと一時限目に間に合うようにしたのか、ゆっくりと、着崩した学生服の学生がこちらに向かって歩いてくるのが、間違いなく夏苅葵生だった。
 それにしても羨ましいくらい整った顔立ちで、こんなにだらしない格好をしているというのに、それがまたどこか色気があるように思われる。教師という立場上指導せねばならないのだが、普段はいくらこういう格好をしていても構わないのだから、許してやりたいという気持ちが全くないわけでもない。そもそも校則の厳しい学校ではないのだから、こんなことで指導したくないのだが、こんなに授業に出なかったり遅刻早退の多かったりする学生は夏苅葵生くらいのものだから、何か事件に巻き込まれているのではないか、家庭環境に変化があったのではないかと、鬱陶しいと思われても聞かねばならないことは山ほどあるのだ。
 葵生は校門の近くで立つ生活指導の教師がこちらをじっと見ているので、何用かあるのだろう、とおそらく自分の素行についてだろうとある程度予想しながらも、敢えて逃げることはせずに、何食わぬ顔で校門を通り過ぎようとした。
 「夏苅、ちょっと来い」
 やっぱり、と心の中で呟くと、皆がちらちらとこちらを見ているのに気付きながら、葵生は「分かりました」と言って教師の後をついて行く。少し前なら、こういう状況にあって恥ずかしいだとか、なんて情けないと思うのだろうが、感覚が麻痺してしまっているのだろうか、後で噂になるかもしれないとぼんやりとは思うものの、それは大した問題ではないように思われ、葵生はなんとなくそれもまた運命かなと、うつろな思考をめぐらせた。
 まだ授業の始まる前なので、小さな個室に通されると、やがて担任教師もやって来た。夏苅葵生は不貞腐れた様子もなく、反抗するような目つきでもなく、何か違法薬物に手を染めたような挙動不審なところもなく、ただ大人しく座っているところはまさしく普段と変わらぬ一人の学生の姿だった。
 肩に届きそうな長さの髪は櫛も通るのだろうかと思うほど傷みが激しく、何度も染めたり色を抜いたりしたのだろうと思われ、結局黒髪に戻したものの、まだらに色が抜けて茶色い部分を覗かせている。顔にはところどころにきびが見られ、肌も荒れて若さの象徴たる艶もない。髭の手入れもまともにしていないのか、ところどころ伸びているのが見られる。
 こうして向き合って正面から見ると、ある程度は担任教師から話を聞いていたものの、思った以上に良くない状態にあるらしい、と生活指導の教師は思った。制服を着崩しているのは知っていて何度か見つけたときに注意していたが、近くで改めて見ると、制服のことなど小さな変化で、葵生の容貌の変化こそが生活が乱れている証ではないかと長年の経験から思った。
 「夏苅、最近授業も時々出ないでいるそうだが、何をしているんだ。まあその格好を見れば、お前がどういう生活習慣でいるのか、大体見当はつくんだが、教えてくれないか」
 元来夏苅葵生が問題児だったという報告は受けていないので、責めるようではなく、教えて欲しいというように教師は言った。
 葵生は視線を逸らすこともなく、だがどこか寂しそうで申し訳なさそうに瞳を揺らした。意識したわけではないのだが、葵生は時々そういう風に物思いに沈むたびにそのような目をする。
 「夜、街で友達と遊んでいます。授業はつまらないから出ないんじゃなくて、自分でも色々迷いがあって、考え事をしているので出ていませんでした。すみません」
 ゆっくりと、しかししっかりとした口調で言ったので、教師二人は互いに顔を見合わせて何かを考えていた。やけに素直に言ったものだという思いと、おそらくそれが真実なのだろうが、そうであるとしても夏苅葵生がそう簡単に物事を投げ出すような短慮な性格ではなかったことを思うと、この言葉を真に受けて納得するわけにもいかない。
 「迷いや考え事というのは、進路のことか」
 高校三年生といえば、家庭の事情以外で思いつくのはそういったことでほぼ間違いなく、過去にもそういう学生は少なからずいたし、心に圧力がかかって通院する者もいたのだから、珍しいことではない、というのを含みながら担任教師が言った。
 「確か夏苅は医学部を希望していなかったか。前にお母さんと交えて三者面談になった時にも言ったと思うが、二年生の成績のままで行けば、十分あの大学の医学部は合格圏内なんだぞ」
 何を迷っている、と言いたそうな担任教師の心の内が見え、葵生は申し訳ない気持ちになった。自分でもそれはよく分かっていたし、確かに今でも医学部に行きたいと思っていて、進路変更するつもりもないのだが、そう思う心とは裏腹に、闇の中で深く悲しみに沈む心がそうはさせまいと、葵生の心を引き摺り込んで行くのだ。
 こんな気持ちはおそらく理解してもらえまいと、葵生は胸を突き上げるような苦しみの中で、やっとの思いで言った。
 「先生、ご心配おかけしてすみません。ちゃんと授業には出ます。髪も散髪して整えてきます。ほんの少しの気の迷いで乱れてしまいました。本当に、すみませんでした」
 本人がそう言った以上、約束を守って改めるというのなら許してやりたいのだが、果たしてそれで夏苅葵生の心の深いところまでが元通りに戻るかというと、何年も教師をしている勘がそうではないと訴え、心の中を疼いている。
 「なあ、夏苅。教師を何年もやっているんだから私はお前がいくら外見を元に戻したところで、お前の意識までが変えられるかといえば、そんなことはないと分かっているよ。ただ、まずその身だしなみを直してそこから整えていくことには賛成だから、早速やりなさい。
 夏苅は確かに中学生の頃は可愛い顔に似合わず、色々と陰ではやんちゃなことをしていたようだが、それでもお前はやるときはやる男だったし、やっても良いことと悪いことの分別をきちんと弁えている奴だから、私もうるさく言わないつもりでいる。
 ただ、よく肝に銘じておきなさい。今しか出来ないことはたくさんあるけれど、今やらなければ将来出来るはずのことも出来なくなってしまうかもしれないということを。今得られるものは簡単なものばかりで、簡単に手に入れたものは大切にはしないだろうが、我慢して苦労してやっと手に入れたものは、そのありがたみや大切さが、やがて身に染みて分かるものだ」
 葵生は今にも泣きそうなほどに目を潤ませているが、残された自尊心でどうにかこらえている。久しぶりに胸が潰れそうなほどに心に響いたのと同時に、話すことの出来ない事情がつかえていることがなんとも苦しくて堪らない。
 もう行きなさいと言われて部屋を出ると、顔を誰かに見られないよう俯き伏せながら、急ぎ足で裏庭の校舎から目立たぬ場所へ向かった。


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