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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第52回   第二章 第十話 【水葵】1
 椿希がまもなく退院することが出来るらしい、と妥子からの連絡を受けて、藤悟は約二週間半ぶりに病院へと向かっていた。三月に入って少しずつ暖かい日が増えてきたけれど、まだ油断のならない冷たい風が吹くことがあって、しっかりと防寒のためにマフラーを巻いている。
 大学がないので定期券も切れてしまっているが、退院前に是非とも椿希に会っておきたいと思った藤悟は、受験前で多忙だった家庭教師のアルバイトも落ち着いた頃を見計らっているうちに、とうとう退院が明日に迫る日になってしまっていた。だから、今日は何が何でも行かなければならないのだった。
 広いキャンパスの端の方にある大学病院までは、用もないのに行く学生などほとんどいない。医学部の学生が、時々行っているだとか聞いたことはあったけれど、それでも講義棟から離れたところに建っている病院なんて寄り付く理由もない。
 近道をしようと思って、病院の敷地内の遊歩道のある庭園を通っていくことにした。遠目から見ていると、上着を羽織った入院着の患者たちが連れ立って歩いていたり、車椅子を看護師に押してもらっていたりしているのが見える。冬の茶褐色の景色から少しずつ緑色が増えていって、色合いも変わったけれど心なしか患者たちの顔色まで良く見えるようである。
 たんたん、と階段を駆け上がって庭園のところまで来ると、その広々とした花壇の脇のベンチに座るのが、見間違えようもなく椿希その人だったので、藤悟は驚いてまた駆け出した。明日退院だから、この景色をもう眺められないのが名残惜しくて出ているのかもしれないけれど、まだ抵抗力のない状態ではないか、と心配して眉を顰めた。
 名前を呼ばれた椿希は、はっとして顔を上げた。知らず物思いに耽っていた椿希は、視線が下に向いていたことにも今更になって気付いて、少し顔を赤らめた。隣に立っていたのが藤悟だと気付くと、尚更気恥ずかしくて身づくろいをした。
 「久しぶりだな。良かった、顔色も随分良くなったな。退院おめでとう」
 藤悟がにっこりと笑いながら言うと、椿希も微笑んだ。
 「入院するのは、これが最後であるといいなって思うんだけど、この場所は好きだったから」
 椿希はそう言って、慈しむように庭園を眺めていた。冬の間、この病院にいたけれど寒いのであまり散歩出来なかった庭園だったが、ようはく春めいてきて外に出られるようになったと思った矢先に退院が決まったので、少しばかり残念なようであった。春の花が花壇からちらほらと蕾をつけていたり、気の早いものはもう鮮やかな色を通り過ぎる人々に見せていたりと、心和む風景を飽きることなく椿希はここのところ、毎日眺めていた。
 「ここに来るようになったのは最近だけど、ここに来ると、私はいつも力をもらえるの」
 椿希が視線を変えて別の方に向けるのを藤悟が追うと、点滴を腕に差して引きながら歩く少年の姿があった。まだ中学生くらいだろうか、色白の華奢な体でゆっくりと歩くのは景色を眺めるためではなく、ゆっくりでないと歩けないからなのだろう。また、まだ物心もついていないくらいの子供が、まさにぽてぽてといった感じで母親の元へ歩いていくけれど、その格好を見ていると、その子供がどうやら入院患者らしいことが分かって藤悟は愕然とした。
 「ここにいるとね、一人で闘っている気にならずに済むの。みんな仲間だって思えた。お互いに、早くここから卒業することを夢見て応援していた。でも、庭園にいると嫌でも聞きたくないことまで知ってしまうから、時々行くのを止めようかって思ったけど、やっぱりここに行かなくちゃいけない気がした。だって、誰か一人が行かなくなるとみんなはこう思うから。『ああ、きっともう闘わなくていい穏やかな世界へ旅立ったんだ』と」
