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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第51回   第二章 第九話 【霜柱】6
 それが恋だったのか分からないけれど、妥子は藤悟に少しずつ心が惹かれていくような感覚を確かに感じていた。笙馬とはもう随分と長い付き合いだから、笙馬の好きなことや苦手なことも把握しているし、何を考えているのかもなんとなく分かる。だけど、心がときめくような甘酸っぱい思いをしたのは初めてで、妥子は少しばかりの罪悪感と、多くを占める幸せな気持ちで少々浮き足立っていた。いつもの、姐御肌の妥子からするととても考えもつかないようなありようではあったが、やはり妥子もまだ十代の少女なのだから。
 先ほどまで藤悟と喋っていた、ということを大切な思い出のように妥子は何度も何度も繰り返し思い出していると、自然と口元に笑みがかたどられ、鼻歌でも歌いだしそうであったが、視線の先にいた人物を見て妥子ははっとした。赤本や問題集を手にとっては戻している、その人物を見て妥子は目を疑った。
 今日はやけに人に出くわす、と冷静さを取り戻した妥子は本当にそれが自分の知る人物なのかを確かめにゆっくりと近づいた。妥子の知るその人は、もっと輝かんばかりの雰囲気を纏い、圧倒するかのような妖艶な美貌を放っていたはずだった。本当にそうなのだろうか、と信じられないような気持ちでいたが、近づくにつれてやはり間違いないと確信して、妥子は途端に夢見心地な気持ちも一気に冷めてしまった。
 「お久しぶり、葵生くん」
 その人、葵生は声に気付いて振り向いた。少し背丈はまた伸びただろうか、椿希と並べばもう間違いなく葵生の方が高いだろう。だが、妥子はそこに以前の葵生の姿を重ねあわせることは出来なかった。
 「久しぶり、だな」
 喉仏が動いて掠れた声が出た。
 妥子は愕然として、顔を強張らせた。目には生気がなく虚ろで、艶がなく荒れた肌は顔立ちが整っているだけに一層以前との違いを感じさせた。髪は傷んで、ろくに散髪にも行っていないのか肩に届きそうなほど伸びていた。
 「本当に、葵生くんなの」
 正面から見ると、これほどまでに酷いとは思わなかった。まるで別人であるかのような葵生の変貌振りに、妥子は言葉が続けられなかった。思わず言ってしまったのに、後悔も沸かない。
 葵生は呆然としている妥子を見下ろして、自嘲するかのような笑みを浮かべた。
 「ああ、何ヶ月かの間にこんな風になってしまって、情けないことだけど」
 あっさりと言うので、妥子はふざけるなと声を荒げたいところだったが、場所も場所なのでそれは控えた。きっと睨みつけるような妥子の視線が痛いけれど、それが当然の反応だろうと葵生は苦笑いした。非難されても仕方のないような、目も当てられないようなだらしのない格好なのだから、葵生は何を言われても反論の仕様がないと思っている。
 妥子は深く大きな溜め息を吐いて、
 「ちょっと話でもしましょう。いいわね」
と、有無を言わさぬ語気の強さで言った。妥子に説教されるのも久しぶりだな、と思いながらも嫌ではなく、むしろ厳しく言ってもらいたかった葵生にとってみれば、足取りは決して重くはなかった。

 喫茶店へと向かう間も、妥子は余計なことは一切喋ることなく、機嫌悪そうにむくれたまま、ずんずんと早足で歩いていく。それを数歩ほど後ろからついて行く葵生は、久しぶりに柊一以外の塾生に会えたことが嬉しかったのと、しっかり者の妥子に相談に乗ってもらえそうなのを期待しているのとで、久しぶりに心が休まりそうな感覚を覚えた。しゃんと伸びない背筋は猫背で、見ているだけで苛々とさせられる。
 店に入ってコーヒーのほろ苦い香りを嗅いで心を落ち着けると、葵生は椿希との遣り取りを思い出して、伸ばしかけた手を引っ込めた。砂糖もミルクも何も入れないのが彼女流だった。コーヒーの黒と、彼女の茶色の虹彩が喫茶店の薄暗い照明のせいで黒く映っていたのを、写真で撮ったかのように覚えている。
 「さて、これから色々と事情聴取しなくちゃいけないのだけども、覚悟はいいかしら」
 妥子の声が、それ以上思い出に浸るのを許さなかった。葵生は本当に妥子には敵わないと思いながら、「はい」と苦笑した。
 それから葵生はこの数ヶ月ほどの間にあった出来事を、妥子に尋ねられるままに答えていった。嘘を吐いたところで妥子には見破られるだろうからと、余計なことを話さない程度に留めて、ほとんど話してしまった。塾にいたときのことから、ぽつぽつと話を始めると、心があの頃に戻っていくようで懐かしい。