 さらっと、まるで他人事のように言った椿希に藤悟は驚いた。椿希はまさしくここから晴れて卒業出来る、しかも元の世界へ戻って行くことが出来ると皆から祝福してもらえる立場ではないのか、と藤悟は椿希の横顔を見ながら深層の部分の思いを探ろうとしていた。
 「弱音を吐いてもいいですか」
 椿希は視線を藤悟に向けることなく言った。少し俯き加減で何を見詰めているのかも分からないような、弱々しい顔をしている。痩せただろうか、と藤悟は思った。薬の副作用で顔がふっくらとしていたのが、また元のようにほっそりとした顎の稜線が見えるということは、もう薬の量もかなり減ったということなのだろう。ただこんなに抜けるような白い肌だっただろうか、と思うと不安に駆られてしまう。
 「本当のことを言うとね、退院するのがすごく不安。出来るだけ入院している間も、変わらない生活をしようと心がけてはいたんだけど、これから現実に戻っていくっていうのがすごく怖い。それは私の健康状態がどうこうっていうことじゃなくて、なんだか独りっていう気がして」
 帰っていくときに手を差し伸べてくれる人が葵生だったら、と椿希は思っていた。なんの躊躇いもなく彼の後を追って、また日常生活に戻っていくことが出来るだろうけれど、それまで狭い世界にいたのが、急に広い世界へと投げ出されるとなると不安になる気持ちは分からないでもなかった。
 「だけど、椿希はずっと入院しているわけにはいかないだろう。妥子ちゃんも、友達も、俺も待っているんだから」
 そう言いながらどきどきと胸を打つ藤悟の心は、急に大人の女性へと変わったような椿希への思いで溢れそうになっていた。こんなにも椿希は綺麗だっただろうかと、気付かなかったのはあまりにも近くにいたせいだろうか、それとも妹のように思っていたせいだろうか。ベッドの上の椿希はいかにも儚げで露のように消え入りそうだったが、伏せ目がちに言う椿希は外の世界に怯える深窓の娘のように思えてならない。
 ただ黙って、何かを考えているような椿希だったが、藤悟を見て微笑んだ。
 「うん、そうだよね。私らしくないなって思いながらも、ずっとそのことばっかりで悩んでいたわ。ありがとう。やっぱり、藤悟くんは私の二人目のお兄ちゃんだね」
 ずっと泥沼に嵌ったかのように悩みぬいてきた椿希にとっては、たった一言「待っている」と言ってくれたことで、本来の朗らかで快活な性格が椿希を何もかも元通りに変えていくのだろうが、藤悟にとってみればその最後の一言で切なくなった。
 「俺はいつまで経っても、榊希の代わりでしかないのかな」
 椿希は小さく驚いたような声を上げたが、藤悟は微笑みを湛えたまま表情を変えようとしない。空耳だったかと思ったけれど、気のせいだとしてもなんだか体が疼くので、椿希は左手を胸のところに遣って落ち着かせようとした。
 「さあ、そろそろ部屋に戻ろうか。あまり長いこと外にいては、退院が延びてしまうかもしれないからな。調子が良かったら、どこか喫茶室でも入ろうか」
 藤悟がそう言って何事もなかったかのように言うものだから、椿希はやはりさっきのは自分が兼ねてからそう言って欲しかった願望が、まるで本当にそう言ったかのように聞こえたのかもしれないと思うことにした。だが、心はもう今は違う方向へ向いてしまっていることもあって、どきりとはしたものの、嬉しいという感情は芽生えなかった。
 二人は連れ立って建物の中へ入っていった。それからも取り留めのない話をしていたが、これといって取り上げるような内容のものでもなかったので省略することにする。ただ、周囲からすれば年頃の男女ということもあって、彼氏が彼女の入院見舞いに来ているのだろうとしか見えなかったようで、二人が喫茶室で色々と話して笑い合うさまを、微笑ましく思っていたのだった。
 藤悟も優美な風采の好青年で、妥子や桔梗ほど頻繁ではなかったけれど見舞いにはたびたび訪れていたこともあって、看護師たちからももう顔を覚えられていたのだった。
 桔梗も藤悟も友人である、と椿希が説明していたこともあって、椿希の前では看護師たちも噂話をすることはなかったけれど、裏ではどちらが本命なのだろうかとひそひそと話し合われていたのだとか。全く余計なお世話といったところだけれど、どこへ行ってもとりわけ恋にまつわる話はとびきりの盛り上がりを見せる話の種だった。友達と言っているけれど、きっと男二人は椿希目当てで得点稼ぎに来ているに違いない、どちらの方が似合いだろうか、自分ならどちらを選ぶか、などと話題は尽きなかった。
 看護師たちから人気が高かったのは藤悟だった。優しい口調や鷹揚な態度、穏やかな微笑みはそこはかとなく品を感じさせ、育ちの良さが伝わってくるようで、仄かな思いを抱いては彼の訪れを密かに待つという者もいたのだから、思わぬところで罪作りな男である。
 喫茶室を出ようとするときに、会計で藤悟がまとめて払おうとすると、椿希がそれを制した。
 「だめだめ。藤悟くん、もうじき誕生日でしょう。こんなお祝いなんて可愛げがなくて申し訳ないんだけど、高校生っていう身分柄許してくれるかな」
 そう言って、椿希がさっさと財布の中からお札を出して、会計係ににっこりと笑ったので、会計係もそのままレジを叩いてしまった。藤悟は財布を広げたまま、「ああっ」と声を上げた。椿希は釣銭を受け取ると、素早く小銭を財布の中に流し込むように入れた。その鮮やかな手際といったら。
 「今、椿希が『プリンス』って呼ばれる理由がようやく分かった気がした」
 苦笑しながら藤悟は呟いた。少し先を歩く椿希にその声は聞こえなかったのか、振り向くことなく歩いていく。幼馴染だからこそ、小さな頃からの印象が強くて見えていなかった部分もあったのかもしれないが、少し距離を置いてみると、ようやく椿希という一人の少女が大人の女性へと変わっていこうとする様が見て取れて、新しく彼女について知ることも多かったのだった。

 三ヶ月ほどの入院期間で無事に退院出来たことで、椿希はそれまで抱いていた糸が絡み合ったようなもの苦しさからも解き放たれたようで、表情もすっきりとしていた。元気だった頃は、ただもう中性的な魅力が際立っていて、華やかな凛とした美少女といった風情であったのが、こうして退院した現在となっては、何かを乗り越えた強さを得て、とにかく待ち焦がれた自由の世界に旅立とうとしているような、迷いなく洗練された姿である。
 桜の咲くのには間に合ったか、と安堵した椿希が母と共に病院を出ると、何もかもが椿希のために新しく下ろしたてのものばかりを取り揃えたかのように、瑞々しく目に映る景色全てが主張しているようであった。味気ないビルが並び建つ通りですら懐かしくて、こうして見ているだけでも普段当たり前のように歩いていたところを、慈しむ心が芽生えてきて、ほんの些細な変化でさえも椿希は見逃さずに見つけては、小さな幸せを一つ一つ見つけていった。
 久しぶりに向かう勉強机に本を広げると、俄然受験勉強に対する思いが強くなる。それまで、窮屈な病室で机などない状態で、立て膝の上に本を置いて暗記したり勉強したりしていたわけだから、机と椅子があって、これからはさぞかし捗ることだろうと、椿希はとても嬉しかった。
 以前、いやそれ以上にきらびやかで、さっぱりとした様子の椿希を見て、もう無理をしているようではないのに妥子は安堵していたが、椿希が、
 「葵生くんに謝らなくちゃね。申し訳ないことをしたから」
と言ったときには、
 「いや、それは」
と、つい遮ってしまった。けれど椿希は、
 「そうは言っても、会う術がないからどうしようもないね。携帯電話だって、お互いに持っていないわけだし」
と、残念そうに言うのだった。本当は連絡先なら、この前葵生からメールが届いていたから知っているのだけれど、妥子はそれを椿希に伝えることが出来なかった。こんなにもさっぱりとした様子の椿希を見ていると、あの様変わりした葵生に会わせることが酷なような気がして、言いたい気持ちとは裏腹に、葵生が更生するまでは決して会わせないという頑固な思いもまた、しっかりと芽生えていたのだった。