 妥子は、椿希が言わなかったことも、椿希が恐らく感じていなかったであろうことも、すっかり葵生が打ち上げたものだから、時に顔を赤らめながらも葵生の予想以上の思いの深さを知り、驚いたものだった。葵生に同情するべき点は多々あったものの、それでもこのように荒れてだらしのない姿をしているのは少しも納得が出来なくて、
 「心情的に辛かったのは分かるとしても、椿希がその姿を見たらなんて嘆くことか」
と、わざと大袈裟に言ったのだった。すると葵生は苦笑いから自嘲の笑みへと変え、
 「彼女のせいじゃないよ。俺の心が弱かっただけだ。だから、頼むから今の俺の姿は彼女には内緒にしていてくれないか」
と頼んだ。妥子は呆れて、
 「それをなんとか直そうっていう気にはならないの。もし、椿希と偶然出会ったら椿希は幻滅すると思うよ」
と言った。葵生は鼻でふっと笑った。
 「幻滅だって。彼女は最初から俺に対して深くは思っていないから、大した衝撃にもならないんじゃないかな。あの別れの日だって、俺が無理矢理付き合わせて、思いのたけをぶつけたけれど、彼女は受け入れるだけで何も返してくれなかったよ。俺もついに言葉に出して彼女に告白は出来なかったけど、聡明な彼女なら気付いているはずなのに何も返してくれなかった。あんなに薄情な人だったのに、どうしてこんなにも心が囚われたまま離れてくれないのか、忘れられないのか。苦しくて堪らないんだよ、ここから抜け出す方法があるなら教えて欲しいぐらいだ。彼女を忘れられるものなら忘れてしまいたいくらいだ」
 驚いたけれど、それが葵生の本心なのだろうと思うと葵生の言うことももっともなことなので、妥子も強くは返すことが出来そうにない。だが、椿希が冷淡だという誤解だけは解いておかなければ、先々葵生にとっても椿希にとっても不幸なことになりそうだと思って、差し出がましいかもしれないがと気をつけながら慎重に言葉を選びながら言った。
 「どうして椿希が薄情だなんて言うのかしらね。あの子はずっと葵生くんに何も出来なかったと、後悔してばかりだったのに。あの子が滅多に他人に頼らない性分だっていうことは、葵生くんもよく知っているでしょう。そんな椿希が私に、『葵生くんに悪いことをした、あんなに一緒にいたのに優しさを見せることが照れくさくて、少しも出来なかったことをずっと後悔している』って言ったのを、葵生くんにも聞かせてあげたかったよ。あの子も葵生くんと同じで不器用で、素直に心の内を見せることの出来ない子だから、思いの深さを知ることは相当難しいことだけど、思いを通わせた葵生くんなら分かってくれると、私はずっと思っていたのにね」
 妥子の告白に、忘れようにも忘れられない初恋の人は、そんな風に自分のことを思っていてくれていたのかと思うと、信じたいけれど信じられないので葵生は一点を見詰めたまま、頭を整理して心を落ち着かせようとしていた。椿希の気持ちが分からなくて苦しんだ日々、手ごたえのない恋がこんなにも辛いものだと知って、別れてからは切ない苦しみから逃れられると思っていたのに、より一層彼女への思慕が募って葵生を悩ませた。あれこれと後悔や思い出が葵生を襲って、眠りを妨げたり勉強をしていても集中出来なかったりして、次第に心が荒れていったことを思えば、愛した分だけ彼女を恨めしく憎らしく思ったりもした。
 「分かると思う。俺はあのときの彼女を、忘れることが出来ないから」
 だけど、そう簡単に彼女を信じることが出来なかった。本当に自分のことを思ってくれているというのなら、もっと早くに示して欲しかったと思う。妥子が葵生に気を遣ってそう言っているだけなのではないか、と思うと、妥子の言葉は慰めにはなっても本当の椿希の言葉かどうかは怪しいものだった。
 妥子は紙を千切って、さらさらと何かを書いて葵生に渡した。
 「私のパソコンのメールアドレス。毎日見ているわけじゃないから、すぐに返せるかどうか分からないけど必ず返すから。何か困ったことがあったら相談するのよ」
 葵生は、はにかむような笑みで「ありがとう」と言った。
 喫茶店を出たところで、妥子は「じゃあ」と言って別れようとするのを、葵生が引き止めた。葵生は少し口篭もるように唇を動かしたが、意を決して言った。
 「頼む。椿希に言って欲しい。『誕生日、おめでとう』って。俺はやっぱり、今は会いに行けないから」
 妥子は軽く溜め息を吐くと、仕方ないといった様子で言った。
 「分かった。でも、ちゃんと葵生くんが立ち直って、椿希に会いに行ってあげてね」