 「一緒の大学に行こうね、妥子」
 快活に言う椿希を見て、妥子は本当にこの子こそ男に生まれるべきだった、と思った。見ている人に笑みを浮かべさせるような愛嬌があり、爽やかで颯爽とした立ち居振る舞い、凛とした佇まい、傍にいるだけで華やかな空気が流れるようなさっぱりとした雰囲気を持つ椿希こそ、男であったならば葵生以上の人気を博していることだろうから。

 四月になって新しい学年が始まり、最終学年になったと同時に受験生でもあるから、気を引き締めていかねばならないのだが、まだ時間に余裕があるとして、それほど焦る様子も全体的には見られない。
 とはいえ、春休み頃からようようのんびりと過ごしていた友人たちも、塾や予備校の講習に行くようになったため、桔梗はそれをやや苦々しい気持ちで見ていた。
 光塾の塾生の人数もいよいよ大幅に増えて、いよいよ戦闘準備に取り掛かる者が増えたという実感が湧くにつれ、いよいよ自分の立場が危うくなっていくのを感じていたのだった。自分が努力すればいいとは分かっているものの、優秀な人間が次々に現れるといい気がしないものである。
 以前までは総合的に一位の成績であった葵生がいなくなって、次の最優秀者は誰かということを、常に上位には入ることの出来ない、我こそはと到底名乗り出るに及ばない者たち同士で予想をし合っていた。こういった予想をする会話には、内心は自分こそ主席を獲ってやろうと思うことはあっても、自ら進んで加わろうとはしないものだが、桔梗はそれを聞きつけて、
 「俺が葵生の代わりになろう」
と言って立候補したのだから、皆はやや呆然としてしまった。そうとはいえ、盛り上げ役たる桔梗が乗ってくれたお陰で、いつの間にやら国公立大学進学クラスの学生を除く、三年生の塾生たちがこぞってこの賭け事に興じることとなってしまった。
 厄介なことをしてくれたと苦く思う者もいれば、かえって皆に注目される方が燃えて良いではないかと思う者もいて、なんとも久々に活気が戻ってきたように見える。
 そんなことがあったけれど、その容姿も、その成績も、人の目を惹きつけて止まなかった『染井の君』がいなくなって、誰もが言葉にはしなかったがどこかしら心に空虚な思いを抱いていたのだった。だが、そのうちに分かったのだが、この四月より新たに入塾してきた何人かのうちの一人である、加賀茂孝(かが・しげたか)という人物が、新たに彼の人に取って代わるのではないかと、上位の学生たちの間で密かに噂されるようになっていた。
 決して風貌が似ているわけではないが、茂孝が塾に現れたときに多くの者が、真っ先に彼の人を思い出し、茂孝の言動に注目をするようになった。どこか物事を達観したように見るところや、口数の少なさ、はにかむような笑顔を見せたときに、ふっと力を抜くように見える癖、そして何より茂孝が真っ先に親しくなったのが椿希であったことなど、まるで本当に彼の人が戻って来たかのように思えてならず、それが不思議と皆の心を安堵させた。
 茂孝は桔梗や笙馬と同じ公立高校の出身で、特に笙馬とは同じ文系同士ということもあって、よく知る間柄ではあったらしく、塾に馴染むのも、とても速かった。
 茂孝が文系選択ということは、椿希と同じ授業を受けることでもあったため、親しくなるのもまたとても早かった。彼の人が苦労して築き上げた友人への地位へ、茂孝はわずか二週間ほどで辿り着き、何も知らぬ者が見れば、その間柄を疑いかねないほど椿希の近くにいることが多かったのだった。中にはそれを快く思わない者もいたが、そうなってしまうのも仕方のないほどの有様だったのだから、周りからの多少の嫉妬も当然のことであろう。当の椿希はというと、他の友人たちと変わらず接している代わりに茂孝だけを取り立てて話し相手としているわけでもなく、彼女の心中を探る周囲の好奇心は結局、判断のつけられぬままであった。


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