 入院していることを言うべきなのかもしれない。そのことを伝えれば葵生も椿希の事情から恨みがましいようなことを言うことなく、すぐさま椿希の元へ駆けつけて支えるのだろうけれど、椿希の言う「葵生自身にとって大切なことを放置してまで、こちらに掛かりきりになりそう」という心配も、確かにもっともなことなので、ついに妥子は話すことはなかったのだった。
 ただ、いくら親友の妥子のしたこととはいえ、椿希は果たしてこの遣り取りを知るとどう受け取るであろうか。椿希の本心など、結局は誰も知らないのだった。

 妥子と別れてから、葵生は予備校へ行かずに街へと繰り出した。予備校に行くふりをして、地下街や繁華街の裏道を歩くことにすっかり慣れてしまっていた。こうして腐っていくのを椿希のせいにするのは、そうすることで彼女のことを絶対に忘れないでいられるからだった。
 妥子に窘められた直後にまた、このように辿るべき道から反れるような行為をするなんて、もう今度は説教だけでは済まされないかもしれないが、混乱した心は葵生をますます荒れさせるだけだった。彼女に受け入れられなかったという自信喪失と、彼女に思いを打ち明ける勇気を持てなかったという、抵抗することも出来ず母親の言われるがまま塾を辞めてしまった後悔と、とにかく負の感情ばかりが山積してしまっていて、葵生はどうしようもなくなっていた。
 自宅には寝に帰っているだけのようなもの、勉強だってろくにしていない。学校が長い春休みであるのが幸いして、今のところ出席日数には響いていないといったところだ。
 こんな状態で成績を保てるわけがなく、あの夏の終わり、秋の始まりの頃の模擬試験を最後にどんどんと急降下していった。以前までが良すぎたのだ、と担任教師は言った。バブル崩壊、とでも言わんばかりの言い方はなんという情けのないことかと思ったが、反論の余地もない。まだ高校二年生ということもあって、調子の悪いときもあるだろうとして、母親からもあまり厳しく言われることはなかったけれど、むしろ母親にこそ成績降下の理由を追及して欲しかった葵生にとっては、ますます心を廃れさせることとなったのだった。もし母に問い詰められたなら、
 「母さんが無理矢理塾を辞めさせたからだろう。俺はあの塾との相性が良くて、その証拠にずっと成績が伸び続けていたんじゃないか」
と言い返して、塾に戻れるかもしれないことを期待していたというのに。
 伸びた髭を指先で引っ張ると顎のあたりがちくちくと痛い。髪に触れると、今にも切れてしまいそうなほど傷んでしまっていて見ていられない。椿希がたった一言書いた紙切れの存在を思い出して、引き出しの奥に大切に閉まっていたのを出して見ると、整った楷書体が懐かしく感じられて、文字の上をそっと指の平でなぞった。
 「拒否権なんてなかったのなら、俺を拒まないでくれよ」
 まるで絶望したかのような小さな叫びと共に、葵生は机の上に突っ伏した。椿希のせいでこうなったというのは、言い訳に過ぎないということは分かっているけれど、椿希を忘れずに心の中に引き止めておくには、責任を彼女に押し付けることが一番良いのだと思って、葵生はいつも、
 「椿希と出会ったから恋を知って、喜びを知って、幸せを感じたけれど、その分苦しんだし辛い思いもしたし、彼女の心を引きつけたくて悩んだりもした。そして別れた今、彼女が受け入れてくれなかったことで恨んだり、彼女に会えなくて寂しくて堪らないとも思っている。俺の全ての感情は彼女から通じている。全ては、彼女のせいなのだ」
と言い聞かせていたので、片時も彼女のことを忘れられないのだった。
 何をしていても、彼女ならばこう言うだろうか、これを選ぶだろうか、どうするだろうかということを常に考えてしまう。一緒にいたときよりも別れてからの方がずっと、彼女に対する思いを熱く深くさせているようである。
 もし、椿希のせいで葵生がこのまま没落の一途を辿るようであれば、最初から出会わなければ良かったのだと人は言うのだろうか。いや、人としての感情を芽生えさせるという意味において、やはり彼女との出会いは、葵生にとっては必要不可欠なものだったに違いない。やはり椿希は、葵生にとっては『ファム・ファタール』、即ち『運命の女』だったに違いない。

 凍えるような寒さが続き、公園の隅にあった霜柱がいかに今年の冬が厳しいものかを物語っていた。耳をつんざくように吹く風を受けながら、葵生は今日も予備校へ行くふりをして街へと向かっていた。これといった用事も、特にないのだけれど。


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